- ナノ -

■ 25.クロロルート

「……イルミか?」

なまえがすべてを説明する前に、察しのいい彼は呟く。だからなまえはただ、それに頷くだけで良かった。

「結婚はやめたんだって。だから、よりを戻したいって……」
「遅かれ早かれ、そう来るとは思っていた。あいつがお前を諦めるようにはみえなかったからな」

するり、と頭の上からクロロの手が離れる。あんな振られ方をしたのにきっぱりと振り切れないなんて、さすがにのクロロも愛想をつかすだろう。
イルミとの関係においてなまえは被害者だったが、クロロとの関係においてのなまえは加害者にもなりえる。傷つけるか、傷つけられるかの恋愛しか知らないなまえは、どちらの立場になるのもひどく恐れていた。

「許すことはできそうなのか」
「……許すことは、できると思う。でも、」
「許すことと受け入れることは別だ」
「うん」

傷は時間が癒してくれる。憎しみは時間が風化させる。
だからきっとイルミのことも許せるだろう。現に彼に謝られて、なまえの憎しみはすっかり勢いを失ってしまっている。
けれどもだからといって、彼を受け入れられるかどうかは別の問題だ。

『ごめんなさい』『もういいよ』の後に必ず元の関係に戻らなければいけないということはない。『もういいよ、だからさようなら』という結末だって、聖女でもないなまえには十分すぎる。

「あとはお前がイルミを信じられるかどうか、だな」

どこまでも優しいクロロの言葉に、なまえは唇を噛まずにはいられなかった。本当はもう自分の心がどこにあるか、わかっているというのに。

「私のこと、責めないの?クロロにこんなに優しくしてもらってて、それなのに……」
「俺はなまえに後悔してほしくないだけだ」
「……」
「というのが半分。もう半分は、消去法ではなくてちゃんと俺を選んでほしいから」

――そう思うなら、強引にキスのひとつでもすればいいのに。

考えて、なまえは泣きたいような気持ちになる。今まではそういう風に何もかも進んでいた。だからこんなに優しい愛し方なんて知らない。こんな優しい愛に対して、どうやって返せばいいのかもわからない。
なまえにできる唯一の誠意は、ただ正直になることだけだった。

「……私、クロロのこと好きだよ。今はもう親愛だけじゃない。自分に自信がもてないせいで半信半疑だけど、クロロのこと信じたいと思ってる」
「怖いのか、また傷つくのが」
「うん……信じたいし、もうほとんど信じてるのに、それでもまだ怖いの」

あれだけの言葉を、あれだけの態度をもらってまだ証明しろなんて自分はなんと浅ましいのか。しかし手痛い失恋を乗り越え、すぐに次の恋にいけるほどなまえは器用でも強くもない。
また失うかもしれないのなら、いっそ手に入れないほうがマシだとさえ思ってしまうのだ。

しかしそんなどうしようもないなまえに、クロロは怒ることもない。少し考えるように顎に手をやり、「あのな、なまえ、」ゆっくりと口を開いた。

「ひとつ言っておくが、俺だって怖いんだぞ」
「え?」

クロロだって人間だ。怖い物のひとつやふたつあるだろう。しかし頭では理解できても、実感がわかない。それくらいなまえには彼が完璧で自分とは程遠い存在のように思えていた。

「大事なものが増えれば、失う痛みも増える。特にこんな生き方をしていれば恨みも買うからな。お前をおいて先に死ぬことになるかもしれないし、最悪お前を巻き込むことだってあるかもしれない。
誰だってそんな喪失の痛みがあると知れば、大事なものに手を伸ばすのを躊躇うだろう」

彼が幻影旅団団長だということを考えればこそ、その言葉の重みは大きい。なまえだって彼ほどではないにしろ、危ない橋を渡ることもあるし、今までだって多くの人間の死を目の当たりにしてきている。

