- ナノ -

■ 24.愛と情

目が覚めると、最後の記憶のままなまえはベッドの上にいた。ぼんやりする頭のまま手探りで衣服を確認したが、特におかしなところはない。どうやら約束を守ってくれたらしい。

起き上がったなまえは次にイルミの姿を探す。しかし彼はどこにもおらず、代わりにテーブルの上にメモが置かれていた。

――仕事の報告に一旦戻るよ、部屋は好きに出て

癖のない筆跡に、簡素な内容が実にイルミらしい。
なまえはそれを見て、安堵とも落胆ともつかないため息を吐いた。正直、まだどんな顔をして会えばいいのか自分でも定まっていないのだ。怒りも悲しみも綺麗さっぱり消えたわけではないけれど、言いたいことを言い、謝られてしまったことで最初ほどの勢いが削がれてしまった。

しかしそれにしても文中の”一旦戻る”というところが引っかかる。仕事の報告というからにはパドキアの家に帰っているはずだが、それが終わったらまたこっちに来るということなのだろうか。

そうだとしたら大変だ。
考える時間をちょうだい、と言ったあれは、もしかすると次に会った時には催促されるかもしれない。彼の性格ならば十分ありえるだろう。

なまえはまだ気だるさの残る身体に鞭打つと、急いでシャワーを浴びることにした。汗を流したかったのもあるし、冷たい水でぼんやりとする思考をはっきりさせたいのもある。このまま動かないでいれば、押されるがままに彼を許してしまいそうで怖かった。

そもそも、なまえが返事を保留にしているのはイルミだけではない。少し前までだったら考えられないような、人によっては羨ましがるような状況かもしれないが、なまえを好きだと言ってくれた奇特な人間は他にもいるのだ。それも、こちらもまたなまえの手には余るような、一癖も二癖もある男が。

順番で言えば、イルミよりも先に彼に返事をすべきだと思ったなまえは、まだ少し湿った髪のまま急いでホテルを後にする。正直なところまだ結論が出たわけではなかったが、いつイルミが戻ってくるかわからない以上のんびりはしていられない。幸いにもイルミはなまえとクロロの関係が終わったものだと思っていて、(実際始まっていたわけでもなかったのだが)だからこそ生まれた僅かな自由時間だ。

そしてこの自由時間を、なまえは自分の意思決定に使いたかった。たとえその結果がどのようなものになろうとも、流されるだけの言いなり人生はごめんだ。

「もしもし、クロロ。いきなりだけど今から会ってほしいの」

電話は五コール目でやっと繋がった。仕事だけでなく、趣味の読書でも昼夜逆転生活を送りがちな彼は、もしかするとまだ寝ていたのかもしれない。それでもその声に嫌がる気配はなく、むしろ突然電話してきたなまえを心配してくれた。

『どうした、何かあったのか』
「聞きたいことがあるの。それからたぶん、言いたいことも」
『……わかった』

察しのいい彼はこれだけでなまえが何をしに来るのかわかっただろう。ヒソカの執拗なストーキングでさえも上手くまいて隠れてしまうような彼が、なまえにはあっさりと居場所を教えてくれる。それだけ信用されているのだと思えばやはり嬉しかった。

「ありがとう。すぐ行く」
『あぁ』

急いでいたからやり取りはそれだけだったが、幸いにもクロロが告げた場所はそう遠くない。少なくともパドキアよりは随分近い。

チェックアウトしたなまえは手近なタクシーを止めると、一度だけホテルを振り返り、それから意を決したように乗り込んだ。





電話で告げられた場所は、高級なこと以外は何の変哲もないマンションの一室だった。
インターホンを押せば、オートロックのエントランスはゆっくりと開き、なまえはなんだか落ち着かない気持ちでそこをくぐる。

アジトにいたときは、クロロはもっと質素な生活をしていた。
確かによく考えれば、彼は天下の幻影旅団団長なのだし、お金はそれこそ腐るほどあるだろう。しかし彼は宝に対する知的好奇心はあっても、金銭的価値に重きを置くような俗物ではない。というより、単純に金にはそこまで関心がないようにみえていた。

だから思いがけず立派な構えのマンションに、なまえはまず気圧される。無駄に広いエレベーターで高層階へ上り、今更ながら本当にここであっているのだろうかと不安になった。

(私は、クロロのこと何も知らないのかも)

なまえの知るクロロは、蜘蛛のメンバーや同郷のなまえに見せる、頼れる兄のような存在だった。もちろん、仕事においては冷酷な一面もあるのだろう。しかし敵対する機会も能力もないなまえにしてみれば、仲間思いで優しい印象が強い。

