アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


11.欺いてでも(95/151)

 口の中は乾いているのに、舌の上だけ妙に甘ったるい感じがする。紅色の髪をシーツに広げた少年は小さく呻き、まだぼんやりとする意識を無理やりに手繰り寄せた。

――気が付いたか、ルーク
――……せんせ、い

 視界の中に見知った顔を捉えて、ルークは特に理由もなく安堵した。ただ、徐々に意識がはっきりとしてくるにつれ、辺りの景色が自分の寝室でないことに気づく。

――ここは……?

 自分が今横たわっているベッド以外には、簡素な造りのテーブルと椅子が一そろい。調度品の類は一切なく、小さな窓に取り付けられているカーテンも陽の光が透けるほど薄く粗末な代物だ。明らかに公爵邸のどの部屋でもない。超振動という力のため、月に二度ほど連れて行かれる研究所の施設とも違う。
 戸惑うルークは、ごく当たり前のように目の前のヴァンに答えを求めた。剣術の師範であり、貴族のしがらみがある実父よりもずっと建前抜きで話せる彼のことを、ルークはとても尊敬し、信頼していたのだ。

――ここはダアト、ローレライ教団の総本山だ。お前も知っているだろう
――ダアトと言えば、師匠せんせいの……でも、どうして俺が

 自分でもここに来るまでのことを思いだそうとしてみたが、頭の中にもやがかかったように上手く思いだすことができない。「ルーク、」ゆっくりとベッドに腰を下ろしたヴァンは、支えるようにルークの背中に手をやった。

――今から私が言うことを、心して聞きなさい

 そう言ったヴァンの口調はとても優しいものだったが、どことなく有無を言わせぬ雰囲気がある。ルークは少し緊張しながら、彼の続きの言葉を待った。

――お前は今日からルークではなくなる。これから先このダアトで、正体を隠して生き延びるのだ
――……は?

(ルークではなくなる……? 正体を隠してって、どういうことだ?)

 一体何を言われているのか、皆目見当がつかなかった。だいたいルークはその辺の子供と違って、キムラスカ王家に連なる者なのだ。勝手にダアトで暮らせるわけがないし、暮らしたいとも思わない。ルークには代々続く公爵家としての責任と、守るべき領民がいるのだ。

――どういうことなんだ。伯父上や父上、母上にはなんと……そんなことがまかり通るわけがない
――フ……戸惑うのも無理はないな。だが、これはお前が望んだことだろう。覚えていないか……? ベルケンドの新しい音機関を使った実験の時だ。目覚めるなりお前は、もう実験は嫌だ、耐えられない、教団へ連れて逃げてくれと私に懇願したではないか
――そんな……

 覚えていない。そんなこと、言った覚えがない。ただ、即座に否定することができなかったのは、一度ならず胸に過ったことのある気持ちだからである。貴族の矜持やいずれは国を背負うのだという誇りのために気丈に振舞ってこそいたが、幼いルークにとって超振動の実験は大変に苦痛を伴うものであった。

――ち、違う……そんなはずはない、きっと……意識が朦朧として思ってもないことを言ったんだ
――残念だが、それがお前の本音なのだ。何も恥じることはない。私も常々、お前の境遇には心を痛めていた
――違う! 本音なんかじゃない!

 ルークが叫んでも、ヴァンは憐れむような目でこちらを見ただけだった。それがますますルークを焦らせ、話に真実味を帯びさせる。
 
――だいたい……ダアトへ亡命なんてできるわけがない! そんなこと、父上がお許しになるはずがないんだ……。追手がかかるぞ、師匠せんせいは公爵子息誘拐の大罪人として裁かれる! 馬鹿なことをしたもんだ!
――心配することはない。言っただろう、お前はルークではなくなる。代わりはもうバチカルに戻した
――な、何を言っている……!?
――フォミクリーという技術だ。聞いたことはあるだろう。あれでお前の代わりを造ったのだ。本当に瓜二つで、まるで鏡を見ているようだったぞ

 そこで不意に、ヴァンは薄く微笑んだ。一体、何が可笑しかったのかわからない。わかりたくもない。ルークは敬愛する師匠の発言に耳を疑い、同時に現実をも疑った。悪い夢を見ている。そうだとしか考えられない。

――お前はもう、『聖なる焔の光』の名を冠するべきではない。不死の鳥の話を聞いたことはあるか? 自らの身を炎で焼き、再生する事で永遠に生き続ける。不死鳥はそのとき灰の中から蘇るのだ。お前も新しい人生を歩め、これからは『アッシュ』と名乗って生きるのだ
――何が『アッシュ』だ!

 ルークは喚いた。何もかもめちゃくちゃだ。これまでずっと尊敬して頼りにしていたのに、こんなに頭のおかしい奴だったなんて。

(ファミクリーで俺の代わりを作っただって? そんな馬鹿なことあるものか!)

 まだだるさの残る身体で力を振り絞り、ルークはヴァンの手を振り払う。エメラルド色の瞳にありったけの憎しみを込めて睨み上げた。

――ふざけるな! 今すぐ俺を屋敷に戻せ!
――バチカルに戻れば、お前は死ぬのだぞ
――大袈裟だ、あの程度の実験など耐えてみせる!
――そうではない。やはり、お前は何も知らないで利用されていたのだな……。既にお前には、死の預言スコアが読まれているのだ

 突然突き付けられた預言スコアという単語に、ルークは思わずひゅっと息を呑んだ。普通ならいきなり死ぬのだと言われても一笑に付すだけで終わりだが、オールドラントで生まれ育った人間にとって、預言スコアという言葉の響きはとても重い。
 表情を強張らせたルークに、ヴァンはND2018、と余命宣告をするかのようにそらんじた。

――ND2018
 ローレライの力を継ぐ若者、人々を引き連れ鉱山の街へと向かう
 そこで若者は力を災いとしキムラスカの武器となって消滅す

(ウソだ、ウソだ、ウソだ……)
 
 そっとヴァンの手がルークの肩に添えられるが、今度はもうそれを振り払うだけの余裕がない。

――お前は死ぬ。お前の父も母も国王も、みなそのことを知っているのだ。知っているから、これほどむごい実験ができる。どうせ死ぬのだからどう扱っても構わないとな。むしろ預言スコアを守るために、嬉々としてお前を死なせようとしている。……私には、どうしてもそれが許せなかった
――ウソだ……
――まぁ、すぐには信じられないだろう。だがこれだけは信じてほしい、私はお前を死なせたくないのだ。たとえキムラスカ王国や、預言スコアそのものを欺いてでも、な
――……

 俯くルークに、ヴァンはもう休みなさい、と優しく言った。それは確かに、ルークが心から慕っていた師匠せんせいの声音だった。

――これからのことに心配は要らない。『アッシュ』になってもお前には私がいる。ダアトという居場所もある。全ては生きていてこそなのだ

 まるで脳を侵食するかのような耳障りの良い言葉に、ルークはぎゅっと拳を握り、固く目を瞑る。残った耳が拾ったのはヴァンが部屋を出ていく衣擦れの音と、カチリという無機質な鍵がかけられる音だった。

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