- ナノ -

■ 26.イルミルート

「おかえり」

ドアを開けるなりそう声をかけられて、なまえはノブを握ったままの姿勢で固まる。
なまえの不在中、たまたま近くに寄ったイルミがアポなしで家に入りこんでいるのは、”付き合っていた当時ならば”よくあることだった。

「なんで……」

思わず心の声が漏れたが、わざわざ説明してもらうまでもない。もちろん引っ越し先の住所を教えてはいないし、合い鍵だって渡した覚えはないけれど、そもそもそんなものはイルミには必要ないに違いなかった。

「遅かったね。ここ以外にもマンション借りてるのかと思ったよ」
「……イルミなら少し調べればわかるでしょ」
「まぁね。なまえじゃさすがにあのレベルの物件は厳しいだろうし」

玄関に立つ彼をすり抜けるようにして、なまえはリビングへと進む。どうやら彼は、なまえの行動なんてすべてお見通しのようだった。

「で、戻ってきたってことは答えは出たんだよね?」

なまえは浮かんだクロロの顔を脳内で振り払った。彼は待つと言ってくれたが、待たれれば待たれるほど罪悪感は募る。なによりイルミが待ってはくれないだろうし、罪悪感だけでクロロの手を取れば彼に多大な迷惑をかけることはわかりきっていた。
男として愛することはできなくても、友人としては好きなのだ。ふらふらした気持ちで彼に危険が及ぶことは避けたい。
だから、いい返事は返せないから待たないで、と彼のマンションを後にしたことは微塵も後悔していなかった。

「私は自分の家に帰ってきただけだよ。イルミを招いた覚えはないけど」
「でも、まだ返事を聞いてないから」

出て行って、と言ったところで、イルミが素直に聞くとは思えない。実力行使で追い出すことも不可能。
なまえはため息をつくと、振り返って背の高い彼を見上げた。

「考える時間をちょうだいって言ったのに」
「昨夜待ったよ」

間髪入れずに予想通りの台詞が返ってきて、思わず子供かと呆れてしまう。しかしクロロのところまで乗り込んできたり、マンションを出た瞬間なまえを拉致しなかった点においては少し成長が見られるとも言える。基準がおかしいことはわかっているが、もとよりイルミには常識など通用しないのだ。

「そんな時間じゃ全然足りない」
「じゃあどのくらい待てばいいのさ?あと一日?三日?それとも一週間?」
「あのねぇ……」

これではまるで聞き分けのない幼稚園児だ。どうやら彼はまだ、ごねればなまえが自分の思い通りに動くと思っているようである。決意通りに怒りを我慢しないことにしたなまえは、説教するつもりで口を開く。我慢しなくていいと言ったのはそちらなのだから、これで気分を害するようならもうどう頑張ったって二人は上手くいかないのだ。

「だからそういう自分勝手なところが嫌いなんだって」

過去のなまえはイルミのことを恐れてはいたが、その恐れは基本的に生死にまつわるものではない。嫌われ、捨てられ、心を踏みにじられるのが怖かっただけで、イルミに関してはどれも今更の話だ。それに、命惜しさにこの先の人生を賭けるほど、なまえは生に執着していなかった。皮肉なことにクロロの穏やかな愛を知り、自分に自信がついたというのもある。

「だって、」
「だってもへったくれもない」
「いやだ」
「何がよ?」
「だって、待ってたら、その間になまえが盗られるかもしれない」

大の男が――それも並みの男よりも強く、冷酷な男が――真剣な顔で何を言っているのか。
なまえはあまりのことに一瞬呆け、まじまじと彼を見つめる。そういえば真顔はこの男のデフォルトだったが、よくよく見ると大きな瞳が不安そうに揺れていた。

「なまえじゃなきゃダメだってわかったのに、みすみす逃すような真似したくないから」
「イルミが好きなのは従順で都合がいい女だよ。それは私じゃなくていいし、残念だけどこれからの私は違う」
「そうじゃない。言うことを聞くだけの女なら、他にいくらだっていたよ」
「あっそ、そういう人たちと楽しんでたから言えるんだね」
「なまえと付き合ってからは、なまえだけだったよ」

