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■ 50.しあわせの色(クラピカend)

夕暮れ時の柔らかな日差しを肌に感じながら、リアは買い物袋を手に下げて寂れた通りの奥にどんどん進んでいく。
初めて自分で働いて、初めて真っ当な手段で手にした食べ物。覚えた頭の中の道を頼りに、雨風のしのげる自分の住処を目指す。
ぼろい廃墟はとても埃っぽく、腰を下ろしたむき出しのコンクリートは冷たかったが、リアは袋の中から買ったばかりのパンを取り出して思わず笑顔になった。

こうして普通に食事をしていると、今ではもうヨークシンでのあの一件が懐かしく思える。
が、実際にはリアが彼らの元を去ってからまだ日は浅かった。日付で言うなら、2か月も経ってはいないだろう。そのわずかな間に変わったことと言えば、リアに新しいガラスの義眼が馴染んだことと、それによってささやかながら職を手にしたことだった。

もちろん、両目ともに義眼では何も見ることはできない。しかしこれでリアにはもう『物』としての価値は無くなり、他人に怯えて暮らす必要もなくなった。あの瞳はリアにとって誇りでもあったが、同時に呪いでもあったのだ。ある意味今、これほどの自由はないだろう。
もともと盲目のふりをしたり気配に敏感なリアは、瞳を失ってもそこまで不便になることは無かった。だからというわけではないが、自分の選択は間違っていないと思ったし、後悔もしていない。
それでもクラピカ達の元から去ったのは、優しい彼が自分を見る度に良心の呵責にさいなまれるに違いないと思ったからだった。

リアはふと足元に当たる柔らかい感触を感じて、おそるおそる手を伸ばす。ふわふわとした毛並みと鳴き声から紛れもなく猫だろう。じゃれるように絡みついてくるが、この猫が狙っているのは自分の手にしている食料。リアはくすり、と微笑むと、完全に袋からパンを取り出してそっと地面に置いた。すると案の定、猫の注意は完全にリアから離れたようで足元のぬくもりは呆気なく去っていく。

「パンも瞳も、同じことだよね」

リアは空になった袋をくしゃくしゃに丸めると、ぽんと膝を打った。この廃墟で夜を明かすのもおそらく今日が最後だろう。行く当てのないリアに職を与えてくれた親切な人は、リアに住む場所も与えてくれると言った。要は住み込みで働けることになったのだ。
だからこれからは普通の『人間』としてまた新しく生きて行く。それこそがリアがずっと望んでいたものだった。

「じゃあね、お前も頑張るのよ」

猫の気配がする方向に向かって、リアは声をかけた。にゃーとでも鳴けば可愛げがあるものを、本当にどうしようもない猫。それでも懸命に生きようとしているそのたくましさは嫌いになれなかった。

そしてそのままリアは大通りの方へ戻ろうと踵を返したが「……っ、どうして、」いるはずのない人物に動揺する。もともと気配の判別自体は得意ではなかった。だが、確かにリアはこのオーラを知っている。こんな狭く汚いところにいる自分をどうやって見つけたのだろう。驚いて固まってしまったリアに向かって、彼はゆっくりと近づいてきた。「リア、」聞きなれた声で名前を呼ばれて、目の前に来ているのが彼であると認めざるを得なかった。

「……クラピカ、無事だったんだね」

クロロが渡してくれた解毒剤が本物であることは、微塵も疑っていなかった。緋の目を渡したときにはもうクロロの表情は見えなかったけれど、彼の声は低く暗く、少しの失望を含んでいたからだ。

残念ながら、今でもリアにはその失望の理由がはっきりとはわからない。約束を守らねばならなくなってクラピカが生き残ることにがっかりしたのかもしれないし、リアが付き合いの長いクロロの想いよりもクラピカを優先したからかもしれない。あるいは、単に取り出した緋の目があまり美しくなかった、とか。

正面から向き合って一目見て義眼とわかったらしく、クラピカはそこに突っ立ったまま「すまない……」と消え入りそうな声で謝った。

「私のために、そんな……」「クラピカ、座って」

彼ならば謝るだろうと思っていた。だからこそこうして目の前から去ったのに。リアが率先して腰を下ろすとすぐ右隣に彼の気配も落ち着いた。懐かしい気配と距離に、自然と笑みがこぼれる。

