アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


09.意思を汲む(93/151)

 艦内の狭い廊下を行くには、ライガは少し大きすぎる。一回り小型のライガルと一緒に、フィーネとアリエッタはイオン様を探して駆けまわっていた。

「こっち……!」

 獣型の魔物は、人よりも何倍も鼻が利く。ライガルを先頭にアリエッタに導かれるフィーネは、行く手に複数のマルクト兵の姿を見つけて遠慮なく譜術を放った。

「水に飲まれて! アクアレイザー!」

 高圧の水流が、直線上に並んだ敵をまとめて押し流していく。相手は分厚い甲冑を着ているので死にはしないだろうが、そのせいで将棋倒しになればなかなか起き上がって来れないに違いない。シンクは殺してもよいと言ったけれど、下手に殺せば平和主義のイオン様から不興を買って連れ戻すどころではなくなるだろうと思った。

「フィーネ、水は匂いわからなくなる、です」
「あ、ごめん。罪深き者に裁きを……レイ!」

 アリエッタに言われて、第四フォースから第六シックスに切り替える。床に鼻先をつけるライガルを見ながら、ふとフィーネはこれで一周ぐるりと回って艦橋ブリッジに戻る羽目にはならないだろうか、と考えた。

(まさかシンクに辿り着くなんてこと、ないよね……)

 匂いが一緒なのかどうかなんて、当然人間のフィーネはこれまで意識したことがない。一応音素フォニム振動数は微妙に被験者オリジナルとは異なるものだと聞いたことがあるが、生体情報を複製しているのなら、匂いが似ていたっておかしくないのではないだろうか。

「ねぇ、アリエッタ、イオン様の匂いってどんなの?」
「どんなって……うーん、木みたいな……爽やかで、落ち着く匂い?」

(祭祀の時に使うお香のことかな)

 言われてみれば、集中力を高める効果があるとかで、イオンがよく使っていた覚えがある。秘密裏に入れ替わっている都合上、イオン様だってわざわざ香の種類を変えたりしないだろうし、それなら間違ってもシンクに辿り着くことはないに違いない。フィーネがそう考えて密かに胸を撫でおろしたそのとき、

「イオン様……!」

 廊下を曲がったアリエッタが、ぱっと顔を輝かせた。

「見つけた、です!」
「アリエッタ!? それに、フィーネも……!」

 こちらを認識したイオン様の表情は、見る見るうちに強張っていく。二、三歩後ずさった彼は明らかにこの『迎え』を歓迎していなかったけれど、アリエッタは嬉しそうに駆け寄って彼の腕を取った。

「イオン様、無事でよかった……! アリエッタと一緒に、ダアトに帰る、です」
「待ってください、これはあなたたちが……? いけません、今すぐお友達を引かせてください」
「そ、そんな。だって、イオン様が誘拐されたって」

 叱られたことに泣きそうな表情になるアリエッタに、イオン様も困ったように眉を下げる。振り払ったり、譜術を使って逃げるような気配こそないものの、やはり二つ返事でついてきてくれることはなさそうだ。フィーネはちらりと彼の手の中にある巻物を確認し、説得を重ねる。

「私たちはイオン様に危害を加えるつもりはありません。どうかこれ以上の騒ぎになる前に、ご同行をお願いします」
「フィーネ……あなたを騙したことは申し訳なく思っていますが、僕は別に誘拐されたわけではないんです」
「はい。でも、たとえ今回の件がイオン様のご意思だったとしても、だめなものはだめです。帰ってきてください」
「戻れません。モースは戦争を起こそうとしているのです。わかってください、フィーネ」
「……」

 わかってください、と言われても、フィーネの仕事は導師の意を汲むことではない。形式上、神託の盾オラクルは教団の下部組織でこそあるものの、指揮系統としてフィーネの上官は師団長アッシュであり、参謀総長シンクであり、主席総長ヴァンである。
 フィーネがゆっくりと首を横に振ると、イオン様は無理解に傷ついたような顔をした。

(……ここでひるんじゃだめだ、嫌われることに慣れなくっちゃ。むしろ、アリエッタの分も私が嫌われるくらいの気持ちでいなきゃ)

「さぁ、戻りましょう。その手に持っているものもこちらに渡してください」

 言った通り危害を加えるつもりはないが、抵抗されるようであれば拘束くらいはさせてもらう。イオン様は奪われまいと親書を持つ手にぎゅっと力を込めたようだったけれど、やはり知り合いに向かってダアト式譜術を使うことに躊躇いがあるみたいだった。

(優しいだけじゃ、望みは叶えられないんです、イオン様)

