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■ 50.しあわせの色(クロロend)

何もかも終わってしばらくの間、リアははっきり言って抜け殻のようだった。

あの日、クロロとの取引に応じることにしたリアはてっきりあの場で目を抉り取られるのかと思っていたが、現実にはきちんと─と言ってももちろん闇医者の手によるものだが─手術を行うことになったのだった。
正直、なにもそんなまどろっこしいことをしなくても殺して奪えば簡単なのに、クロロは本当に命までは取らないつもりらしい。
むしろ、リアが決心を固めたとき、彼は驚いているように見えた。リアがふたつ返事で了承したことが意外だったのかもしれない。いつもはしっかりと物事を見据える黒い瞳がゆら、と揺れて、結局彼はその後手術が済むまで一言も喋らなかった。

そしてリアは術後すぐの身体で無理をしつつもなんとか解毒剤を届けたわけだが、当然その後麻酔が切れれば耐え難い痛みが襲う。独学とはいえ念能力者であるために傷の治りは普通の人間より早い方だが、それでもやはり生まれて初めての大きな手術は身体にも心にも負担がかかった。

「それだけ渡して来たら、しばらくちゃんとここに通え」

終始無言だったクロロは緋の目と解毒剤を交換すると、最後にぽつりとそう言った。ここ、というのはもちろんリアが手術してもらった闇医者のところであって、彼は術後のことまで考えてくれていたらしい。「死なれては契約違反になるからな」確かに感染症や何やら難しいことを言われると、怖くなって素直に従うことにした。

だが身体の方はそれでよくても、精神的には抜け殻のように過ごすしかなかった。
瞳を失ったことがショックだったわけではない。クラピカが助かったことにも満足しているし、脱力感の理由に安堵というのももちろん含まれていた。しかし本当にリアはこれからどう生きたらいいのかわからなかった。

幸か不幸か一からやり直すチャンスが与えられたのはいいが、どこからやり直そうか。

ぽつん、と消毒液臭いベッドに寝転がってこれからのことを考えていた。そしてそんな折である、クロロがもう一つリアに施してくれたことがあるのを知ったのは。

「義眼……ですか?」

「ああ、そうだよ。これも手術の時に頼まれててね。見えるようにはなりゃしないがあんたの場合は丸ごとないわけだし、見た目だけでも普通になるだろう」

医者はそう言って、何か希望はあるか?と聞いた。虹彩の色を何色にするか、元の緋色よりは絶対に劣ってしまうだろうけど、と。
リアは考えもしなかったことに、思わず包帯の上から目があった場所に触れてみる。そこはぽっかりと落ちくぼんでいて、なるほど義眼が役に立つであろうことはわかった。そしてほとんど迷うことなく希望の色を口にする。

「……黒い瞳はありますか?底のない、真っ黒な瞳」

思い浮かべたのは、それでもやっぱりクロロだった。自分で鏡を見て確認することは決してないけれど、彼のあの吸い込まれそうな黒色が好きで、欲しいのはリアも同じだった。
彼のことでたくさん泣いたしたくさん傷ついたけれど、どうしても彼ばかりが悪いとも思えない。いや、もう善悪ではなく今更嫌いにはなれない。きっとクロロなら甘い奴だと呆れるかもしれないが、こうして義眼まで用意してくれてる彼だって十分に甘いじゃないか。


そうして二度目の手術が終わった頃には、リアはもう抜け殻ではなくなっていた。この新しい目があれば、もう何にも怯える必要はない。まだ少し慣れは必要だけれど、きっと仕事だってできるようになるだろう。
退院したリアの足取りは、自分でもびっくりするくらい軽かった。きっと優しい皆のことだからいなくなったリアのことを心配してくれているとは思うが、むしろ気分は晴れやかだ。悪いけれど、このまま会わないほうがお互いの為かもしれない。少なくとも今の状態ではいくらリアが大丈夫だと言おうと説得力が無いから、せめて生活が落ち着くまで。おそらくキルアは瞳を失ったことに感づいただろうが、彼ならそっと胸にしまっておいてくれるだろう。

リアは念を解き、フードを外して街の中を歩く。気配だけで器用に人は避けられた。道はそのうち覚えるだろうし、障害物は杖か何かを持てばいい。他人の視線は感じても、それがすぐに逸れていくことに安心した。

「見られてない……」

呟いて、解放感を味わった。しかしそれは同時に少し寂しくもあった。「一人になっちゃった……」元から一人だったけれど、最近は誰かといるのが当たり前になっていたから。

弱気になりかけた気持ちを振り払うように、リアは首を振った。見られてなくて当たり前なのだ。街ゆく人の気配はリアのことなんか気にも留めずにさっさと歩き去っていく。だからリアもその波に乗ってしまおうと歩調を早めた、その時だった。

「リア、」

後ろから腕を掴まれ、リアは振り返る。もちろん振り返ってもリアにはそこにいる人物を目視できないが、その声には確かに聞き覚えがあった。「……クロロ?」間違いない。彼がいることに驚いて、リアは名前を呼ぶだけで精いっぱいだった。

