22.目的のためなら(106/151)
アッシュがバチカル貴族の血を引くのだというのは、ずっと前からフィーネも知っていたことだった。一応、神託の盾では特務以外の者には知られていないようだったが、仕事でもそうだし普段の生活においても、彼の言動には貴族らしい矜持が垣間見えることがよくあった。だが、いくらなんでもまさか公爵家の一人息子だとは思わないし、ましてや彼自身のレプリカと立場を入れ替えているなんてことは想像もしない。
ディストがコーラル城に向けて出発した後、フィーネはアッシュにどう接すればいいのかわからず、ただひたすらに彼を見張っていることしかできなかった。アッシュのほうもディストやアリエッタに指示だけして、カイツールの砦から一向に動く気配がない。もちろん旅券が無いから正攻法で進めないのはわかっているが、上空からであれば国境を超えること自体はそう難しい話ではないだろう。それなのにアッシュはイオン様たちと入れ替わるように、ここ数日は砦の簡易宿泊施設に留まったままだった。
「……行かないんですか?」
元々彼らについては、総長に任せて泳がせることになっていた。だからこうして動かないに越したことはないのだけれど、皮肉なことにただじっとしているだけというほうが不安が募る。 いい加減無言の空間に焦れてしまったフィーネが問えば、アッシュは剣を手入れする手を止め、ゆっくりと顔をあげた。
「お前こそ行かなくていいのか? アリエッタはコーラル城で仇討ちをするつもりだぞ」 「……アッシュ師団長の見張りが私の仕事ですから」
同調フォンスロットを開く都合で、アリエッタにはアッシュのレプリカ――ルークをコーラル城にまでおびき出すよう指示してあるらしい。彼女からしてみれば母親の仇を呼び出すことになるわけだから、きっと言われたとおりに事を進めているだろう。アリエッタを煽った張本人に行かなくていいのか? などと言われて、フィーネは少し気を悪くした。本当はフィーネだってアリエッタのことが気になるし、行きたいのを我慢してこの場に残っているのだ。アッシュもフィーネの気持ちくらいわかっているだろうに、まるで他人事のように小さく肩を竦める。
「そうか。だったらお前もしばらくは暇だな。俺はカイツールから動く気はない」 「……」
(今回の任務に就いてから、アッシュ師団長はずっと意地悪だ)
フィーネは心の中でひっそりとため息をつき、なんとか会話の糸口を探そうとした。彼が冷たい態度を取り、命令に背くような行いばかりするのは、少なくともフィーネに対して怒っているからではないのだ。マルクト籍の陸艦になぜキムラスカ公爵子息が乗っていたかは不明だが、アッシュの変化はすべて彼のレプリカと出くわしたことに起因する。彼が会議の場で『殺しても構わないんじゃないか』と言ったのが、今ならどういう意味だったのかよくわかった。
(アッシュ師団長も出来損ないって言ってた。被験者ってレプリカを憎まずにはいられないものなのかな……)
もちろん初めはレプリカへの酷い言葉に強い反発心を抱いたが、激しい憎しみをアッシュの瞳の中に認めて、急速に怒りの気持ちは萎んでいった。フィーネはあの深い絶望と際限のない苛立ちを間近で目の当たりにしたことがある。被験者側が混沌とした負の感情をレプリカに抱くのを、フィーネは嫌と言うほどよく知っている。アッシュのレプリカが造られた経緯がどうであれ、そこに死んだ幼馴染を重ねてしまった以上、彼に対してそのまま怒りをぶつけることはどうしても難しかった。
「……総長とはきちんとお話できたんですか」
フィーネは再び剣に向き直ったアッシュの横顔に、苦し紛れに話しかけた。いつもシンクにデリカシーがないと怒られるけれど、流石にレプリカのことについては易々と尋ねられる話題ではないとわかっている。 アッシュは今度はこちらを見もしないで、あぁ、と返事をした。
「俺が確かめたかったのは預言を滅ぼす計画についてだ。全部かどうかはわからないが、おかげで新しい情報は得られたな」 「……計画のことだったら、私も聞いていいですか? 預言を滅ぼしたいのは私も同じです」