「ねぇ、クラピカ。私いま、ちゃんとしあわせだよ」

「……」

「確かに他の同胞たちは無理矢理奪われて悲しいだろうし、私も家族の瞳をちゃんと埋葬してあげたいと思う。だけど少なくとも、自分の瞳についてはもういらなかったの」

今では、どうしてもっと早くにこうしていなかったんだとさえ思う。とはいえ、リアの思いがクラピカにどこまで伝わるかは怪しかった。瞳を誇りとし、復讐を糧に生きてきた彼とは根本的に考え方が違うだろうし、どちらの考え方が正しいというわけでもない。

「しばらく皆と過ごして、普通の暮らしがとても楽しかった。だから、私も静かに生きていけたらいいなと思ったの」

「リア……私は、それでも復讐をやめる気はない」

「わかってる。止めないよ」

正確には、止める資格が無いのだと思った。それがクラピカの選んだ道ならば、外野がとやかく言うことではない。クラピカにも幸せになって欲しいけれど、真面目な彼は自分の『使命』を果たさずに自分だけが幸せになるなんてできないだろう。仕事の時は努めて冷酷に振る舞っても、本当の彼は優しくて繊細なひとだ。

「きっと、そういう真っ直ぐなところに惹かれたんだと思うから……」

呟くようにそう言えば、隣でハッと息を呑む気配がしてリアは思わず苦笑する。今だけ、今だけでいいから彼の表情を見たかった。しかし次の瞬間そっと重ねられた手に、今度はリアが驚く羽目になる。「……クラ、ピカ?」直に伝わる彼の体温はとても熱く、ぎゅっと握られた手に力がこもった。

「リア、いつになるかわからないが……全て終わったら……」

一緒に暮らそう。

クラピカがそんなあてのない先の話をしたことが意外で、リアは思わず彼がいる方向を見つめる。「それって……」だが、言いかけて途中でやめた。彼は戯れや軽い口約束でそんなことを言う人ではない。意味は一つだ。
リアは自分の頬を伝う温かいものに気が付いて、義眼でも泣くことができるのだと初めて知った。

「うん、待ってる……」

クルタの村のことは全く知らない。けれども自然豊かな土地で小さな家を建てて、慎ましやかに暮らす彼と自分を想像して、そうなったらいいなと思った。また皆で集まって、下らないおしゃべりやゲームをしてしあわせに暮らす。そんな日が本当にくればいい。

「私もそれまで頑張る。
……ごめんね、何も言わずにいなくなって。生活が落ち着いたら、ゴン達にもちゃんと謝る」

「あぁ、ひとまずリアは元気にしていると伝えておこう」

繋いだ手の体温が溶け合い、本音を言えば離すのがとても惜しい。きっと緋色の太陽が照らし出す二人の影も、ぴったりと寄り添っているのだろう。

「クラピカ、もうひとつお願いがあるの」

リアは思い出したことがあって、声をあげた。

「なんだ?」

「あの本の続き、今度はクラピカが私に教えてほしい」

彼の選んだ本は難しかったから、わかりやすいハッピーエンドではないかもしれない。
それでもあの本は二人が共有した大事な時間だった。だからその結末をいつかちゃんと知りたい。

「わかった、約束しよう」

声でクラピカが笑ったのがわかったから、リアもにっこりとほほ笑んだ。胸を満たす感情は夕差しのようにとても暖かい。

たとえこれから先どれほどの困難が待ち構えていようと、後悔だけはしないだろうと思った。不器用なだけで、本当はもっと簡単にしあわせになる方法だってあったのかもしれない。けれどもそんな生き方は誇り高きクルタ族には相応しくないだろう。

両親は厳しい掟を嫌って逃げ出したけれど、それでも幼いリアに教えてくれた言葉があった。

「いつ、いかなるときも心健やかに」

「すべての同胞と喜びを分かち合い、悲しみを分け合い」

「このクルタのために、永遠に讃えよ」

世界中に同胞はたった二人しかいなくても、もう赤き瞳の証を持っていなくても、魂だけは強く清らかに生きていきたい。声が揃うとそれだけで満ち足りた気分になって、リアはまたくすりと笑う。

それからこの胸の暖かな緋色を消さぬよう、絶やさぬように、二人はこれから生きていこうと誓い合った。

End

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