- ナノ -

■ 23.彼らしく、らしくなく

あれから一体どのように店を出たのか、なまえはろくに覚えていない。朦朧とする意識の中でイルミが店員に何か伝えていたのはわかったので、おおかたなまえが突然体調を崩したことにでもしたのだろう。こぼれたカプチーノと、赤い顔で荒い息を吐くなまえ。不審さは拭えないものの、わざわざ首を突っ込むほどの正義感にあふれた人間は少ないに違いなかった。

そのままイルミに連れ出され、気が付くとなまえは知らない部屋にいた。内装の雰囲気からして、マンションではなくどこかのホテルの一室だろう。水音が聞こえるのはおそらくイルミがシャワーを浴びている音で、このままここにいるのは非常にまずい。だがそう思ってもなまえの身体は自由に動いてくれず、ベッドの上でこみあげてくるうずきに堪えるしかなかった。


やがてなまえにとっては気の遠くなるような時間を経て、イルミが寝室に足を踏み入れる。まだ水気の残る黒髪が片側に纏められ、けだるげに羽織られたバスローブがぞっとするほど艶っぽかった。

「っ、いや、来ない……で」

今のなまえにとって、彼の色香は毒でしかない。少しでも逃れたくて目をぎゅっと閉じたが、そんななまえをあざ笑うかのようにベッドが沈む。
気配はしないくせに、温度は感じられた。すぐ隣にイルミがいる。「いや」なまえは懇願するように首をふった。

「何がいやなの?」

吐息がかかるほどの距離で尋ねられ、思わず肩が跳ねた。
イルミの指先が顎をなぞり、そのまま首筋、鎖骨へと這っていく。

「よさそうだけど?」
「っ……あ……いや、いやなの」

今更になって、目を閉じたのは失敗だったと思った。イルミの触れたところに感覚のすべてが集中し、意図せず熱い吐息が漏れる。触れてほしくないのに、触れてほしい。もどかしい刺激は苦しいだけで、もはや拷問に等しかった。

「なまえがいやって言うときは、いつも良いときなんだけどな」

イルミはそう呟くと、なまえの髪をゆっくりと梳いた。指先が頭皮をかすめ、彼の手から落ちた髪が肌を擽るたびに、ぞわぞわとしたものが背中を這う。
けれどもイルミはそれ以上の決定的な快感を与えるようなことはせず、なまえが悶えているのを見て楽しんでいるようだった。

「く……っ、ん……」

こんななし崩し的なやり方で迫るなんてひどすぎる。馬鹿にしないで。
そうは思えど、身体の熱は容赦なく思考を苛んでいく。
なまえは悔しさと苦しさで頭がぐちゃぐちゃになって、涙が溢れるのを感じた。

「……イルミっ」
「どうしたの?」

目を開けば、涙でぼやけた先に満足げなイルミの顔が浮かぶ。なまえは縋るように手を伸ばすと、彼のバスローブの襟ぐりを掴んだ。すると、こういう時ばかりは意を汲んでイルミが顔を近づけてくれる。

憎らしいこと、この上ない。

なまえは力を振り絞って喉を反らすと、そのまま彼に口づけた。それを許可だと思ったのか、イルミはこちらに体重をかけ、覆いかぶさってくる。腕の中に抱き込まれると、そこはなまえのよく知る温度と香りだった。瞬間、快感よりも、泣きたくなるような懐かしさに襲われる。

「ん……はぁ……」

久しぶりのキスはらしくないくらいに情熱的だった。薬で高められているなまえはともかく、イルミまでもが飢えを満たすように食らいつく。何度も角度を変えて繰り返されるそれに腰が砕けそうになったが、僅かに残った理性が愛欲に溺れることを許さなかった。
いや、もはやそれは理性というよりプライドだったのかもしれない。


「っ!」

突然、弾かれたように身を離したイルミは、その瞳を大きく見開いてなまえを見下ろした。まだ少し開いたままの彼の口からはゆっくりと血の混じった唾液が伝う。イルミは自分の指で触れてみてようやく、舌を噛まれたのだと理解したようだった。


