17.仇(101/151)
セントビナーから南西に進むと、やがて巨大な岩が群立する渓谷が見えてくる。うっすらと霧が立ち込めるほど湿気の多いそこが、フーブラス川の入り口だった。現在は自然災害によってフーブラス川を渡るための橋も落ちてしまっているらしく、先を行くイオン様たちもおそらく川の横断を余儀なくされたことだろう。
(結局、報告する余裕がないままに出てきちゃったけど……大丈夫かな)
アッシュとともに、停泊していた陸艦を抜け出してはや数日。今はもうはるか遠く、肉眼では見えるはずもない艦の方角を、フィーネはときどき思い出したように振り返って見ている。あの限られた人数しかいない艦内で不在がバレないわけがないのだから、きっと今頃シンクはかんかんに怒っているだろう。
(まぁ……怒ってないときのほうが珍しいからいいか)
細かく何回も怒られるよりも、まとめて一回で怒られた方が楽だ。シンクは敬語の件についてまだ納得していないふうであったけれど、どう考えても今回の独断専行のほうが問題なので上手い感じに忘れてくれるかもしれない。持ち前の楽観さを活かして、というよりも現実逃避をしながら、フィーネは南へとどんどん進んでいく。
「アッシュ師団長、浅瀬を渡る前に一旦休憩しましょう」
岩場を抜ければすぐ、視界を横切るようにして大きな川が広がっていた。川幅はかなりあるが中央に中洲があるのと、水かさもあまり高くないことから、それほど苦労せずに渡ることはできるだろう。 フィーネが声をかけるとアッシュは立ち止まったものの、先を急ぎたそうな素振りを見せた。
「奴らに国境を越えられると面倒だ」 「国境を超えるには旅券が要ります。あの混乱のさなか上手く持ち出せたとは思えませんし、仮に超えられたのなら総長と上手く合流したってことですよね。それはそれでいいじゃないですか」 「……言っただろ、俺はヴァンに用があるんだ」 「それでも、こんなに急ぐなんて一体何の用なんですか」
任務に関することなら、ヴァンと連絡を取っているシンクに報告すればいい。思っていた以上の強行軍に、流石にフィーネも不審に思い始めていた。どう考えても本気の追跡で、敵対する『ふり』の範疇を超えている。彼はどうしてこれほどまでに焦っているのだろう。
「……」 「言いたくないならいいですけど……でも、休憩くらいはとらないと肝心のときに動けませんよ」
もしくは後でみっともなく昏倒する羽目になる。幸いにして季節的にフーブラス川の水温は凍えるものではなかったけれど、フィーネは実感を込めてそう言った。フィーネが高熱を出して寝込んだのは、上官であるアッシュも当然知っていることだ。
「……わかった、しばし休息をとる」 「ついでに食事にしませんか。ここに来るまでに山ほどチュンチュンを狩りましたから」 調理器具こそないけれど、チキンを焼くくらいのことは十分できる。ここまではずっと軍用の携帯食料で済ませてきたので、温かい食事を食べられるのは久しぶりだ。 にわかに活気づいて小枝を集め始めたフィーネに、アッシュはちょっとの間呆けたようにその場に立ち尽くしていた。
「師団長は魔物はお嫌いですか?」 「いや……可もなく不可もなくといったところだな、イケてないチキンとはよく言ったものだ」 「臭みを消せば結構美味しくなりますよ。ほら、ゲコゲコが落としてくれる雑草を使えば」 「雑草……」
思い切り微妙な顔をされたが、実際のところ世の中に雑草という名の草はない。どんな植物でもみな名前があるけれど、詳しくないからひとくくりにしてそう呼んでいるだけだ。 集まった枝はどれも湿気っていて、一から火起こしするには時間がかかりそうだった。アッシュの譜術で火をつけてもらい、その間にフィーネはチキンの下処理をする。雑草をすりこんだあと、串がわりとして邪魔な枝を払った木の棒にぶすりぶすりと刺していくだけの作業だ。 思えばこの二年ちょっとの間、特務師団として遠征に出たことはなかったため、こうして彼に料理を振舞うのも初めてのことだった。
「はい、焼けましたよ。どうぞ」
たまたま雑草の中に、香りのよいものが混じっていたのだろう。少しほろ苦さを感じる爽やかな香りが、焼いた肉のかぐわしい匂いと相まってなんとも食欲をそそられる。串刺しという点で多少荒っぽい感じはするけれど、見た目にもこんがりと焼き目がついていて美味しそうだった。
「あぁ……」
アッシュに串を手渡すと、フィーネも自分の分に嬉々としてかぶりつく。いくらなんでもこの状況で、行儀だなんだと言うほど鬼ではないだろう。シンクの仮面と違って目元しか覆っていないフィーネの仮面は、食事の時はまったく邪魔にならないのがいい所だった。