 心の中でそう言い訳しながらフィーネが彼の腕を掴もうと手を伸ばした時、ぴり、と濃密な音素フォニムの気配が肌を撫でるのを感じた。

「歪められし扉、今開かれん、ネガティブゲイト!」
「!」

 フィーネはばっ、と大きく壁を蹴って、その反動で闇の空間に飲み込まれるのを間一髪かわす。
 
「退いて、ネクラッタ!」
「きゃ」

 しかしその隙に巨大な黄色のぬいぐるみが突っ込んできて、イオン様の傍にいたアリエッタを思いきり突き飛ばした。

「イオン様! 無事ですか!?」
「アニス!」

 トクナガに乗ったアニスが、彼に向かって手を伸ばす。

「させない!」

 ここでまたイオン様を逃がすわけにはいかない。フィーネはタックルの要領でイオン様に飛び込み、その場に引き倒す。さすがに下敷きにするのは忍びなかったため、着地の瞬間に体を入れ替えたが、こちらを見下ろしたアニスが信じられないとでもいうように目を見開いた。

「フィーネ、本気で私たちの邪魔するの?」
「……」

 返事をするなら、そうだとしか言えない。
 だが、フィーネがその問いに答えるよりも早く、床を伝うようにして獣の低いうなり声が身体に響いた。

「やっぱり、アニスも一緒だったんだ……! イオン様を騙して、勝手にダアトから抜け出して、アニスなんて導師守護役フォンマスターガーディアン失格なんだからぁっ!」

 アリエッタの叫びに呼応するように、ライガルがトクナガに向かって飛び掛かる。防御姿勢をとるトクナガにしがみつきながら、アニスもアニスで負けじと叫び返した。

「あんたに言われたくない! いくらイオン様のためとはいえやりすぎだよ! やっていいことと悪いことがあるってわかんないの!?」
「アリエッタ、悪くないモン! 悪いのはアニスだもん! アリエッタはちゃんとモース様の命令で、イオン様を迎えに来たんだから!」
「モースの……」

 大詠師の命令ということで、ようやく事態の大きさが呑み込めたのだろう。動揺したアニスに一瞬の隙が生まれ、ライガルの体当たりにバランスを崩す。

「魔狼の咆哮よ……」

 とどめとばかりに詠唱を始めたアリエッタに、フィーネは慌てて起き上がった。

「アリエッタ、もういい! イオン様と親書を回収してここは一旦退こう!」
「で、でも!」
「イオン様を返してっ!」

 アリエッタを止めようとしていると、背後からトクナガの腕がぶんと振り下ろされる。後ろ回し蹴りでそれを止めたフィーネは、またもやイオン様に向かって手を伸ばしていたアニスを邪魔するように、彼の胴をぐいと引き寄せた。アニスには悪いけれど、二度もイオン様を見逃すわけにはいかない。

「アニス! これを!」
「はい!」
「!?」

 だが、押さえつけられながらもかろうじて身を乗り出したイオン様には、初めからアニスの手を取る気はなかったみたいだった。バトンのように差し出された親書をしっかりと受け取り、アニスはくるりと踵を返す。

「なっ、イオン様を置いて行くの!?」

 いくら導師の身に危険がないとしても、導師守護役フォンマスターガーディアンが敵前逃亡など前代未聞だ。驚きのあまり反応が遅れたフィーネは、トクナガが走りだしてからはっとする。

「アリエッタ、イオン様をお願い!」
「わかった、です! みんなもアニスを追って!」

 トクナガの速度は見かけ以上に速く、フィーネよりも先にライガルのほうが辿り着きそうだ。前方にアリエッタのお友達がいる以上、迂闊に譜術を放つこともできない。

「アニス、諦めてそれを渡して!」
「これは絶対渡さない! フィーネこそ諦めてよっ!」
「イオン様よりそんなものが大事なの!?」
「違う、私は――、」

 振り返ってまで何かを言いかけたアニスに、追いついたライガルが思いきり体当たりする。それを叩きのめそうとして振るったトクナガの腕が艦の窓を突き破った。

「もうっ、しつこいっ!」

 もともとライガルは群れで狩りをする。いつの間にか周りを囲まれたアニスを見て、フィーネは逆にどうやってこの状況を止めたものかと迷った。アリエッタがいれば通訳には困らなかったけれど、フィーネでは魔物をうまく制御できないし、魔物の彼らに加減ができるとも思えない。

「アニス、投降してくれるなら手を貸すよ」
「誰が投降なんか! うわっ!」

 容赦なく喉笛を狙ったライガルの攻撃に、アニスが大きく身を仰け反らせる。畳みかけるように別のライガルがトクナガの足を狙って押さえ込み、彼女はきっとそこから抜けようとしたのだろう。トクナガを縮めた瞬間に飛び掛かられて、アニスの身体は勢いよく弾き飛ばされた。

「アニス!」

 そして投げ出された彼女は、そのまま吸い込まれるように開いた窓から陸艦の外へ。

「やろー、テメー! ぶっ殺す!」

 魔物相手に中指を立てたアニスが落ちていくのを、フィーネは呆気に取られて見ていることしかできなかった。この高さからでも、トクナガをクッションにすれば大きな怪我はしないだろうが……。

「……あ! 親書!」

 他人のことを心配している場合ではない。割れた窓から慌てて下の様子を伺ったフィーネは、予想通りアニスが上手く着地するのを見て、安堵とも落胆ともつかないため息をついたのだった。


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