25.何事も経験(109/151)
カイツールの軍港から海を渡ると、そこはまるで別世界だった。 照りつけるような日差しに、地面近くの景色がゆらゆらと揺れる。むせかえるような熱気には少しめまいがするほどだったし、衣服に覆われていない顔の肌はちりちりと焼けつくような感覚があった。
「あちー。カイツールでも結構暑いって思ってたのに、こんなところで暮らすとか正気かよ」
流通拠点であり、キムラスカにもマルクトにも属さない、特別自治区であるケセドニア。教団と関係が深いこともあり、イオンがこの地を訪れるのは初めてではなかったが、何度来てもここの気候に慣れる気はしない。初めての暑さに辟易とした様子のルークを見て、ガイは柔らかく苦笑した。
「バチカルの屋敷は標高が高い分、涼しいからな。ま、これもまたいい経験だろ」 「いい経験かぁ? なんか口の中までじゃりじゃりすんだよな。あと、ブタザル! お前がくっつくと余計に暑いんだよ!」
ルークは腕にくっついていたミュウを鷲掴みにすると、引きはがそうとし始める。確かにミュウ自身ふわふわとした毛並みのせいで、この暑さに参っているようでもあった。
「ご、ごめんなさいですの〜! 地面が熱くて、それでご主人様にくっついてたですの」 「知るかよ!」 「ちょっとルーク、ミュウが可哀想でしょう。ミュウは小さいから、地面からの熱を受けやすいのよ」 「だったらティア、お前が運んでやれよ」 「えっ……いいの?」 「はぁ? いいに決まってるだろ。ほら、あっちいけブタザル!」 「ですの〜……」
しょんぼりと肩を落としたミュウがティアの所に移動し、反対にティアはちょっと嬉しそうな顔になる。チーグルの森でも思ったが、冷静そうに振舞っていても彼女は可愛いものに目がないらしい。ただティアの表情がほころんでいたのはほんの一瞬のことで、すぐに笑顔は掻き消えてしまった。前を歩くヴァンが、足を止めてこちらを振り返ったのである。
「では、私はここで失礼する。アリエッタをダアトの監査官に渡さねばならぬのでな」
そう言ったヴァンの腕には、今だに気を失ったアリエッタが抱えられている。コーラル城で魔物とともに待ち構えていた彼女の攻撃は激しいものだったが、他でもないイオンが助命を嘆願したのだ。二国ともと外交上の大きな問題を引き起こし、民間人をも巻き込んだため、おそらく騎士団からの除籍は免れないだろう。が、それでも命まで奪うのはやりすぎだと思う。軍人の考え方に照らし合わせればイオンは甘いと言われるのだろうが、たとえ我儘だと言われたとしてもここは譲るつもりがなかった。
「ヴァン、アリエッタをよろしくお願いします」 「もちろんです、導師」
頷いたヴァンにイオンがほっとしていると、すぐ傍でルークがえーっ! と大きな声をあげた。
「師匠もこのまま一緒に行こうぜ!」 「後から私もバチカルへ行く。我儘ばかり言うものではない」 「……だってよぉ」 「船はキムラスカ側の港から出る。領事館で聞くといい」
ヴァンは慣れた様子でルークをたしなめると、そのまま彼の妹に目を止めた。それは命を狙われたと思えないくらい自然な、家族に対するごく普通の態度だった。
「ではまたバチカルでな。ティアもルークを頼んだぞ」 「あ……はい! 兄さん……」
ティアの返事も敵意など含んでいなかったが、どちらかといえばそれは条件反射のように見えた。その証拠にヴァンが去ってしまうと、彼女はとてもバツの悪そうな表情になる。
「なぁんだ、結局ティアも総長のこと信じたんだ?」 「違うわ。ただ……ルークをバチカルに届けるのは元々私の責任だし……」 「別にお前に責任とってもらわなくても結構だっつーの。それよか、もう師匠のこと狙ったりすんなよな」 「……」
ティアが言い返さなかったことで気を良くしたのか、ルークは少し機嫌を直して領事館に向かって歩き出す。あちこちで市が立ち並び、人通りも多い中どんどんと進んでしまうので、一行は急ぎ足でルークを追わねばならなかった。
「ちょ、ルーク様ぁ、待ってくださいよ。ケセドニアはあんまり治安が、」 「あらん、この辺りには似つかわしくない品のいいお方……♥」 「あ? な、なんだよ」
人ごみを抜けて見てみれば、既にルークは派手な格好をした女性に絡まれていて、隣でアニスがそら言わんこっちゃない、とぼやく。見ず知らずの女性に突然至近距離まで近づかれたことで、ルークはぎょっとした顔で固まっていた。
「せっかくお美しいお顔立ちですのに、そんな風に眉間にしわを寄せられては……ダ・イ・ナ・シですわヨ」 「きゃう……アニスのルーク様が年増にぃ……」