クロロとなら、安いビール片手に一緒になって騒ぎ、同郷ならではの価値観を共有し、くだらないことを話せる。
そういう気安さと安心感は、イルミにはないものだった。ないものだったからこそ心地よかったが、果たして本当のクロロはどっちなのだろう。

部屋の前に着いたなまえは深呼吸してインターホンを鳴らす。

「早かったな」

扉を開いたクロロは、髪を下ろしたラフな格好だった。場所は変われども、アジトにいた時と変わらない。思わず顔をマジマジと見てしまったなまえにクロロは苦笑すると、「入れよ」そのまま扉を大きく開いて、中に招き入れてくれた。

「驚かせたみたいだな」
「……うん、ほんとにここ、クロロの家なんだね」

あまりじろじろと他人の家を見るのも失礼だとは思うが、広くて洗練された雰囲気の空間はまるでモデルルームみたいだ。大きな本棚が充実していること以外、あまり生活を感じさせない。

「部屋を見せて、そんな複雑な顔をされたのは初めてだ」

クロロは話しながらキッチンに立ってなまえの分のカップを用意する。どこに何を収納しているのだろうと不思議に思うほど、アイランドキッチンはリビングの景色にマッチしていた。

「女はたいてい、金持ちとわかると面白いくらいに目の色が変わるぞ」
「……女の人呼ぶんだ」
「妬いてくれるのか?」
「……」

なんと答えたらいいのかわからない。嫉妬するしない以前に、意外なことばかりで混乱していた。なまえの知っているクロロは仕事のできる気さくなお兄さんで、贅沢な暮らしぶりや女性関係などはあまり考えたこともなかった。
しかし冷静に考えればクロロはモテるだろう。いい大人なのだし、今までの遍歴があったっておかしくない。そもそも、返事を保留にし続けているなまえには嫉妬する権利もないように思えた。

「昔の話だよ。それに、ここへ呼んだのはなまえが初めてだ」
「私は別に……」
「少しは妬いてくれると嬉しいんだが」

コーヒーを入れ終えたクロロは両手にカップを持ち、座れよとソファーに促す。想像よりもふかふかなそれになまえがバランスを崩している横で、彼はローテーブルにコーヒーを置き、自分も隣に腰を下ろした。

「で、聞きたいことって?」
「あ、えっと、うん……」

確かにソファーだと、隣に座るしかない。けれども
なまえは思わぬ距離の近さに動揺していた。
クロロがいつもと違うからかもしれない。どう違うのか、と問われれば言葉にするのは難しいが「付き合わないか?」と言われた日のことが急に蘇る。
もちろん、今日はその話をしに来たのだが、いざとなるとなまえはどう切り出したものやら困ってしまった。

「えっと……その、前にクロロが……付き合わないかって言ってくれたけど……」
「あぁ」

後半部分は消え入りそうになりながら、やっとのことで言葉を絞り出す。そんな人ではないとはわかっているが、あれは冗談だぞ、と馬鹿にされ笑われるのが怖い。
冗談であれば素直に傷つくし、本気であればなぜ?と疑う。我ながら面倒な女だとは思うが、なまえはどうしても聞きたかった。

「わ、私なんかの、どこがいいの?」

蜘蛛に入れるような突出した能力もなければ、女性としての魅力だって誇れるほどのものではない。三年も尽くした男にあっさりと捨てられる、惨めで馬鹿な女。それがなまえの全貌である。
こうやって面と向かってどこがいいの?と聞けるくらには成長したものの、少し前までなまえは自己主張すらままならなかったどうしようもない女なのだ。
どう考えたって、クロロなんかと釣り合うように思えない。

「そうやって、自分を下げるのはやめろよ」

不意に怒ったような口調になったクロロに、なまえは心の内を言い当てられたような気がして、はっと息を呑んだ。

「奥ゆかしいのは結構だが、お前がお前を下げるほど、そんなお前に惚れている俺が馬鹿みたいに聞こえるだろう」
「それは……」
「じゃあ言ってやろうか?俺がお前のどこを好きなのか」

真剣な瞳に見つめられ、うまく呼吸ができなくなる。それでも、その答えは聞きたかったから頷いた。理由がわからなければ彼の気持ちに向き合えないほど、なまえは臆病でずるくて弱かった。
が、

