アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


12.代わり(96/151)

 導師の身柄は無事に確保したとのことで、当初の予定通り、シンクとリグレットはシュレーの丘へと向かった。親書のほうは導師守護役フォンマスターガーディアンが持ったまま陸艦から離脱したらしいが、引き続きフィーネが後を追っているそうだ。

(降りた奴らが戻ってくるまで、しばらく動きはないな)

 第一の兵士とアリエッタの魔物によって艦内は既に制圧されているため、ラルゴが負傷して抜けた穴を埋める必要もない。アッシュはとにかく一人になりたくて、手近な船室に足を踏み入れた。先ほどのレプリカの無様な姿が思い起こされ、怒りで胃のあたりがむかむかとする。

(あいつは……七年前からなにひとつ成長してなかった!)

 ダアトでの軟禁生活のさなか、アッシュはただ一度だけ自力でバチカルの屋敷に逃げ帰ったことがある。自由に外に出ることこそできなかったが、ダアトでは別に酷い扱いを受けていたわけではない。つらい実験に耐え忍ばねばならないようなこともなかったし、変わらずヴァンは優しかった。だが、それでもアッシュはやはりファブレ公爵家の誇りを捨てることはできず、ヴァンの言ったことを鵜呑みにする気にもなれなかったのだ。

 もちろん、ダアトからバチカルへの帰路は決して楽なものではなかった。これまでは使用人たちが手配していた乗り物はないし、そもそも一般客としてバチカル行きの船に乗れるだけの手持ちもない。いくら剣術を習っているとはいえ、野生の魔物との実戦だって初めてだった。だから正直なところ脱走はとても無謀なものでしかなかったが、それでもアッシュは命懸けでバチカルの屋敷を目指した。

 全ては大切な家族、婚約者や友人、そして、キムラスカ=ランバルディア王国の為に――。




――よくわかっただろう、アッシュ

 アッシュが呆然として城下町に降りると、港にはもう迎えが来ていた。既に体力的にも精神的にも限界だったアッシュは、虚ろな目でこちらに近づいてきたヴァンを見上げる。逃げようという気力はもはや残っていなかった。ただそれでも質問をせずにはいられなかった。

――あれは……あれは、本当に俺なのか? あんな、なにもできない幼児のようなあれが
――そうだ。レプリカは普通、まっさらの赤子のような状態で生まれるのだ。お前の記憶を引き継いでもいないし、今のあれは言葉もろくに話せまい
――……なら、どうして誰もあれが俺ではないと気づかないんだ。父上も母上も……ガイやナタリアも……

 確かにこの目で見たレプリカは、鏡を見ているみたいに自分と瓜二つだった。だが、いくら見た目がそっくりでも中身が全然違うのだから、普通はおかしいと思うだろう。当たり前のように周囲に受け入れられ、それどころか慈しまれていたレプリカを目の当たりにし、アッシュは失意とやりきれなさで胸がいっぱいだった。

――それはな、奴らにとってはお前は道具でしかないからだ。だから入れ替わったことにも気づけないし、預言スコア通りに死んでくれれば別にお前本人でなくともよいのだ

 以前聞いたときには、まだ嘘だと言葉を返すことができた。けれどもあの光景を見た後では、ヴァンの言っていることが真実のように感じられる。一体、これまでの自分の人生はなんだったのだろうか。もはやヴァンの他にはこの世に自分の味方がいないような気がして、アッシュはぐっと奥歯を噛みしめる。そうしていないと今にも嗚咽がもれてしまいそうだった。

――私がお前のレプリカを造ったのは、なにも捜索をかわすためだけではないのだ。言っただろう、お前を救いたかったと。今はあいつがルーク・フォン・ファブレだ。あいつは音素フォニム振動数までもがお前と同じ、完全同位体。あいつがお前の代わりに、死の運命を遂げることになる
――……でも、俺はここにいる。本物のルークはここにいる。レプリカごときで預言スコアから本当に逃れられるのか

 預言スコアが外れたという話を、アッシュはこれまで聞いたことがなかった。なぜなら預言スコアは星の記憶だ。人の道筋、ひいては星の行く末までもがこれに読まれていると言われている。
 アッシュの問いに、ヴァンは薄く笑った。なぜヴァンが笑ったのかわからず、アッシュはまたも不安に駆られる。これと似た笑顔は、誘拐されたあの日にも見たことがあった。

――あぁ、確かにレプリカ程度の歪みでは、完全に預言スコアを違えることは難しい。だが、お前には力がある。その特別さゆえに、これまで散々苦しめられてきただろう?
――力……? まさか、超振動のことか?
――そうだ。お前の力を使って第七音素セブンスフォニムの意識集合体であるローレライを消滅させる。そうすれば忌まわしい預言スコアなどというものも存在しなくなる

 それはどう考えても突拍子のない話で、アッシュはなんと言っていいのかわからなかった。そもそもがローレライ自体、まだその存在が確認されたわけではない。だが、不思議とヴァンの言葉には引き込まれるような力強さがあった。

――アッシュ、心配するな。私だって、お前がこのままダアトで一生を終えるべき人間ではないとわかっている。預言スコアを滅ぼした暁には、お前をキムラスカに帰すつもりだ。その時にはお前は真に死の運命から解放され、預言スコアを妄信していた人々の目も覚めるだろう

 本当に、そんなことができるのだろうか。預言スコアさえなくなれば、誰もアッシュの死を望まず、本物として元のようにあの屋敷へと帰れるのだろうか。
 アッシュはほとんど祈るような気持ちで、大切な人たちの顔を思い浮かべる。