実際、ルークの態度を見ていればどう考えても杞憂でしかないのだが、アニスが悔しがりながら毒を吐く。一体、彼女の玉の輿計画はどこまで本気なのだろう、とイオンがもやもやしている一方で、女性もまたアニスの発言が気に入らなかった
「……あらーん。ごめんなさいネ、お嬢ちゃん。邪魔みたいだから行くわね」
にっこりと笑ってはいるものの、明らかに口元を引き攣らせていた。ただ少女であるアニスと言い争うのは大人げないとでも思ったのか、そそくさとその場を立ち去ろうとする。
「待ちなさい」
そんな彼女を鋭い声で引き留めたのは、ティアだった。
「あらん?」 「……盗ったものを返しなさい」
ティアがそう言うと、ルークは慌てたようにズボンや上着のポケットを押さえた。
「へ? あーっ! 財布がねーっ!?」 「……はん。ぼんくらばかりじゃなかったか」
(スリ、だったのか……)
妙な人だとは思ったものの、ルーク同様、女性の目論見に気が付いていなかったイオンは呆気にとられる。正体がバレるやいなや女性はさっと笑顔を消して、盗んだ財布をぽん、と近くにいた男性に投げた。
「ヨーク! 後は任せた! ずらかるよ、ウルシー!」
どうやら三人組だったらしい。号令をかけた女性が逃げ出すと、もうひとりウルシーと呼ばれた男も後に続く。だが、ティアは女性にもウルシーにも目もくれないで、財布を受け取ったヨークという人物にナイフの狙いを定めた。そして、ナイフを避けようとして見事なくらいにすっころんだヨークの首筋に、ティアはそのまま刃先を向ける。
「動かないで。盗ったものを返せば無傷で開放するわ」
ヨークは観念したのか財布を返すと、ものすごい速さで近くの屋根によじ登った。他の二人と合流し、全員揃うと派手な衣装がサーカス団のようにも見える。
「……俺たち『漆黒の翼』を敵に回すたぁ、いい度胸だ。覚えてろよ」
彼らは最後に捨て台詞を残すと、ぱっと身を翻していなくなってしまった。その行動自体はいかにも三下という雰囲気なのだが、彼らの名乗りにみなぴくりと反応する。とりわけ、財布を盗られかけたルークは悔しがって地団太を踏んだ。
「あいつらが『漆黒の翼』か! 知ってりゃあ、ぎったんぎったんにしてやったのに!」 「あら、財布をすられた人の発現とは思えないわね」 「……」
さっきヴァンのことでやりこめられた意趣返しもあるのだろう。少し棘のあるティアの言葉に、ルークはぐぬぬと黙り込む。だがルークの生い立ちを知るティアはそれ以上意地悪する気はないみたいで、代わりにこの事態を静観していたジェイドのほうへ向き直った。
「ところで、大佐はどうしてルークがすられるのを黙って見逃したんですか?」 「やー、ばれてましたか。面白そうだったので、つい」
悪びれもせず、飄々と言ってのけたジェイドにはイオンも呆れた。頼りになる人だとは思うけれど、彼もまたときどき大人げないところがある。ここまで堂々と開き直られてはルークも反応に困ったらしく、怒っていてもその勢いは弱かった。
「……お、教えろよ、バカヤロー!」 「一度酷い目に合えば、次からは気を付けるようになります。これもまたいい経験でしょう」 「なんっか、ガイと違ってあんたが言う『経験』はムカつくんだよな」 「まぁ、旦那の場合は最初のが本音だろうからな……」
ガイの言葉も聞こえていただろうに、ジェイドはにっこりと笑顔を浮かべたまま否定しなかった。
「それでは、ケセドニアがどんなところかもわかって頂けたようですし、皆で足並みをそろえて領事館に向かいましょうか」 「わぁーったよ、もう先に行かねーって」
ルークの歩調がゆっくりになったおかげで、イオンも息を切らさず着いていくことができる。歩きながらもしかしてジェイドは自分を気遣ってくれたのだろうか、と考えていると、こちらの心を読んだようにアニスがぼそっと呟いた。
「違うと思いますよ〜」 「え」
一瞬どきりとしたが、イオンは声に出していない。アニスに対して何の話かと掘り下げても厄介なことになるだけだろう。
「そう、ですか」
イオンは曖昧にほほ笑んで、うやむやにした。それもたぶんイオンがこの短い生で身につけた、なけなしの処世術だった。
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mokuji
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