「うん、美味しい」 野営での食事は手に入る食材にかなり左右されてしまうが、今回は結構当たりの部類ではないだろうか。 「そうだな、驚いた」
魔物は可もなく不可もなくと言っていたアッシュも、一口齧って気に入ってくれたらしい。そこから先は二人してちょっと無言になった。チュンチュンは小骨が多いので、全部ちゃんと取り除こうと思うと喋っている暇はない。フィーネは面倒なのである程度骨ごといくが、アッシュはきっちり骨を取りたい派のようだった。
「……ふう、満足した」
結局、それなりに量はあったはずなのだが、今はもうすっかり串と小骨の山を残すのみ。焚き火の勢いもちろちろと弱くなってきて、フィーネは今度は眠気がこみ上げてくるのを感じた。とはいえアッシュのほうはきっとすぐにでも立ちたいだろうから、気合をいれて重いお腹と腰を上げる。まずは散らかした串を片付けるか、と手を伸ばしたところで、不意にがたがたと小刻みに足元が揺れた。
「あ」 「っ、また地震か……!」
小石を上下に跳ねさせていた振動は、続いてすぐにぐらぐらと大きい横揺れに変わる。幸い周囲に崩れてくるようなものは無かったが、フィーネは腰を落として重心を低く構えた。時間にしてわずか、十秒ほどのことであっただろうか。
「……おさまったみたいですね」 「あぁ。それにしても立て続けだな」
彼が言うように、陸艦を降りてから地震に見舞われるのはこれが初めてではなかった。今回のものほどではないにしろ、昨日も小さな揺れがあったし、そもそも橋が落ちて渡れなくなっているのも地震のせいだ。
「そう言えば帝都に潜入している者からも、前に報告がありましたね。鉱山都市への街道が通行止めになっていて対策会議が行われているようだって……。まさかまだ通れないとは思ってもみませんでしたが、こう頻繁だと復旧が追いつかないのかな」 「……かもな。とにかく気をつけながら先に進むぞ」 「はい」
手早く火の始末を済ませ、フィーネとアッシュは川を渡る。中洲を経由して対岸の草地をそのまま進むと、二人は途中で見知った人物の姿を見つけ、あっと声をあげた。
「アリエッタ!?」
見れば彼女は青ざめた顔で、ライガとともに突き出た岩にもたれかかるようにして倒れていた。フィーネが慌てて駆け寄って抱き起こすと、アリエッタはうう……と小さく呻く。
「気をつけろ、フィーネ。障気だ」
アッシュの視線の先を追えば、確かに地面が一部沈降していて、その大地の亀裂から紫の障気が立ち上っている。ぎりぎりアリエッタが倒れていた位置にまでは届かないようだが、それでも彼女はいくらか吸ってしまったのだろう。
「フィーネ……」 「アリエッタ、大丈夫? 一体何があったの? アリエッタはライガ・クイーンのところに行ったんじゃ……」
方角で言えば、エンゲーブ方面とフーブラス川は真逆だ。魔物を使うアリエッタなら人よりずっと早く移動できるとしても、陸艦に戻らずこんなところにいるなんて妙だ。 アリエッタはまだ少しぼんやりとしていたけれど、ライガ・クイーン、という単語にみるみる目の色が濃くなった。
「ママ……! ママの仇! どこ!?」 「仇って、」 「殺した! あいつらがママを殺したの!」
唐突な話に、フィーネは状況が呑み込めないでいた。ただアリエッタの怒気はすさまじく、今にも飛び出していきそうな勢いだ。とにかく落ち着かせようと、フィーネは彼女の両肩を掴む。
「アリエッタ、落ち着いて。一体何があったの」 「私、チーグルの森に向かって……でもその途中で森から逃げてきた子たちと会って……それで、それで、ママも生まれてくる弟妹達も、みんなあいつらに殺されたって!」 「……」
何度聞いてもアリエッタの話は変わらない。衝撃的な内容に二の句がつげないでいるフィーネの代わりに、アッシュが質問を続ける。
「あいつらって誰だ」 「イオン様を攫ったやつら……です。絶対、許さない……地の果てまで追いかけて……殺しますっ!」
アリエッタの怒りに呼応するように、ライガが低い唸り声を上げる。一見弱気そうに見える彼女が、ひどく一途で思いつめる性格なのをフィーネは知っている。だからイオンは彼女に自分の死を伝えなかったのだ。彼女ならひょっとすると、イオンの後を追ってしまうかもしれないから――。
(アリエッタはライガ・クイーンも喪ったんだ……。もし今のアリエッタが、イオンすらもこの世にいないことを知ってしまったら……!)