付き合っていたときは不安でも聞けなかった質問の答えが、こんなにも簡単に返ってくる。今更浮気してたかなんてどうでもいいと思えなかったのは、明らかになまえの負けだった。

「実際、ゾルディックの名前や金で、言うこと聞く女なんて腐るほどいる。でも、そいつらが見てるのは家や金だけなんだ。
なまえだけが本当にオレのために尽くしてくれていて、だからオレはなまえとなら安らげたんだと思う」

確かに先に旅団という大物と知り合っていたおかげか、なまえはゾルディックの色眼鏡でイルミを見たりはしなかった。流星街の生まれで他人の家柄なんか気にするわけないし、金だって必要な分くらいは自分で稼げる。
なまえがイルミに惹かれたのは尊敬できる仕事ぶりとストイックさ。そして完璧なようでいてどこか放っておけない、子供のような可愛らしさだったのだ。

「じゃあ、尽くさない私に用はないでしょう」

クロロに指摘されたように、確かになまえは世話焼き気質なのかもしれない。でも、なまえだって神様じゃないから、誰に対してもそうというわけじゃないし、百パーセントの善意かと言われると違う。
誰かの世話を焼くことで、なまえも依存していた。自分に自信がなかったから、『誰かの世話を焼く自分』という役割に甘えていたのだ。

「いいんだ。今度はオレが尽くすから」
「……」
「そうしたらなまえもきっと無視できない。なまえは優しいからね」

献身的な言葉かと思いきや、投げかけられたのは予言めいた宣戦布告。珍しく口角をあげてまで、イルミは自信たっぷりに笑みを浮かべていた。

「そんなことない」
「いいや、なまえは最後にはオレを許すよ。なまえはオレのことをちゃんと一人の人間として見てくれているし、情が深いから絶対に放っておけないんだ」

なまえのことはなまえ本人よりもわかっている。
そう言わんばかりの断定口調に、思わずこちらも気圧される。確かに当初よりはイルミへの怒りが和らいでいるのを自覚していたので、許す未来もありえなくはないと思ってしまった。
だが、

「……仮にそうだとして、イルミにそこまでするメリットがあるの?」

人に許しを請うのは、酷く手間のかかることだ。効率を重視し、切り替えの早いイルミがやるようなことではない。
けれどもなまえは肝心なことを忘れていた。

「言ったでしょ、なまえが好きなんだって。なまえを手に入れるのが最終目標。
たとえ最初はなまえの優しさに付け込む形だとしても、オレはなまえが手に入ればそれでいい」

イルミという男は効率に拘る反面、目的の為に必要だと判断すれば手段も問わず手間も厭わず、なんだってやる男だった。
そのストイックさが仕事に向けられているうちはよかったが、自分に矛先が向くと戸惑うしかない。なまえはふと、話に聞いていた彼の最愛の弟のことを思い出して、その反抗が年ごろという理由だけではないような気がした。

「許さなくていいって言ったくせに」
「うん、許さなくていいよ。でもきっとなまえは許してくれる」
「だからそういう、思いあがったところが嫌いなんだってば」

なんだか上手く丸め込まれそうな気がして焦ったなまえは、せめてもの抵抗で”嫌い”という部分を強調する。
しかし、以前は確かにイルミを傷つける効果があったその言葉も、二度目となるとすんなり受け取られたらしい。

「これは別に自分に自信があるから言ってるわけじゃないよ。なまえがそういう性格ってだけ。情の深い女はいい妻になるよ」

肩をすくめたイルミはいつまでも立ち話はなんだと思ったのか、なまえを通り越し、我が物顔でリビングを越え、その先のダイニングに向かう。
流石にイルミが作ったものではないだろうが既に二人分の料理が並べられていて、それだけ見ればまるで新婚夫婦の食卓のようだった。

「なまえ、朝から何も食べてないでしょ?」
「……私、イルミを許すとも結婚するとも言ってない」
「だとしても、最終的にオレはなまえが断る回数プラス一回、なまえにプロポーズするだけだよ」

