- ナノ -

■ 08.レトルトふやける

「本当に何もないよ?私基本買った食材食べきっちゃうし、それに部屋も狭いし汚いし……」
「だいたい予想がつくから問題ないよ」
「いや、イルミがよくても私が嫌なんだけど……」
「何か言った?」
「……」

一体イルミは何を考えているのだろう。
突然、ナマエの家で食事をしたいと言いだした彼に、ナマエは当然激しく動揺していた。まさか本当にお腹がすいて死にそうなわけでもあるまいし、やはりこれは何かの嫌がらせと考えるべきなのだろうか。普段から家を綺麗にしているタイプで、なおかつ人を招いてもてなすのが好きな性格ならまだしも、ナマエにとって突然他人を家に招くのは完全に苦行でしかない。しかも家に来るのが先ほど告白してフラれた、自分の片思いの相手とくれば尚更だ。

実は、ナマエは自分が酩酊して口走ってしまったことも、イルミに言われたことも全部忘れてなどいなかった。念を使った後、気を失ってしまったのは本当だったが、目覚めて正気に戻った時の絶望と言ったら……。
自分はとんでもないことを口にしてしまった。これからどんな顔をしてイルミに会えばいいのだろう。ただフラれただけでも気まずいのに、自意識過剰で念しか取り柄がないと言われては流石に傷つく。たとえ本当のことだとしても、もう少し断り方ってものがあるのではないか。

だが逆に考えるとそんな他人を思いやる心がないイルミだからこそ、もしかすると今回の失態を無かったことにできるかもしれない。
ナマエが何もかも忘れたことにしたらどうだろう。あれは酒に酔ったせいでの戯言。こちらが普段通りに振る舞ってさえいれば、イルミにその気はないのだからうやむやにできる。彼が必要としているのは都合のいい駒であり、彼に迫って面倒をかけない限りは心の中で想われていようと気にしないはずだ。

そう考えたからこそ、ナマエは全て酒のせいにして白を切った。覚えていないのかと問われたが、首を振ればそれ以上は追及されなかった。まぁ、彼も藪をつついて蛇を出す必要はないのだから当然だろう。
傷心で軽口を叩くのは辛かったが、せめてこの関係だけは壊したくない。報われなくとも、イルミと多少の認識のずれがあっても、せめて友達でいたかった。

「あー、あんまりじろじろ見ないでほしいんだけど。ほら、一応女の子の部屋なわけだし?」

……どうせ向こうは女だとすら思っていないだろうが。
ナマエは普段自虐めいたことをいうタチではなかったが、今はそんな言葉が脳内に浮かぶ。家にあがったイルミは興味深そうに室内を見回していたが、やがて彼にしては珍しく口角をあげた。

「初めて来たけど、まさにナマエの家って感じだね」
「はいはい、片付いてないって言いたいんでしょ。生憎うちには執事がいないもんでね」
「でも思ってたより汚くなかったよ」
「私がごみ屋敷にでも住んでると思ってたわけ?」
「うーん、近からず遠からず」
「……失礼なヤツ」

確かにお世辞にも片付いた部屋とは言い難いが、ゾルデック家と比べられても困る。ここはごく普通の1LDKのマンションだし、自分で家事をやっている以上どうしても生活感は拭えない。ナマエはイルミをダイニングの椅子に座らせると、自分は食材の確認をしに行った。

「あのさぁイルミ、来る前も言ったけどほんとにろくな食材ないよ」
「別になんでもいいって言っただろ」

イルミの素っ気ない返事に、冷蔵庫を覗き込みながらナマエは小さく溜息をつく。なんでもいいという返事が一番困るのだが……というか、これは流れ的にナマエが手料理を振る舞う流れなのだろうか。
食べることが好きなナマエは自分でも色々料理を作るしどちらかといえば得意なほうだったが、もちろんイルミが普段食べているようなシェフの料理には及ばない。作りたくないな、と心底思った。真剣に作ってまずいと言われたら、今のナマエには苦笑する心の余裕も、腹を立てる元気もない。これ以上傷つきたくなかった。