彼女は生きていけないかもしれない。全ての希望を失ってしまうかもしれない。フィーネが一人ぞっとしている傍ら、アッシュはアッシュで何か思案していたようだった。彼はゆっくりとこちらに近づいてくると、その場に片膝をついてアリエッタと視線を合わせる。
「……アリエッタ、事情はわかった。ひとつ頼まれてくれないか? ヴァンには内密で」 「え」 「え……?」
怒りに震えていたアリエッタも、これには驚いたのだろう。唐突な提案に、フィーネもアリエッタも虚を突かれてアッシュの顔をまじまじと見る。しかも総長に内密だなんて、いきなり何を言い出すのか。
「ヴァンは導師だけでなく、あの御一行様を殺す気がないらしい。そういう命令が下ってる。だがそれではお前の仇はとれない」 「アッシュ師団長、でも殺しちゃいけないって言われてるのはイオン様と公爵子息だけで……」 「公爵子息って……どれ?」
アリエッタの声が震えている。今になってようやく悲しみがこみ上げてきたのだろう。目の縁に涙を溜めた彼女を見て、アッシュは少し唇を歪める。
「赤い髪のやつだ」 「あぁ、あのちょっとアッシュに似てる……チーグルを連れてるひと……」
アリエッタが険しい顔になるのと、ぴくりとアッシュの眉があがるのはほぼ同時だった。
「皆から聞いたモン! あの人がチーグルに味方して、ママを殺しにきたって……! 許せない……」 「そうだろう。見逃す理由がない」 「だ、だけど! やっぱりだめですよ!」
今はイオン様や親書よりも、その公爵子息のほうが重視されているのだ。アリエッタを焚きつけるような態度のアッシュに、フィーネは咄嗟に非難の目を向ける。しかしながらそれは綺麗に無視されて、アッシュはアリエッタだけに向かって話しかけた。
「もちろん見つけてすぐ殺すってわけにはいかない。俺がヴァンに直談判して説得する。それまではアリエッタも待てるな?」 「わかった……です」 「アリエッタ、聞いて。今、総長もカイツールに向かってるの、だからここは一旦総長に任せて、」 「でも、ママが殺されたんだよ! フィーネだって、ママのこと好きだったでしょう……? どうして止めるの……?」 「……」
止めるのは、そういう命令だからだ。でも、その命令が下されている根拠をフィーネは知らない。アリエッタの激情を前に、それ以上なんと言っていいかわからなかった。
「俺は検問所に向かう。アリエッタは先に軍港に向かっていてくれ。追って指示をするから、連絡用のグリフィンも何羽か貸せ」
アリエッタは頷くと、指笛を吹いてグリフィンを集める。話がまとまりかけた雰囲気の中で、フィーネだけがひたすら困惑していた。
「師団長、一体何をする気なんですか? アリエッタはわかるけれど、あなたはどうしてそこまで……」 「シンクに言いつけたければ、お前もアリエッタからグリフィンを借りればいい。それがお前の仕事なんだろう。もっとも、俺の行動のほうが早いだろうがな」 「……師団長、変です。私、何か師団長を怒らせるようなことしましたか? なんでそんな急に酷いこと言うんですか……」
ほんのついさっきまで、一緒に楽しく食事をしていたではないか。普段だって口調こそ厳しいが、こんなふうに当てつけを言う人ではなかった。非難と失意の混ざったフィーネの言葉に、アッシュは苦虫をかみ潰したような表情になる。
「……お前にはわからない」 「……」
彼にそんな風に突き放されたのはフィーネが特務師団に異動して間もない頃、北部戦の一件でマルクト貴族扱いされた時以来だった。
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mokuji
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