「下手をすれば俺たちにとって、死は心変わりよりもずっとありふれているかもしれない。だからせめて生きている間だけは、後悔のないようにしたい。なまえと共に生きたいと思うんだ」

クロロと過ごした、平凡だけど穏やかな日々が頭に浮かぶ。確かにあの生活の中に偽りはなかった。なまえも心から彼のことを想い、喜ぶ顔が見たくて、彼の好物を作ったりもした。

「まぁ結局のところ、俺はなまえに信じてくれという他ないんだがな。
でも、傷つかずに生きていくことも、誰も傷つけずに生きていくことも無理だということはわかっていたほうがいい。大事なのはその傷を誰と癒すか、ということだ」

示された道は実際には険しい道かもしれないし、お互いそんな幸福を享受できるほど真っ当な生き方はしてこなかった。けれども誰かと傷を癒す、という考え方はなまえにとって新しく、とても素晴らしいことのように聞こえる。

もしも、自分に誰か癒せるのなら――
もしも、自分を誰かが癒してくれるのなら――

「私……私も、クロロと一緒に生きてみたい」

傷つくことを恐れずに、一歩を踏み出してみてもいいのかもしれない。
一方的に愛するのもすり減るし、その逆だって疲弊する。支えあえる関係こそ、真になまえが望んでいたものだ。

「いいのか?」
「……うん。クロロこそ、いいの?」
「あぁ、俺はなまえがいいんだ」

クロロの手が伸ばされ、なまえの顎をとらえる。真っすぐに見つめられた瞳の中に自分の姿を見たとき、今更になってなまえは激しい羞恥に見舞われた。

「ようやく、ちゃんと意識してくれた」
「な……だって、今までは……」

それどころではなかった。問題と不安が山積みで、傷つくことを恐れるあまりクロロの言葉を信じないようにしていた。
だが一度信じると決めると、どれだけ恥ずかしいことを言われていたかわかる。同時に自分の情けない態度も思い出されて、なまえは完全に真っ赤になった。

「ばか、お前だけ恥ずかしがるなよ。散々俺に恥ずかしいことを言わせたのはどこの誰だ」
「それは、」
「じゃあご褒美をもらっても?」

小さく頷いたなまえの唇に、柔らかい物が触れる。「今はまだこのくらいにしておくか」悪戯っぽく笑ったクロロは、その言葉とは裏腹になまえのブラウスのボタンに手をかけた。

「は?え……、ちょっと、」
「今すぐここを出るぞ。時間がない」

クロロは丸いボタンを一つとると、爪の先で装飾にヒビを入れて見せる。小さなボタンの中には、これまた小さな機械が埋め込まれていた。

「言っただろう?イルミがそう簡単にあきらめるとは思えないって」
「まさかそんなもの仕込んで……か、会話全部聞かれたんじゃ!」
「いや、GPSだろう。お前を逃がしたくないとなると、位置を把握するほうが先だ。
あとはこれを適当な誰かに着けて時間を稼がせてもらう」

先ほどの赤い顔から一転、一気に青ざめるなまえ。そんななまえを安心させるように、クロロは笑みを浮かべる。

「大丈夫、お前のことは守るさ。少々骨が折れそうだが、盗賊は逃げるのも仕事のうちでね」

さぁ、と手を差し伸べられ、なまえも立ち上がる。やはりなまえが望むような平穏とはほど遠い生活になりそうだが、それでも不思議とクロロの手を握れば安心できた。

「私だってクロロを守れるよ、オーラ切れするまでの話だけど」
「それに口汚い挑発もできるしな」
「もう!」

笑っている場合ではないのに、自然となまえの顔は笑顔になった。これが癒される、ということなのかもしれない。これが幸せと呼ばれるものなのかもしれない。

「クロロ、ありがとう。私を好きになってくれて、ありがとう」

もう迷ったりなんかしない。私なんか、とはクロロの為にも言わない。

なまえの決意が伝わったのか、クロロは嬉しそうに頷いた。


END

next is……
イルミルート or あとがき

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