「ほんっとうになんでもいいんだね?」
「しつこいな」
「レトルトカレーでも文句言わないんだね?」
「レトルト?あぁ、インスタント食品ってこと?別に構わないけど」

さぁ言質はとったぞ、と意気込んで、ナマエは大量にストックしてあるレトルトカレーを取り出す。人をもてなすのになんてズボラな女だ、と自分でも思ったが、作ってまずいと言われるよりはいい。一人暮らしでは毎回炊くのが面倒なため、ご飯はいつも冷凍保存してあるし、ルーはお湯を沸かせばすぐに出来るので、イルミと二人きりの気まずい時間も短縮できるというわけだ。

「たぶんイルミは食べるの初めてだよね」
「うん」
「あらかじめ言っておくけど、まずいよ?」
「まずいってわかっててオレに食べさせるんだ」
「私には美味しい。でもイルミにはまずい」

温めたパウチの封を切れば、カレー特有の香りが部屋に広がる。それを解凍した白米の上にかければもう完成だ。いつもは一人で何人前も食べるが、今日用意したのはイルミと自分の一人前ずつ。食事とはいえ、向かい合って長く顔を合わせているのが辛かった。

「はい、どうぞ」
「うん」

テーブルに二人分の皿を置き、イルミにスプーンを手渡す。席についたナマエは自分もまたスプーンを手に取り、カレーを頬張った。

別にこれと言って変わり映えのしない味だ。ナマエにはよく慣れ親しんだ味だし、特別美味しいとも特別まずいとも思えない。

「本当だ、まずい」

一口食べたイルミはなぜか感動したようにそう呟くと、続けてもう一口、もう二口と口にした。

「まずいなら食べなきゃいいのに」
「でもナマエにはこれが美味しいんだろ?」
「そうだけど、なに。悪かったな貧乏舌で」
「別に悪いとは言ってないよ、ただわからないなと思っただけ」
「無理にわからなくていいし」

歩み寄りも相互理解も憐憫もまっぴらだ。
たまたまナマエが能力者で、たまたま裏稼業をしていて、イルミとはたまたま仕事を一緒にするようになっただけ。住む世界が違うのも、相手にされていないこともわかっている。

「無理はしてない、ただナマエのこと知りたいと思って」
「あっそ」

ナマエは自分の皿に視線を落とすと、目の前のカレーに集中しようとした。唐突なイルミの言葉に動揺しつつ、入っているのかいないかも定かではない肉を、暗いルーの海から発掘することだけに意識を向ける。
一体何を言い出すんだろう。何が狙いなんだろう。そういえば食事中は開放的な心理になりやすく、交渉や秘密を聞き出すのにはうってつけらしいが、生憎彼の望む情報などナマエは持っていない。もしも次の仕事の依頼なら、しばらくは断ろう。

「……ほんとに覚えてないわけ?」

だが、ぽつり、と呟かれたその一言にナマエは頭の中が真っ白になって、たった今考えていたことすらわからなくなった。「何が」声が震えそうになる。お願いだから何か他のことを言って、と心の底から願った。

「オレは覚えてるんだけど」
「……」

イルミは馬鹿なんじゃないだろうか。せっかくこっちが何も知らないふりをしてあげてるのに、めんどくさくないようにしてあげてるのに、どうして自分からその話題を振るのだろう。
とてもじゃないが顔を上げられず、ナマエはぎゅっとスプーンを持つ手に力を入れた。震えていることを悟られたくなかった。

「ナマエはオレのこと、」「忘れてって言った」

「やっぱり覚えてたんだ」

少し責めるようなイルミの口調に、墓穴を掘ったと思わざるを得ない。だがどうしてもその先の言葉を聞きたくなかったナマエは、遮らずにはいられなかったのだ。

「もうどうでもいいでしょ、あんまり覚えてないことには変わらないし」
「ナマエ、」
「だからこの話はやめよう」
「やめない、人の話は最後まで聞きなよ」
「いや」
「ナマエ、」
「イルミの話聞いたら、せっかくのカレーがまずくなる」