計画の詳細を総長に問いただして、その後大人しくしているということは、まだアッシュは預言の破壊を目指す同志だということだ。そのことにフィーネがほっとしていると、アッシュは逆に眉間に皺を寄せ、苦しげな表情になる。それから明らかに躊躇いを感じさせる間を置いて、彼はひどく重そうに口を開いた。
「……フィーネ。お前こそ、一体どこまで知ったうえで参加しているんだ?」 「え?」 「目的のためなら、多くの犠牲を出してもやむを得ないと思うか?」 「それは……」
それはかなり難しい質問だった。正直、フィーネの中ではとうに結論づけたことだけれど、改めてそれを口にするには勇気が要る。一体どう答えたものかとフィーネが言葉に窮していると、不意にバタンと音を立てて部屋の扉が勢いよく開かれた。そして勢いのままずかずかと中に踏み込んできた人物を認識して、フィーネはあっ、と小さく声をあげる。
「随分と手を焼かせてくれたねぇ、アッシュ?」
たっぷりの苛立ちを含んだ声音。癖の強い深緑色の髪。遠征などに比べたらそこまで長い時間離れていたわけでもないのに、なんだか随分と久しぶりに会った気がする。自分で手紙を出しておきながらシンク本人がここへ来るとは思ってもいなかったため、フィーネの頭からは完全に質問が飛び、思わず彼に駆け寄った。
「シンク、来てくれたの?」 「来させられたんだよ。命令に従わない誰かさんと、ろくに報告もできない誰かさんのせいでね」 「えっ、私、報告はしたよ?」 「事後報告でしょ。まあフィーネへの説教はあとで」
シンクはそう言ってフィーネをあしらうと、この騒動の中心人物であるアッシュのほうへ向き直る。「どう? ヴァンと話して気は済んだ?」てっきりもっと怒っているかと思っていたのに、流石と言うべきか。シンクの態度は指揮官らしく、とても落ち着いて見えた。
「どうせ、アイツを殺す許可は出なかったんでしょ。アイツには初めから役割があるんだからさ」 「……」 「アンタだってそうだよ。ボクはヴァンからアンタを死なせるなって言われてる。自分が計画の要だってことはわかってるはずなのにいつまでも馬鹿げた意地を張ってさ……ホント、被験者の考えは理解しがたくて困るね」
役職こそ上だが年下の少年に滔々と責められて、アッシュは何を思ったのだろう。特に今回のシンクの口調は刺々しいものではなく、どちらかといえば諭すような雰囲気で、横で聞いているフィーネも少し戸惑いを覚えた。普段もっときつい言い方をされているアッシュであれば、尚更奇妙に思ったことだろう。
「……アンタたちだと? どうせヴァンはお前には、なんだって話しているだろう」 「そりゃ、主役じゃないからさ。舞台に立つアンタは大まかな筋書きだけ知っていれば十分だけど、こっちは裏方なんでね。アンタの感情ひとつで振り回すのもいい加減にしてくれない?」 「……」 「で、ディストはどこ?」 シンクの問いに、アッシュは答えなかった。そうなると必然、シンクはフィーネのほうを見る。思いきり目の前で告げ口する形になって気まずかったけれど、フィーネが『見張り』だというのはアッシュも最初から承知していることだ。
「……ここから南東にある、別荘だって。アリエッタもディストもそこ」 「南東……コーラル城か。また厄介なことをしてくれたね」 「行くの?」 「行くしかない」 「私も行く」
フィーネがやや食い気味に言い募ると、シンクは呆れたように腰に手をあてた。そんなシンクの様子に説教はあとでと言われていたことを思い出し、フィーネはしまった、と身構える。しかしながら彼にはフィーネの心情などお見通しだったみたいで、わざとらしくため息をつかれただけだった。
「先に言っておくけど、ボクはアリエッタを助太刀しに行くわけでも、止めにいくわけでもないよ」 「……じゃあ、ディスト様が言ってた同調フォンスロットの件?」 「は? なにそれ」 「……その、よくわかんないけど被験者とレプリカのフォンスロットを繋ぐんだって」
