- ナノ -

■ 02.男や女のその前に

「ちなみに聞くけど船酔いは、」
「うわぁ、すっごい!これもう船っていうかひとつの街だよね!へぇ〜船上パーティーとか憧れるなぁ」
「……ナマエに聞いたオレが馬鹿だったよ」

せっかくそれなりのいいドレスを見に纏っていても、言動が馬鹿丸出しでは意味がない。旅に必要なものは乗船前にこちらで用意して送ってあり、割り当てられた部屋に着けばきちんと届いている手筈になっていた。にも関わらず勝手にキャリーケースを引っぱって来たこの女は、本当にこれが仕事であるとわかっているのだろうか。
だがこういった旅では女連れであるほうが疑われにくいし、こんなナマエでもいないよりかは役に立つ。余計なことをしゃべりさえしなければ、ナマエはこういった華やかな場でも決して見劣りしない女であった。

「ん?今なんか言った?」
「なんでもない。それより一応夫婦って設定だから、恥ずかしいことしないでよね」
「失礼な、私が妻でどこがどう恥ずかしいわけ」
「自覚がないのが一番の問題だよ」
「わかったわかった、大人しくしてりゃいいんでしょ。早く客室見に行こう。楽しみだなぁ」

ナマエがわかった、と二度言うときはだいたいわかっていないときだ。
早くも不安に駆られながら、イルミは渡された客室の鍵を取り出す。夫婦の設定だからもちろん部屋は一室だ。女らしさの欠片もないくせにきっとナマエは文句を言うんだろうな、と思いつつ、こっちだよと先に立って歩く。

「はい、ここね。鍵はオレが持っておくから」
「わー広ーい!」
「聞いてるのナマエ?」
「ベッドもふかふかー!」

中を見るなり歓声を上げたナマエは、荷物をそのへんに放りだして一直線にベッドへと身体を沈める。ドレスの裾がめくれ上がって白い太ももがあらわになったが、全く気にしていないようだ。
それを視界に捉えてしまったイルミはいたたまれなくなって目を反らしたが、どうして反らす必要があったのか自分でもわからない。慣れている、と言えば語弊があるが、女の身体にどぎまぎするほど純情でもなかった。しかも相手はあのナマエだ。

「ちょっと、そこオレも寝るんだからぐちゃぐちゃにしないでよ」
「うるさいなぁもう……って、え!?今なんて!?」
「だからそこはオレのベッドでもあるの。意味わかる?」
「はぁっ!?一緒に寝るってこと!?」
「嫌ならナマエが床で寝れば」
「床は……まぁ床もふかふかで寝れないこともないけど、やっぱやだ私このベッドがいい!」
「あっそ、じゃあ我慢しなよ」

しつこいようなら本気で床に寝かせよう。
不覚にもナマエの太ももに動揺してしまった自分に腹を立てていたイルミは、半ば八つ当たりにも似た気持ちで吐き捨てる。だが、意外にも彼女はそれ以上食い下がることなく、あっさりと受け入れた。

「ちぇー、まあいいか。どうせイルミだし」
「なんだか馬鹿にされてる気がしないでもないけど」
「だってさぁ、隣で人形か死体が寝てるのと変わりないなと思って」
「お前を死体にしてやってもいいんだよ」
「わかる、イルミってそういう趣味ありそう」
「ないよ馬鹿」

人のことを一体なんだと思っているのか。男として見られていないどころか、生き物としてすら見られていないなんて、失礼にも程がある。まあ、変に意識される方が面倒といえば面倒なのだが。

「ほら、いつまでも寝転んでないで。船の中見に行くよ」

イルミは少しもやもやとしたものを抱えながら、ナマエに向き直った。「え、まだ荷ほどきしてないのに」ベッドにダイブしたせいで彼女の髪は乱れていたが、そこには艶めいた雰囲気の欠片もない。どちらかといえば庭を駆け回ったあとの子犬のようだとさえ思った。

「それは後で。っていうか要らないって言ったのに何を持ってきたのさ」
「ふふん、それはもちろん……」

意味深な笑みを浮かべたナマエは、勿体つけるようにキャリーに手をかける。一応危険物の持ち込みがないかチェックがあったはずなので、そう変なものを持ってきたわけではないだろうが、だとしたら余計に何を持ってきたのかわからない。「じゃーん!」チャックを開けたと同時にぱんぱんなそれから雪崩れ出てきたものを見て、イルミは無意識のうちに眉を寄せていた。

「旅と言えば欠かせないものがある!」
「……」
「そう、それはお菓子だ!いいでしょ、イルミにはあげないもんねー」
「いらないよそんなドックフード」
「はぁ?これ人用だし!確かに犬用のでも美味しそうなのあるけどさ」
「はいはい、わかったからもう行くよ」

お菓子と言っても正式なパティシェが作ったものではなく、それこそイルミが口にしたようなことのない駄菓子ばかりだ。それを自慢するように見せつけている彼女は本当に馬鹿なんだろう。まともに取り合っているとこちらの神経が参ってしまいそうだ。
だがそうは言ったものの、イルミの知らない世界で生きている彼女に少しも興味を抱かないわけではなく、廊下に出たイルミは冗談半分、本気半分で彼にしては珍しく軽口を叩いた。

「でもまぁ、食い意地の張ってるナマエらしいと言えばナマエらしいよね。もしかしてほんとに犬の餌も食べたことあるんじゃない?」
「うっ……」
「……え?」

自分はさっき何に動揺していたのだろう。
あれは女の太ももではない、犬の後ろ足だ。

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