「わからない」
「……へ?」
「なぜだろうな」

固まるなまえに対し、クロロは涼しい顔で言う。なぜ?と聞いたのはなまえのほうなのに、彼自身疑問に思うくらいなのか。

「っ、え……からかったの?」
「いや」
「じゃあどういうこと?」
「そもそも、好きという感情に理由なんているのか?」

質問に質問で返さないでほしい。こっちは理由が要るから聞いているのだ。
しかし一方で、自分がどんな答えを貰えれば納得するのかはわかっていなかった。
顔が好きも性格が好き、も自分で認めていないから腑に落ちない。しかしそういうわかり易い部分で、他の人とは違う、なまえにしかないものなんてあるのだろうか。

「もともとなまえのことは気に入ってたんだ。仕事でシズクとお前に鉢合わせた時、ろくに戦えもしないのに懸命にシズクを逃がそうとするお前が青臭くて面白かった」

幻影旅団との出会いのことはなまえだって覚えている。当時シズクと二人で盗賊家業を始めたなまえは、調子に乗って大物を狙いすぎたのだ。

そのせいで運悪く天下の幻影旅団と鉢合わせて、しかもシズクの能力に目をつけられて、あれほど窮地と思ったことはない。流星街にいた頃から世話を焼いていたということもあり、血の繋がった姉妹のような彼女を助けなければ、という義憤に駆られて、彼女だけでも逃そうと相当悪あがきしたのだ。

「あの時のフェイ、面白かったな。完全プロテクトで防戦一方のお前に苛立ってさ。攻撃も通らないわ、反撃してこないからカウンターもできないわで、そのくせ気を引くために挑発だけはしてくるんだからタチが悪かった」
「だ、だってあれは、」
「わかってるさ、あれは乗ったフェイが悪い」

もちろん後で謝ったが、あのときのなまえは必死すぎて相当口が悪かったように思う。ブチ切れるフェイタンと口汚く罵る女、という構図が珍しく、結局他の団員もお宝そっちのけで観戦を始めることになったのだ。

「一人だけでも精一杯なのに、次々仲間が来てどうしようって思ったよ。そうしたら、手伝うどころか賭けまで始めて……これが旅団?ってびっくりした」
「まあ、みんな自由だからな。あいつららしい」
「うん……だからシズクは蜘蛛に入る適性があったのかもね」
「賭けにも参加してたしな」

そう。なまえが必死の思いで逃がしたはずのシズクは、結局ひょっこり戻ってきたのだ。それどころか『フェイがあの女の防御を破れるか否か』というホコタテ問題に盛り上がる団員に混じり、「私はなまえが守りきる方に一票」と率先して手を挙げてみせた。

「まったく、誰のために頑張ってたと思って……」

当時のことを思い出し、なまえは大きなため息をついた。結局勝負は、長引いたこととシズクが現れたという気の緩みで、なまえがオーラ切れを起こして終了。
そしててっきり殺されるとばかり思っていたなまえは、次に目が覚めると旅団のアジトで寝かされていた。

あのときのお宝は、シズクが賭けを外した代償として旅団に差し出したらしい。本当なら命まで取られてもおかしくなかったが、クロロはシズクの能力を評価し、蜘蛛に勧誘した。
なまえが目覚めた時には何もかも終わっていて、なまえだけが宙ぶらりんな存在だった。

「実はあのとき、なまえを蜘蛛に入れてもいいんじゃないかって声はあったんだ」
「え、」
「戦ってたフェイもそうだが、特に強化系のやつらが気に入ってな。お前の愚直さが良かったらしい」
「愚直……」

素直さとか、健気さとかもっと他に何か言いようがあったのではないだろうか。褒められているのかけなされているのか判断に迷い、なまえは渋い顔になる。でも気に入ったと言うからにはおそらくそう悪い意味ではないのだろう。
クロロはそこで少し区切ると、なまえの顔を伺うように覗き込んだ。

「俺が反対したんだ。ちょうどその時、空き番が一つだったというのもある。でもそれとは関係なく、俺はなまえを蜘蛛には入れたくなかった」
「……それは、私が役に立たないから?」

わかっていたことだがちくりと胸が痛む。欠番の数に関係なく、と言われてしまえば尚更だ。
しかし、クロロはなまえの問いに、ゆっくりと首を振った。

「あの時、必死にシズクを守るなまえを見て思ったんだ。なまえには団長としてではなく、クロロとして見てほしいとな。
おそらく団員に入れればお前は蜘蛛のために全力で尽くしてくれるだろうが、俺は団長ではなくクロロとして想われたかった」
「……」
「そういう意味では、俺は最初からお前のことが好きだったのかもしれないな」

それていた話が急にぐるりと戻ってきて、なまえはなぜか逃げ出したいような気恥しさを覚えた。
理由が知りたいと、色恋の話を振ったのはなまえのほうだ。しかしきっかけから事細かに回顧されると、聞いているこっちが恥ずかしい。むしろ本人相手に普通に語っているクロロがどうかしていると思った。