被験者とレプリカを繋ぐ――。 それはおそらく、どちら側にとっても薄気味悪い話でしかないだろう。表情こそ見えないけれど、シンクは仮面の下で盛大に眉をしかめているに違いなかった。
「……わかった。詳しいことは現地でディストに聞くからいい」 「私も行きたい」 「だからさ、フィーネは見張りだって言ったでしょ」 「見張りって言われても、アッシュ師団長はもう動く気がないって」 「……誰が信じるんだよそんな話」 「それなら、今すぐ師団長を検問所に突き出して拘束してもらえば安心? 密入国の容疑でも、それこそ導師誘拐の犯人ってことにしてもいいよね」 「!?」 「は? いや、それは……」
フィーネはコーラル城に行きたいが、アッシュはカイツールから動きたくない。そして誰かがアッシュの傍で見張っていないとシンクが安心できないのなら、アッシュを監禁すれば全員の要求が満たせて一番丸く収まるのではないか。幸いにしてカイツールは砦という性質上、設備や警備の面でも申し分なく、フィーネは名案とばかりに手を叩いた。が、
「……アンタって、デリカシーだけじゃなくてたまにモラルも欠けるよね」 「陸艦はどうしたんだ、今すぐリグレットを呼んでくれ」
二人の反応は、ちっとも期待したようなものではなかった。それどころかむしろ、かなり引かれたような気がする。
「駄目でしょうか? 最終的には教団のほうで身柄を預かることになるので、拘束は一時的なものなんですが……」 「フィーネ、お前にろくに説明せず振り回したこと、根に持っているのか?」 「? いえ、あの、師団長はカイツールから動く気が無いってさっき聞いたので」 「……」 「アッシュだって曲がりなりにもフィーネの上官を二年もやってるんだからさ、わかるでしょ? これは悪気なく滅茶苦茶なんだよ」 「……フィーネには俺の見張りをさせるんじゃなくて、シンクがフィーネを見張っていろ」 「言われなくてもなるべくそうしてる。フィーネは何をしでかすかわからないからね」
引かれただけでなく随分な言われようで、流石のフィーネもちょっぴり凹んだ。元はと言えばアッシュの命令違反から始まったことで、会議のとき同様シンクともっと舌鋒鋭くやりあうのかと思っていたのに、なぜか今は二人とも妙に団結した雰囲気を漂わせている。まったくもって解せない状況だ。
「とにかく、フィーネがコーラル城に行きたいのはわかったけど、アッシュを検問所に突き出すのは反対だ。後々回収が面倒だし、いくらモースの後ろ盾があるとはいえ大事にはしたくない。アッシュの提案通り、リグレットたちの到着を待つのがいいね」 「じゃあそれまでは私が見張りってこと?」 「そうなるね。でも陸艦の速度ならそこまではかからないはずだ。陸艦には連絡用のグリフィンもまだ数羽残っているし、来たいなら後から追いかけてくればいい。それは許可する」 「……わかった。とりあえず伝書鳩でリグレットに来てもらうね」
これ以上粘ったところで二人を納得させられるような案は思いつきそうにない。フィーネが渋々頷いたのを見て、シンクは早速コーラル城に向かうことにしたようだった。
「それじゃ、アッシュ。フィーネのこときちんと見張っててよね」 「え、」 「あぁ」
フィーネがびっくりしている間に、フィーネを飛び越えて二人の会話は成立した。すぐに訂正しようと思ったが、シンクが慌ただしく部屋を出て行ったものだからその余裕もない。
「見張るの逆なんだけど……シンク、疲れてるのかな」 「……」
アッシュは何も言わなかったが、彼がだんまりになるのは何も今に始まったことではない。フィーネは彼の返事を諦めて窓の外に目をやると、飛び立つシンクの姿が見えないものかとぼんやり青空を眺めることにした。
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mokuji
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