(あんな約束をしたんだ、ナタリアは俺の預言スコアことなど知らなかったのだろう。それなら……それなら俺は、まだここで諦めるわけにはいかない……)

 今でも鮮明に覚えている。レプリカにはない、アッシュとナタリアだけの記憶。疲弊しきった心を奮い立たせて生きるには、アッシュにはもうそれくらいしか支えとなるものが残されてはいなかった。

――さあ、ダアトに戻るぞ。疲れただろう、しっかりと休みなさい

 アッシュは最後に一度だけ屋敷の方角を仰ぎ見ると、黙ってヴァンの後に続いたのだった。



 
 船室に籠ってから、一体どれくらい時間が経ったのだろうか。一人になって落ち着くことができると、アッシュの胸の中で燻っていた苛立ちも随分と和らいだように思う。

(セフィロトの封印解除も始まったんだ。あと少しの辛抱だ……)

 第七音素セブンスフォニムというものは、六属性の音素と、プラネットストームが通した記憶粒子セルパーティクルの間で、突然変異として生成される。ヴァンの話では各地のセフィロトを活性化させて地表の第七音素セブンスフォニム量を増やせば、集合体であるローレライを引きずり出せるだろうということだった。
 実際、最初は無謀としか思えなかった計画だが、預言スコア信仰のお膝下であるローレライ教団でこれだけの賛同者と地位を固めることができたのだ。ここまでくればヴァンなら、本当に成し遂げてしまうのではないかと思う。

 アッシュは深呼吸をし、もう一度ナタリアとの約束を大切に反芻した。それはもうほとんど癖みたいなものになっていて、どこにいても天空客車から見た美しい夕日を思い起こすことができる。アッシュはそろりと船室の窓に近づくと、今はまだ高く昇っている太陽レムにあの日の面影を探した。
 ちょうど、そのときだった。

 突如として目の前の窓に隔壁が降り、光が遮断される。ほとんど同時に船室の照明も消えたかと思うと、艦全体にガクンと大きな衝撃が走った。

(止まった――?)

 アッシュが急いで廊下へ飛び出ると、譜石の輝きのおかげでこちらはまだ視界がはっきりとしていた。ただ、昇降機のスイッチを押しても何の反応もなく、動力機関がやられたと考えるのが妥当だろう。

(クソっ、死霊使いネクロマンサーが何かしたのか)

 あらかじめ、非常停止機構でも設定されていたのだろう。アッシュが舌打ちをしたとき、地響きにも似た音が伝わって来た。爆発音だ。いよいよまずいと、アッシュは走り出す。

(左舷……! あそこの昇降口は開いているのか)

 近づくにつれて兵士たちの甲冑の音に混じり、銃の発射音が聞こえてくる。出口に辿り着いたアッシュは平原を見下ろして、戦況の確認のため足を止めた。

(応戦しているのはリグレットとアリエッタ……シンクはまだセフィロトか)

 背後に導師を立たせたリグレットが、譜銃を突きつけ敵を威嚇している。アリエッタもその隣で、彼女特有の困った表情をしながら立っていた。導師がいる手前、彼女の中でどの命令を優先すべきか、まだ少し迷いがあるのだろう。翻って相手方を見れば、またもやあのレプリカが神託の盾オラクル兵に剣を突きつけられている。

(またあいつは……!)

 敵なのだから、本来あのレプリカが役立たずであるほうが都合がいい。それなのにアッシュは、どうしても奴の不甲斐なさが許せなかった。自分の代わりともあろう者が、ルーク・フォン・ファブレという存在が、あのように甘ったれたガキであることを許容できない。
 だが、今回はアッシュが飛び出していくよりも早く、はるか頭上に気配が生まれた。
 それは真っすぐに平原へと降り立ち、着地と同時にリグレットに接触する。

「っ!? あいつは……」

 金髪の青年だった。闖入者はそのまま導師を横抱きに抱え、死霊使いネクロマンサーたちのほうへ駆ける。体勢を立て直したリグレットがすぐに譜銃を撃ったが、青年は鞘を払いかけた剣で見事に弾いてしまった。

「ガイ様、華麗に参上!」

(ガイ・セシル――!)

 面影はあった。そこへ名前を聞き、アッシュのなかで確信に変わる。かつてはまだほっそりとした少年でしかなかった彼は、大人の男になっていた。突然現れた懐かしい顔に、アッシュはまじまじと彼を見つめる。

「きゃ……」
「アリエッタ!」
「さぁ、もう一度武器を棄てて、タルタロスの中に戻ってもらいましょうか」

 そうこうしているうちに、いつのまにか形成は逆転していた。マルクト側も事を荒立てたくはないようで、人質にしたアリエッタの命を取る気まではないらしい。
 ここからアリエッタを救い、敵を倒し、導師をも奪還する――それは流石に厳しいように思われた。第一、アッシュはガイの前に姿を現すことに躊躇いがある。
 アッシュは昇降口の扉の脇に身を隠し、二人がタルタロスの中へ戻ってくるのを見守った。それでもまだ視線は平原からそらすことができない。

「ふう、助かった……。ガイ! よく来てくれたな!」
「やー、探したぜぇ。こんなところにいやがるとはな!」

 笑顔で肩を叩きあうガイとレプリカ。そこには主従の枠を超えた親しみが見て取れて、アッシュは複雑な気持ちでそれを見守る。

(あいつ……俺にはあんな笑顔を見せなかった――)

 レプリカは七年経っても成長していなかった。しかし流れた月日は確実に、人の関係に変化を与えているようであった。

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