「だったらなんで……」
「そうだな、出会ったのは俺の方が先だったのに。ぼやぼやしているうちに横からかっ攫われるなんて盗賊が聞いて呆れるな」

イルミと出会ったのは、ヒソカを介したとはいえ結局のところ蜘蛛経由だ。馴れ初めというほどの馴れ初めもなく、暗殺+αで回収するべき物品があった依頼の際に、その保護を頼まれただけ。暗殺が舞い込むようなどろどろとした世界には怨念のこもったいわくつきの品物も多く、なまえの念はそれらの邪念を包んで和らげるのにも一役買ったのだ。

だから実際のところそのあとの食事やホテルは、仕事のおまけ程度でしかなかった。もしも迎えた何度目かのホテルの朝に「私たちって付き合ってるの?」と聞かなければ、今でもそういう、適当で不適切な関係だったかもしれない。
当時は大人ってこういうものなんだ、と思って深みにはまっていったけれど、身近にこんな純愛があったと知っていたら……きっと何かが変わっていただろう。

「こんなことになるならもっと早くに奪えばよかったと、今では思っている」

クロロはそこで苦笑をすると、それを誤魔化すかのように口元に手をやった。「イルミも馬鹿だよな。ただ……なまえが幸せそうだったから、見逃してやってただけなのに」どうやら隠したかったのは苦笑だけではないらしい。柄にもないことを言った自覚があるのか、クロロはそこで初めて照れたように目を伏せた。

「……なぁ、なまえ、具体的な理由がなくてはいけないか?
どうしてもと言われれば、何かと思いつくのかもしれない。でも、挙げたそれらが打算ではないと言えるのか?」

打算という言葉に、思わずイルミの顔が浮かんだ。
家の発展の為に、仕事の効率の為に、なまえがやっぱり必要だと言ったイルミ。確かにそれはあまりに正直すぎて、愛と呼ぶには情緒に欠ける。
しかし打算には、無駄な装飾を取っ払った限りない真実という価値がある。そもそも打算抜きで生きていけるほど、この世界は幸せに満ちているのだろうか。

「……わからない、わからないよ」

クロロの言葉や感情は、あまりに『理想的』すぎた。子供のころに憧れた、おとぎ話の世界だけで通じるセオリーそのものだ。
そしてそれに簡単に身をゆだねてしまえないほど、大人のなまえは随分すり減ってしまっている。返事をするつもりでここへ来たのに、余計に自分の気持ちがわからなくなるばかりだ。

「あいつのことがまだ好きなのか?あんなことをされても」
「……愛じゃなくて情かもしれない」
「そうか、なまえは世話焼きだからな」
「……」
「お互い、面倒な相手を好きになったな」

小さく呟かれたクロロの言葉に、なまえは心の中で頷いた。変われたつもりでいたのに、結局ちゃんと結論を出せない自分に腹が立つ。答えが出せない理由はいつもと同じ恐怖心のせいで、つまるところ自分が傷つきたくないだけなのだ。

「でも、情なら俺にだってあるだろ?友人として、仲間として、これまで積み重ねてきた時間がある」
「それは……そうだよ」

だからこそ踏み出せないというのもある。イルミは初めから男だった。だから愛から始まった。でもクロロは兄のような存在で、ずっと情が強かったからこそ急な愛に戸惑っているのだ。
しかしそんななまえの臆病も葛藤も何もかも見透かしたように、クロロは綺麗に笑って見せた。

「だったら前に言った通り、待つさ。なまえの情が愛に昇華されるまで」


押し付けることも奪うこともない愛は、酷く穏やかに罪悪感の器を満たす。なまえはとうとう耐えきれなくなって、深く俯いた。

「……っ、そうやって優しくしないでよ」
「悪いが、それが俺の作戦なんだ」

大きな手がなまえの頭をゆっくりと撫でる。「それに待つとは言ったが、何もぼんやり待ってやるとは言ってないしな」一体、この人はどこまでが計算でどこまでが素なのだろう。もしかするとそうやって考えること自体、彼の術中にはまっているのかもしれない。

なまえは一度目を閉じ、深呼吸した。頭の上の手はそのまま、特に振り払うこともしない。

「でもね、クロロ。待ってくれるのは嬉しいけど、時間が無いの」

皆が皆、クロロみたいに時間をくれるわけじゃない。だからこそ、追い詰められたなまえが直接ここまでやってきたのだ。

決断の時はもう、すぐそこに迫っていた。

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