当たり前のように椅子に腰かけたイルミは、何でもないことのようにそう言う。それどころか立ち尽くしているなまえに向かって、座らないの?と首を傾げてみせた。

「……自分勝手なとこも直ってないね」
「直したら結婚してくれる?」
「直せもしないくせに」
「どうかな。針を使えばできなくもないけど」

そう言って服から一本長い針を抜いたイルミは、ためらうことなく自分のこめかみにあてがう。

「ば、馬鹿じゃないの!?」

なまえは咄嗟に身を乗り出して彼の腕をつかみ、その鋭利な先端が皮膚を突き破るのを阻止した。

そうしてから、しまった、と思った。

「はは、なまえなら止めてくれるって思ってたよ」
「……」

あっさり罠にかかった悔しさ、呆れ、脱力感……様々な感情がないまぜになってなまえは閉口する。しかしやがて彼の腕を離すと、観念したように席に着いた。朝から何も食べていないというのは本当のことで、頭が上手く回らないのも疲れたように感じるのも、ひとえに空腹のせいかもしれないと思ったのだ。

並べられた料理はどこかのレストランの宅配らしく、なまえはこんなもので尽くしたつもりか、とどこか投げやりな気持ちで口に運ぶ。それを見たイルミが嬉しそうなことについては無視をした。

「食べてくれるんだね」
「……おなか空いてるし、料理に罪はないから」
「薬盛られたこと、忘れたの?」
「っ、がっ、ごほっ」
「はは、大丈夫だよ。もうしないから。どうやらあれはなまえの好感度を下げるだけみたいだし」
「……」

好感度うんぬんではなく、倫理的なところを気にしてほしい。暗殺者に倫理もなにもないと言われればそれまでだが、なまえは手を止め、目の前のイルミを睨んだ。

「もういっそ、その針で私を操ればいいのに」
「うーん、なるべくならそれは避けたいかな。いくらなまえを手に入れるのが目標だとしても、人形じゃあね」
「いいじゃない、人形でも。言うこと聞くし、側にいるし、イルミの要望にぴったりだと思うけど。イルミも人形みたいに色々欠けてるし、お似合いなんじゃない?」

「へぇ、言うようになったね」

我慢も遠慮もいらない、と言われたからにはなまえだって黙っていない。元々、大人しくしていただけで育ちがいいわけでもないから口も悪い。しかし挑発のつもりで投げた言葉は、なぜかイルミを面白がらせただけのようだった。

「人形じゃ、家や金の代わりに念に従ってるようなものだからね。どうしてもって場合は仕方ないと思ってるけどさ、できればオレはなまえの意思でオレの側にいてほしいんだよね」
「そのわりに全然私の意思を尊重してくれないけど」
「”なまえを諦める”以外のお願いなら聞いてもいいよ」

イルミと食事を共にするのは久しぶりだった。そもそももう一度こういう機会があるとは思ってもみなかった。あの日、イルミに一方的に振られた日、もうこの先二人の道は交わらないと思っていたし、確かにイルミのことを恨んでいた。

それなのに今でも恨んでいるかと言われると、なんだかもうよくわからなかった。

「じゃあ死んでっていったら死んでくれるの?」

結局、強引さに押し負けてしまったのだろうか。しかし、もともと彼の子供のような強引さを可愛いと捉えていた感性にも問題がある。自分の感情を持て余したなまえは許すのが癪という理由だけで、悪あがきのように意地も頭も悪い質問をぶつけた。

「いいけど、どうせなまえ止めるでしょ?」
「……」

そのお願いは意味ないよね?と重ねて言われ、なまえはぶすくれる。可愛いどころか、可愛げすらもない。もう少し動揺するなり、拒否するなりすれば少しはなまえの胸もすいたかもしれないのに。
黙り込んだなまえを肯定ととったのか、イルミは満足そうにわずかに目を細めた。

「なまえは優しいからね。そういうところすごく好きだよ」
「……うるさい、黙って」
「それに今回、従順なだけじゃなくて怒ったなまえも可愛いってわかったからさ。なおさら人形にするには惜しいよね」
「ほんとに黙って」
「あ、そうだ。聞こうと思ってたんだけど、あれなに?あれだけなまえの部屋で浮いてるんだよね」

