- ナノ -

■ 36.渦巻く感情

泣き出しそうな顔をしているリアを前に、クロロはとうとうこの時が来たか……と内心ひとりごちる。

夜、鎖野郎たちが付けてきていたことはとっくに気が付いていた。もしそこで奴が攻撃を仕掛けてきたら、その時はその時。今のクロロは念を遣えるため、特に恐れることは無い。
けれども奴は何もせず、リアは何も知らずに帰って行った。
その時点でこうなることがわかっていたから、クロロはこの場に残って彼女を待っていたのだった。

「……欲しかったって、じゃあクロロは私も、私のことも…?」

「それは、」

当然リアが抱くであろうその問いも、クロロにとっては想定内。しかし、だからといって答えを用意していたかと言われるとそれは違う。
どうしてリアに拘るか、それはクロロ自身にとってもはっきりと形をなさない曖昧な感情だった。

「騙してたの…?クロロは私のこと、人間として見てくれてたんじゃないの?
どういうつもりで一緒にいたのっ……?私のこと、綺麗って言ってくれたのは」「瞳だ」

彼女の悲痛な叫びを遮ったのは、酷く素っ気ない端的な言葉だった。
リアは言葉も出ないのか、大きく目を見開いたまま固まる。じわりと涙の膜が広がって、鮮やかな緋色の光が煌めいて見えた。

「お前に興味を持ったのはその瞳だからだ。
でなければ、孤児なんて俺のいたところでは珍しくともなんともない」

「……」

「それに、俺はお前を騙していたつもりはない。前にも言ったはずだ、ついてきたければついてこいと。離れたくなったら離れろと。
お前と一緒にいたことに特に理由はない。ここヨークシンで会ったのも偶然だろう?」


これは別に、彼女を遠ざけるための嘘でもなんでもなかった。クロロは聞かれたことにただ正直に答えただけである。自分でも本心がわからなくて、リアと出会った一番最初から順に自分の感情を辿っていくしかなかった。そして不思議なもので、言葉にすれば大抵のことは腑に落ちる。そう、クロロが幼いリアの面倒を見たのは、彼女が緋の目の持ち主だったからだ。ホテルであっさりと別れたのは、別にもう要らないと思ったからだ。

そこまでは難なく理解できる。だがその後どうしてまた彼女に連絡を取ったのか、どうして彼女を引き止めたい思いに駆られているのか、それがどうしてもわからないのだ。

「……お前が同胞の所に行きたいというなら行けばいい。俺は止めはしない。
お前が俺を憎むのも自由だ」

しかし引き止めたい思いとは裏腹に、彼女を手放してやるべきだと囁く自分もいた。実際、クロロならばいくらでも嘘や甘言で彼女の欲しい言葉をかけてやれたし、言葉や態度で彼女を騙すことも、それこそ鎖野郎に憎しみを向けさせることもできたはずだ。だがそうしなかったのは彼女自身に選ばせたかったから。彼女が『幻影旅団』である自分の事をどう考えるか知りたかったから。

「……クロロ、」

ぽつり、と小さく名前を呼んだ彼女の声は震えている。震えていて、どこか懇願するようでもあった。
そしてそれを聞いたクロロは、最後まで正直に答えようと改めて決意する。正直であることこそがクロロにできる、クロロなりの誠意だった。

「……リアのことは、本当に綺麗だと思う。お前を殺そうとは思ったことはない、これだけは誓えるよ」

「違う、違うの……!」

けれども、まだ青いリアにそれを分かれというのはあまりにも酷な話。

不意にばん、とテーブルが揺れ、クロロはそれが目の前の彼女によって引き起こされたという事実に遅れて気が付いた。リアがこんなに感情を露わにするのは初めてのことで、不覚にも少し面食らう。
なぜなら昔の彼女はどんなに辛くても悲しくても、ただ黙って涙を零しているような子だったからだ。

「私が欲しいのは、そんな『綺麗』じゃない……」


俯いたリアは、そっとペンダントを外すとテーブルの上にじゃらり、とそれを置いた。俯く際に僅かに見えた緋色の瞳は濃く紅く、おそらく凄絶なまでの美しい色をたたえているのだろう。

「……っ、さよなら、クロロ」

立ち上がった彼女は、それでもまだ律儀に挨拶をした。

「殺さないでくれたことは、感謝してる…」

「そうか……」

だから、それ以上の無駄な弁解や行動をするのはみっともないと思った。本当に緋の目だけが目的なら、今ここで攫ってそれこそ一生閉じ込めてしまってもいい。彼女が泣こうが叫ぼうが、生きた緋の目としてコレクションにしてしまえばいい。だが彼女が別れを告げたのを聞いて、その時のクロロは頷くしかなかった。


結局クロロがわかったのは、手放すことは奪うことよりも難しいということ。
特にまだ飽きてもいない宝を手放すのは、クロロにとって今までにないことだった。
それも全て彼女には正直でありたいと思ったゆえの行動だったし、彼女がこのまま自分といるよりも幸せなのではないかと思ったからだが、残念ながらそんなことはリアの知るところではない。

もっといえばクロロ自身でさえ、自分が彼女に抱いている想いを正確には把握していなかった。

「今まで、ありがとう……」

それだけ言って後は振り返らず、空き家を出て行くリアの小さな背中をクロロは黙って見守る。ありがとうと言ったくせにばたん、と乱暴に扉が閉められて、きっと彼女も混乱しているのだろう。
そしてまた、混乱しているのはクロロも同じだった。

「……こうなることはわかっていたんだがな……」

想定内のことだったのに、こんなに心が乱されるものなのか。
クロロは深いため息をついて、つい先刻まで女が腰掛けていた空っぽの席に視線を落とす。

どれほど世界のことを知ろうと、どれほど欲しいものを手に入れようと、肝心の自分の感情はいつまでたっても明瞭にまとまらないままだった。

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