「前の、わたしとは、違うんだから……。なんでもっ、かんでも、イルミの思い通りに、させないんだから……」

途切れ途切れながらなまえはそう宣戦布告する。顔を赤らめ、肩で息をし、なんともしまらない様子ではあったが、なるべく睨みつけるようにして言い切った。

「……ふーん」

手の甲で血を拭ったイルミは、相変わらず単調な声で呟く。そのくせ思わぬなまえの反抗に、怒ればいいのか戸惑えばいいのか彼自身決めかねているようであった。

「どうやら、まだ誤解が残っていたみたいだね」

言葉とともにさっ、と彼の手が伸び、なまえは最悪殴られることすら覚悟する。けれどもイルミはなまえの顔がよく見えるよう頬に手を添えただけで、力づくで何かをする気はないようだった。

「ここまでちっともオレの思い通りになんかなってないよ。むしろなまえと別れてから、想定外のことばっかりで参ってるんだ」
「結婚、やめたのまで、私のせいにするつもり……?」
「そうだよ、なまえのせいで計画がめちゃくちゃだ」

小さくため息を吐いたイルミは、そう言って不意にごろんと寝転んだ。

「なまえのことこんなに好きだとは思わなかった」

そしてまるで添い寝でもするような格好で、自分勝手に話し始める。なまえはあまりに自由すぎるイルミに、少し毒気を抜かれた思いだった。

「考えたんだけど、やっぱりオレなまえと結婚したいし、してもいいんじゃないかなって」

そう言ったイルミの横顔はひどく穏やかだった。いつもの無表情とどう違うのだと言われれば言葉でうまく説明できない。けれどもどこかほっとしたような、それでいて覚悟を決めたような、そんな雰囲気があった。

「正直結婚なんてどうでもよかったんだけど親がうるさいしさ、どうせしなきゃならないんなら家の役にたつ相手にしようと思って。だから初めは同業者を選んだんだ」
「……」

そんなことは改めて言われずともわかっている。イルミの性格ならこっちは嫌と言うほど知っているのだ。
なまえだってこうして悲しみを怒りに転換するまでは、仕方のないことだと諦めようとした。心のどこかでこの別れは、彼の本意ではないのだと思おうとした。
けれどもそれにしたって、ああも簡単に別れを告げるなんて、なまえのことを軽く見ている証拠ではないか。

「でも、なまえと別れてからうまくいかないことばかりでさ。仕事にも集中できないし、これはかえって効率が悪いんじゃないかって思ったんだ」

同業者と結婚すると、依頼を回せる分物理的なタスクが減る。だが好きでもない相手だから一緒にいるといらいらするうえ、なまえのことを考えて仕事がうまくいかない。
一方、なまえと結婚すると物理的に仕事は減らないものの、集中できる分イルミ自身の能率が上がる。

彼はつらつらと説明すると、ね?と同意を求めるように首を傾げた。

「それなら後者のほうが、よくない?」
「……」
「なまえと結婚してオレの能率が上がれば、同業者一人分どころじゃない。お釣りがくるよ」

人が苦しんでいる横で、苦しませている張本人がなに勝手なこと言ってるんだろう。そうは思ったが、無茶苦茶な理屈はイルミらしいな、とも思う。そのくせ、なまえがいないと仕事に集中できないなんて、らしくないことを言うんだからずるい。こんな無粋な口説き方なのに、必要とされてるんだって思ってしまうのは、薬で頭がうまくはたらいていないせいなのだろうか。

「ねぇなまえ、苦しい?でも案外耐えるんだね。これならなまえを訓練すれば、そこそこの出来には仕上がるんじゃないかな。完成品を買うほうが早いと思ってたけどさ、なまえなら一からオレの手で育てるのもそれはそれで楽しいかもしれないね。
あと、出自のことは気にしなくていいよ。うち、母さんも流星街出身だし、そもそも跡を継ぐのはキルアだしね。
これでたぶん、全部の問題は解決したと思うんだけど、なまえはまだなにかある?」


本当に、この男は。
つい先ほど舌を噛まれたという事実を忘れたのだろうか。確かに怪我をしたとは思えないほど饒舌に喋るので、結局なまえレベルの抵抗は児戯に等しいということなのかもしれない。