自分の都合の悪いことは聞こえないのか、お構いなしにイルミは話す。よくイルミは周りから無口なイメージを持たれているが、実は結構よく舌の回る男である。彼曰く、彼の母親も煩いくらいに喋るらしいので、そこはもう遺伝なのかもしれない。
一瞬、無視しようかと迷ったなまえだったが、結局しつこさに負けてイルミが指さした方向を見ることになった。

「あんな水晶、持ってなかったよね」
「あぁ……あれは貰い物」

クロロから引っ越し祝いとして貰った水晶のクラスターは、扱いに困って電話の横にどかんとおいてある。透明な分、シンプルななまえの部屋の調和は乱していなかったが、やはり場違い感は拭えない。なにより気を付けないと、電話中にうっかり刺さりそうになる危険な代物だった。

「貰い物、って……まさかクロロ?」

そういえば開運パワーがあると聞いていたが、全然そんなことはなかったように思う。自分で聞いたくせになまえが答えるより先に結論を出したイルミは、今日初めて不快そうに眉をしかめた。

「あんなもの捨ててよ」
「いやよ、気に入ってるし」
「オレがもっといい物あげるよ」
「要らない、あれがいいの」

本当は別にあの水晶に拘りなんてなかった。一応あれも古代ヨタ族の儀式で使われていたとされる逸品だが、別になまえは骨董マニアでもなんでもない。けれども初めてイルミに一矢報いてやった気分で、なまえは殊更に大事にしている風を装った。

「綺麗でしょ?宝石なんて興味ないと思ってたけど、やっぱり人から貰うと嬉しいものよ」
「水晶なんて宝石でもなんでもないよ。なまえが欲しいって言うんなら、あのサイズのダイヤでもあげるから」
「別に要らない。イルミから貰っても嬉しくないし」
「……」

すげなく否定されるとさすがのイルミもいい説得が浮かばなかったのか、どことなく悔しそうな顔をする。

「いやだ、捨てて」

そして何を言うかと思えば結局それだ。理詰めが無理なら我儘で押し通そうとするところもちっとも直っていない。

「なんで捨てなきゃならないのよ」
「オレが嫌だから」
「呆れた……」

直っていないが、理詰めのときよりは十分可愛げがある、となまえは内心で認めてしまった。

「あれはイルミのことを許せたら、私が自分で捨てる。勝手に捨てたら一生許されないと覚悟しといて」
「じゃあ……」
「しばらくあのまま、もしくは一生あのままかもね。でもイルミはいつか私が許すと思ってるんでしょ?だったら慌てることないじゃない」

「……わかったよ」

いかにも不承不承、といった感じのイルミは珍しく、なまえは少し気分が良くなった。気分が明るくなると料理の味もよくわかり、なかなかどうして美味しいじゃないかと満足する。イルミはまだ不満そうにちらちらと水晶のほうを見ていたが、しばらくして諦めたように食事を再開した。

「はぁ、素のなまえって思ったよりも手強いな」
「うん、だから諦めたほうがいいと思うよ」
「いやだ。ていうか、それくらいの気の強さがないとうちの嫁は務まらないと思うんだよね」
「だから結婚しないってば」

本当にしつこい男だ。断られる回数以上にプロポーズするとは聞いたが、勝手に結婚前提まで話を進めていて恐ろしいことこの上ない。

「そもそも今の私、イルミと付き合ってすらないし」
「あ、そうか」

なまえの発言に、ぽんと手を打って納得してみせたイルミは妙なところで律儀である。

「じゃあなまえ、オレと付き合ってよ」

良からぬ薬まで盛ってホテルに連れ込んだくせに、随分と馬鹿正直な告白だ。そういうところが憎らしいし、憎めないとも思う。
なまえは大げさにため息をついてみせた。

「最大限譲歩したとしても友達からかな」
「え、困るんだけど。キルにも友達は作るなって教えてるし、示しがつかない」
「知らないよそんなこと。私には関係ないし」
「義弟になるんだよ?」
「だから結婚しないってば」

もはや何度目になるかわからない台詞を言い、なまえは食べ終わった食器を片付けるため席を立つ。一体あと何回このやりとりをしなければいけないのかわからないし、一体何回退けることができるのか、正直なまえ自身にもわからなかった。