だが、クロロは混乱するリアにお構いなしに、腕を掴んだまま歩き出す。それは少し彼にしては乱暴な動きだったが、リアは怖いとは思わなかった。

「な、なに?クロロ、私、もう……」

だが、怖くなくてもわからないものはわからない。緋の目をクロロに渡してリアは『無価値』になった。だから彼がこうしてここに来て、リアの腕を引いている理由がわからない。
だんだん周りが静かになって、どうやら街中から外れたらしい。

「…ねぇ、クロロ、どこ行くの?」

やがて耐えきれなくなってリアがそう問えば、彼はようやくそこで足を止めた。

「……お前は今何を考えている?」

「え……?何って、」

「なぜ抵抗しない?どうして前と同じように俺の名前を呼べるんだ?」

クロロの声は怒っているようにも聞こえた。
昔、リアが無防備だったり危険な真似をしたときに注意した際のそれと同じ声音だ。「だ、って……だってクロロは、」憎めるはずがない。よく、愛憎は表裏一体と言われるが、それでもリアはクロロを憎むことなんてできなかった。

「俺はお前の光を奪った。恨んではいないのか」

「……そうだけど、でも、解放された。もう誰からも逃げる必要がなくなったよ」

リアはまっすぐにクロロのいる方向を向いて、強く訴える。表情が見えないから、今クロロがどんな想いなのか読み取ることは難しい。だが、しばしの沈黙の後クロロはぽつりと呟いた。「……悪かった」そしてもう一度、はっきりと良く通る声でリアに謝った。

「俺は間違っていた。いや……気づくのが遅かったせいで、お前に辛い思いをさせた」

「クロロ……」

苦しそうな声に思わず名前を呼べば、不意にぎゅっと抱きしめられる。感じる体温は温かく、包まれているだけで自分がそこに存在していることを実感できた。その実感こそ、リアがずっと求め続けてやまないものだった。


「欲しかったのは瞳じゃない……リア、お前だった」

「…っ!」

クロロの言葉に、思わず息が止まりそうになる。「瞳なんていらない」彼の抱擁が強くなって、リアもそれに応えるようにしがみついた。欲しかった言葉に胸が締め付けられる。「クロロ……私、」嬉しい。嬉しくて嬉しくて仕方がないのに、涙が止まらない。視界が霞む感覚はないけれど、頬を温かいものが伝っていった。

この瞳でも泣けるんだ。

「……私、解放されたって言ったけど……本当は不安もあったの。もう自分に何の価値もなくなった気がして、一人ぼっちになるのが怖かった……でもクロロは私を、」

クロロはリアの頬に手を添えると、親指で頬に流れる涙を払うようにする。それから気配が近くなったかと思うと柔らかいものが唇に触れた。触れるだけのそれは壊れ物を扱うかのように優しくて、彼が自分を大事に想ってくれているのがよくわかった。

「許せとは言わない。だが、俺は『蜘蛛』だ。本当に欲しいものがわかった今、みすみすそれを放っておくつもりはない」

たとえお前があいつを好きでも、だ。

そう言ったクロロの表情を見ることができたどんなによかっただろう。

リアにとってクラピカも、確かに大事な存在だった。それは同胞として、仲間として、それだけでなく純粋に一人の人としても、彼は十分に魅力的なひとだった。だからこそリアは瞳を差し出してでも死なせたくないと思ったが、クロロの言うそれとは意味合いが違う。「……私は、クロロのことがずっと好きだったよ。憧れてた」そして初恋は美しくも無残に終わるものだと思っていた。

「でも、クロロが旅団だって知って、同胞の仇だって知って、クラピカのことも……だから私、どうしたらいいのか、」「わからなくていい。わからなくていいから、傍にいろ。俺と一緒に来い」

来い、とはっきり言われたのはそれが初めてで、リアは上手く言葉が出なかった。

「もう嘘はつきたくないから、リアを幸せにするとは誓えない。俺の傍にいればこの先、あいつのことも含めて辛い思いをするだろう。それでも俺は、リアには傍にいてほしい」

「……しあわせだよ。今も、もう」

自分でも、この選択が正しいのかどうかはわからなかった。クラピカ達が光なら、彼の生きる世界は間違いなく闇だろう。それに自分に流れる血のことを考えれば、これは酷い裏切りなのかもしれなかった。

「私の目、見て。クロロと同じ色にしたの。深い深い黒色が、貴方の黒が好きだったの」

だからこれはリアにとってのしあわせの色だ。他の誰がなんと言おうと、クロロの色に染めてほしかった。

「連れてって、私を」

もちろんクラピカ達や家族を思い出さなかったわけではない。それでもリアはたとえこの選択で地獄に落ちようとも、後悔しないと思った。むしろクロロと一緒に堕ちていきたいと思った。



その日を境に、クルタ族のリアは死んだ。もはや今の彼女を見てあの世界七大美色の一族の生き残りだと気づくものはいないだろう。
けれどもその代わりに幸せそうに微笑む普通の少女が、この世界を新たに生きていくことになったのだった。


End


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