「……普通に、」

それでも、たとえ無駄だったとしても、なまえは無理して声を絞り出した。

「普通にごめんって……普通に好きって言えないの?」

言ってもどうせわからない、と諦めるのは簡単だ。だが言わなければ絶対に伝わらないだろう。
なまえは変わると決めたのだ。

「まず、謝ってよ」

そう言うとイルミは一瞬きょとん、とした顔になった。が、少し考えるように眉を寄せた後、口を開く。

「それは……別れるって言ったこと?他の女と結婚しようとしたこと?それとも、刺客に狙われたこと?」
「全部」

言語化されたことによって、今まで抱えていた悲しみや怒りが一度にこみあげる。よくよく考えると、本当にひどい目にあわされたものだ。

「私を悲しませたこと、全部謝って……話はそれから、よ」

正直、謝られたところではいそうですかと許せる自信はない。
けれども、この憎しみを一生抱えていくにはつらすぎた。負の感情とはいえ、そうやってイルミに縛られ続けるのは癪なのだ。一度どこかで区切りをつけたい。 「私っ、イルミが、憎いの」今まで嫌われないように醜い感情に蓋をしてきた分、絞り出した言葉は恐ろしく熱を持っていた。

「そっか……オレ、なまえはずっと怒りもしないし泣きもしないと思ってた。感情がないって意味じゃなくて、ものすごく穏やかなんだと思ってた」

そんな人間いるわけない。そう振る舞うことを望まれていたから意をくんでいただけだ。
イルミは身体を起こすと、上からなまえの目をじっと覗き込む。

「でも違ったんだね……ごめん。たくさん傷つけて、ごめん」
「……っ」

自分から謝罪を要求したものの、なまえは聞こえてきた言葉に耳を疑った。
子供みたいにばつの悪そうな雰囲気を纏わせて謝るイルミは新鮮で、もしかすると彼も変わろうとしているのかもしれない。他人を変えるなんて無理だとわかっていても、その可能性に賭けたくなるのは弱さだろうか、甘さだろうか。
なまえは逃げられないからではなく、初めて自らの意思で彼の言葉に耳を傾けようと思った。

「それから、もうひとつごめん。さっきなまえがオレを憎んでてくれたってわかって、嬉しかった。穏やかすぎるなまえは、ときどきオレのことなんてどうでもいいんじゃないかって不安だったから」
「ふ、あん?」

イルミが、不安?
いつだって強引で、なまえの好意を当然のものとして搾取する立場だったイルミが、不安?
信じられないことばかりだが、嘘をついているようには見えない。

「今回だって、無理矢理でも犯してしまえばまた繋ぎとめれるかもって。刺客の件でなまえに誤解されてたのはわかってたけどさ、どうしたらなまえが戻ってきてくれるのか、わからなくて」

イルミはなまえの頬に手を添えようとして、それから薬のことを思い出したのか手を引っ込めた。さっきまで楽しんで苛んでいたくせに、今更なんだというのか。困惑し、警戒するなまえに、イルミは苦く笑う。

「ねぇなまえ、謝ったけど、別に許さなくてもいいよ」
「……」
「許さなくていいから、やり直してほしい」
「何、言って、」
「怒っても泣いても、今はオレのことが嫌いでもいい。何も我慢しなくていい、取り繕わなくていいから、これからも一緒にいてほしい」

もしもこんな、薬に侵されている状況じゃなかったら、少しはときめいたかもしれないのに。

「好きなんだ」

そう言ったイルミは、やっぱり変わらず自分勝手だった。こんな状況でまともに考えられるわけもないし、なし崩しであることには変わりない。第一、ここで断ったらどうなるんだろう。
気持ち的にはもう一回くらい平手打ちをしてやりたいところだけれど、生憎力が入らなかった。気合いだけで保っていたが、正直そろそろ限界なのだ。

「……イルミ、お願いがあるの」
「なに?」
「考える時間、ちょうだい」
「いいよ」

すぐさま拒否をしなかったことで、イルミの気持ちにも余裕ができたのかもしれない。聞き分けのいい子供のように、すんなりと頷く。

「でも、なまえもこのままじゃ身体つらいよね。一回、」
「いいの!このまま絶対に、何もしないで。したら、死んでやるから!」
「えっ」
「ぜったい、よ」

それだけ言い残すとなまえはもはや限界を通り越し、ゆっくりと意識を手放した。今のイルミならきっと約束を守ってくれるだろう。
というかこの約束すら守れないようなら、イルミと生きる選択肢は確実に消える。


「……参ったな、生殺しなんだけど」

豪華なホテルのベッドの上で、イルミがそう呟いたことをなまえは知らない。

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