「ご飯食べたらさっさと帰ってね。もうイルミの寝るところもないし、寝かせる義理もないから」
「クイーンサイズくらいならこの家でも置けるよね。オレが買っておこうか?それとも新居を見に行く?」
「だから……」

結婚しないってば、と呟いたなまえは、もしかして疲れさせて許可を取り付けるのがイルミの作戦なのでは、と訝しんだ。訝しんだところで、気を確かに持つ、ということくらいしかなまえにとれる対応策はなかったが。

「でもこれでオレもようやく大手を振って家に帰れるよ。婚約破棄してから母さんがいつにもまして酷くてさ、オレがちゃんと結婚相手を連れて帰ってきたらなんだかんだ喜ぶと思うんだよね」
「だからしない」
「略したね」
「もう黙って。帰って」

なまえはイルミを椅子から引っ張って立たせると、そのまま玄関のほうへ押しやる。本来ならば体格差、力の差で動かすことも叶わないはずのイルミは、案外すんなりとなまえにされるがまま追い出された。

「わかったよ、今日はこのくらいにしておいてあげる」
「二度と来なくていいから」
「じゃあなまえがうちに来てくれるの?親への挨拶は早いほうがいいもんね」
「だ!け!し!」
「は?」
「だから!結婚!しない!」

力の限りそう叫ぶと、イルミの鼻先でドアをぴしゃりと閉めてやる。これからこんな生活が続くのかと思うとノイローゼになりそうだ。もはや優しいから許すとか、そういう次元の話ではない気がする。そしてもっと最悪なのが、イルミに呆れこそすれ嫌悪感を抱いていないという事実だった。イルミもイルミで、なまえが素のままでいようと特に気にしたそぶりはない。

「結婚しないもん……」

なまえは閉めたドアにもたれかかりながら、決意を固めるように呟く。そのくせ、いつかイルミの言ったように許してしまうんだろうな、なんて半ば諦めにも近い気持ちで考えた。
従順さは偽りではあったが、世話焼きであるのは本質なのだ。そしてイルミはそれをよく見抜いている。いくら防御に長けたなまえだとしても勝機は薄いだろうし、そもそもスタミナのないなまえは物理的にも心理的にも持久戦が苦手だ。

「うわ……」

このタイミングで鳴った携帯に嫌な予感がしないわけがない。変えてから教えていなかったはずのアドレスに、イルミからの容赦ない追撃が来る。
画面がすべて黒く埋まり、スクロールの終わりが見えないほどの長文は、初めの三行目までで読むのをやめたがどうやら結婚後の生活プランについて記載されたものらしい。しかもそれは一通では収まりきらず、その後もしばらく受信が続いていたので尚更読む気が失せる。

結局なまえは中身を見ないで、すべてに「結婚しない」とだけ返信した。お陰で予測変換までもが”け”と打つと”結婚しない”をサジェストするようになった。もしかすると今後はユーザー辞書登録も必要になってくるかもしれない。打ち間違えて”結婚する”なんて送った日には目も当てられないし、イルミがわざわざメールという方法をとるなんてそういうなまえのミスを目に見える形で狙っているに違いないのだ。それなら返信しなければいいと思うかもしれないが、沈黙を都合よく解釈される可能性もあるので無視も厄介である。

「あぁ、もう、しつこい」

とうとうなまえは携帯を握りしめたまま、玄関に座り込んだ。「なんなのよ、なんで今更そんな好きだっていうのよ」付き合ってた時は全然言わなかったくせに、と腹が立つ。そして好きだと言われて、ほんの少し嬉しくなっている自分にも腹が立つ。認めたくない。これで許したら大馬鹿野郎は自分だ。

たとえ、それが時間の問題だとしても――
たとえ勝ち目のない敵だとしても――

最後まで抗ってやる。

なまえは新たに来たメールに”結婚しない”という定型文を送ると、思わず満足げな笑みをもらす。
そうやって笑ってみると、なんだか今までの悩みや苦しみが嘘みたいに清々しい気分だった。


END

あとがき

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