そっとしておいてほしい。傷口を抉らないでほしい。行儀が悪いことはわかっていたが、ナマエは皿の上のカレーをスプーンで弄ぶしかなかった。「元々まずいだろ」いつもなら笑ってしまうようなイルミの混ぜっ返しにも、凍てつきかけた心は動かなかった。

「イルミの舌がわがままなだけ」
「ああ、そう、そうかもね」
「だから無理しなくていいって言ったじゃん」

無理にまずいカレーを食べることも、無理にナマエの感情を知ることも、全部イルミにとっては何の得にもならないことだ。「おかしいよ、イルミは……」不毛なやり取りは彼の好むところではない。ましてやその結末に得られるのがガサツな女からのろくでもない好意なのだから、彼はさっさとこの話題をやめるべきだ。今ならまだ、時間を置けば何事もなかったことにできる。
しかし彼は大げさに溜息をつくと、ナマエ、と落ち着いた声で呼びかけてきた。

「オレがおかしいのはわかってるよ」
「へぇ、自覚あったんだ」
「だって、まずいはずのこのカレーを、ナマエと食べたら美味しいって思うんだから」

「……なに、それ」

思いがけない言葉に息が詰まる。だが、期待して裏切られたくない想いが、ナマエの口からいつもの憎まれ口を引き出した。「さっきはまずいって言ったくせに」あれだけ無茶苦茶に振っておいて、という気持ちもあった。

「それを言うならナマエだって、好きだって言ったくせに」
「……カレーがね。そう、私はカレーが好きだよ」

動揺ごと呑みこむみたいに、ナマエはこれ見よがしにカレーを口の中へ突っ込んだ。「オレはナマエが好きだよ」だが、それは返ってナマエの首を絞めただけだったらしい。盛大にむせたナマエは涙目でイルミを睨んだ。このときようやく彼の顔を見ることができたが、彼はいつも通りの無表情だった。

「……っ、なに言ってるの」
「オレは告白の返事をしたまでだけど」
「わ、私のこと、興味ないって言った!」
「うん。あのときナマエにむかついてたからさ、ごめん」
「あれをごめんだけで済ますんだ……」
「ナマエだって、オレのことそういう好きじゃないって言ってただろ」
「は?いつ?」
「オレがシャワー出たとき」
「えっ?聞いてたの?」
「うん。で、むかついた。ナマエはオレのこと嫌いなんだって思ったから」
「……嫌いとまでは言ってないじゃん」
「じゃあ好き?」
「……」

「素直じゃないね」

呆れたようなイルミの物言いに、自分でも内心で同意する。でも、本当に今更どんな顔をすればいいのかわからない。まだイルミの告白が信じられないくらいなのに、すぐに甘い言葉なんて吐けなかった。二人は元々そういうこととは対極の位置にいたのだから、愛の言葉よりも憎まれ口が先に出る。「……わかってたでしょ」可愛くない女だと、自分で自分が恨めしい。こんなにもどきどきしてるのに、こんなにも嬉しいのに、それが言えない。

「いいよ別に、そういうナマエを好きになったんだから」
「……イルミって、そんなキザなこと言うんだ」
「悪い?」
「気味が、ね」
「酔ってるナマエは可愛かったのに」
「覚えてない、忘れた」
「あっそ」

そこでイルミはちょっとだけ笑った。

「で、ナマエはなんで泣いてるの?」

言おうとして言ったわけではないが、あれは一世一代の告白だった。いつもふざけておくびにも出さなかったが、イルミのことがずっと前から好きだった。叶わないとも思ってた。
それなのに、想っていた相手から自分も好きだと言われて嬉しくないわけがない。我慢しようと思っても後から後から涙が溢れて来て、ナマエは再び俯いた。

「カレーが美味しいからだよ、ばか」

素直じゃなくても、今はまだ許して欲しい。
しかしながらまた、こんなにカレーが美味しいと思ったのも生まれて初めてのことだった。

END

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