- ナノ -

■ 02.失恋という言葉では足りなくて

それからなまえを待っていたのは、どうしようもないほどの虚無感だった。

せめて憤りや悲しみという、当然あるべき感情がなまえを満たしてくれれば良かったのだが、正直、あまりの出来事に感情が麻痺してしまっている。どうせなら盛大に喧嘩すればよかった。自分も悪かったかな、なんて少し後悔できるような別れ方だったらよかった。

あまりにも一方的すぎたイルミの別れはどこか現実味がなく、なまえにはまだ信じられない。いや、実際は信じないようにしているだけで本当はとっくに理解しているのだろう。
その証拠に、あの日から食事が喉を通らなくなった。このままでは倒れてしまうから、と無理に口に運んでみても、一口、二口が精一杯。それ以上無理をすれば、必ずと言っていいほど吐き気がこみ上げた。元々そう顔を合わせていたわけでもないのに、別れを告げられた瞬間これだ。自分が情けなくなる。そして、本当に好きだったのは自分だけだったんだな、と自嘲めいた想いに駆られた。

なまえはベッドに横になると、ぼうっと何もない壁を見つめて時間をやり過ごそうとした。幸い仕事は自営業だから、しばらく休みにしても困るのは自分だけ。イルミが来ていないときは当たり前だった無音が、今はやけに身にこたえる。このベッドだって、わざわざ大きいものに買い替えたのだ。一人暮らしで、キングサイズなんていらない。イルミと撮った写真などはなかったが、この家のいたるところに──例えば彼の服や歯ブラシ、マグカップなど──たくさんの痕跡があって、それら全てがなまえをどうしようもなく苦しめた。

このまま目を閉じたら、何もかも消えてくれないだろうか。記憶も、痕跡も、何もかも。それが無理なら、自分が消えたい。
そんな馬鹿げたことを考えてなまえが目を瞑ったとき、玄関のインターフォンが間延びした音を立てた。

「……」

こんな気分の時に、一体誰だろうか。マンションだからか、隣近所の人間とはそう深い付き合いではない。なまえはゆっくりと身を起こすと、のろのろと立ち上がる。イルミでないことはわかっていたが、それでも自分の目で確認せずにはいられなかった。

「……はい、」
「あ、なまえ、アタシだけど」

一階のオートロックはすり抜けて来たらしく、相手はもうドアの前まで来ているらしかった。なまえは「今開ける」とだけ短く返すと、玄関のほうへ向かう。

「……酷い顔だね」

マチはこちらを見るなり、同情するようにそう言った。


▽▼

とりあえずカーテンくらい開けたら?と言われて、部屋が暗かったことに気づかされた。彼女が訪ねてきたこと、そして態度から、もうとっくになまえに何があったのか知っているのだろう。流星街でシズクと幼少期を過ごしたなまえはシズクの入団を機に蜘蛛と知り合い、その中でも特にマチと仲良くなった。だから彼女はなまえが誰と付き合っていたのかも知っている。

「……連絡が取れないから、皆なまえのこと心配してたんだよ」
「……」
「ヒソカが言ってたんだ。その……アンタ達が別れたってこと」

その辺りの情報ルートは予想した通りだったし、どうせいつかは皆も知ることだ。なまえは小さく頷いて、黙り込んだ。強がったって惨めなだけだし、何より強がるだけの元気がもうない。だが、流石にシズクではなくマチが来ただけあって、彼女は何も言わなくても察してくれた。

「アンタ、ちゃんとご飯は食べてんのかい?」
「……ちょっとは」
「アタシはなまえがそんなに落ち込むほど、アイツに惚れてたっていうことに驚いてる」
「……私も、かな」
「相手が相手だから難しいけど、なまえが仕返ししたいってんなら力は貸すよ」

旅団内では慎重派の彼女が、そんな無茶を言ってくれる。
それだけでなまえは少し救われて、困ったように眉を下げた。「でもきっと、仕返ししても意味ないと思うから」何をしたところで、イルミはもうなまえのことなど歯牙にもかけないだろう。それどころか、下手をすれば殺されてしまうかもしれない。

「正直、自分のことじゃないけど腹が立つよ」
「……うん」
「なまえ、今度はもっとまともな男を選びな。あんな奴別れて正解だよ」
「……うん」

頷くばかりのなまえに、マチは複雑そうな顔になった。一緒になってイルミのことを罵れば気が晴れるのかもしれないが、今はまだそんな気分になれない。

「まずは何か食べな、アタシが作るから」

台所、借りるよと言った彼女に、またなまえは頷いた。誰にも会いたくないと思っていたが、やはり彼女が来てくれて助かった。このソファーも、一人ではどうしても広すぎるから。

「……ねぇ、マチ。マチって料理できたっけ?」
「さぁね」

駄目だったら盗って来るよ、と返事が聞こえてきて、なまえはようやく小さな笑みを漏らした。

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