- ナノ -

■ 22.本性現る

状況は依然として理解できていない。
心臓は早鐘を打ち、冷たい汗がどっと噴き出す。
逃げなければ、と頭は警鐘を鳴らすのに、イルミと目が合った瞬間、魅入られたように足が動かなくなった。

「大丈夫。誤解を解きにきただけだよ」
「……」
「でも、なまえが逃げようっていうんならオレも実力行使に出ざるをえないね。
……どうする?」

どうするもこうするも、座れということなのだろう。ゆっくりと彼に近づいたなまえは、うつむきがちに腰を下ろす。刺客が来なくなって、すっかり油断していた自分を恨まずにはいられなかった。

「元気そうだね。なまえが旅団のところから出てて安心したよ。クロロとはやっぱりうまくいかなかったの?」

イルミと二人きりで話すのは、あの日別れを告げられた時以来だ。そのあと二回会ったときはどちらも殺気を向けられたり、命を狙われたりしている。いくらなまえが精神的に変わろうと決意していても、恐れるなというのは無理な話だった。

「……そんなことを話すために来たの?」
「ううん、違うよ。言っただろ、誤解を解きに来たって」
「誤解?」
「なまえを狙った刺客。あれ、オレの婚約者のせいだった」

正確にはもう違うけど、とイルミは付け加えたが、なまえはそんなことどうでもよかった。時期的に考えて、今は婚約者から妻になったのだろう。ちらりと見たイルミの左手に指輪はなかったが、仕事の邪魔になるから外しているだけかもしれない。

「そう、イルミじゃなかったんだ」
「うん」
「じゃあ、もう二度と関わらないし、奥さんにやめるように言っといてくれる?」

声が震えるのを誤魔化すために、冷めたカプチーノに口づける。せっかくの泡は既に溶けてぐちゃぐちゃになっていて、鈍い甘さだけが口内に広がった。
イルミはというとなまえの言葉が理解できなかったのか、こてんと首を傾げた。

「なんで?もしかしてなまえ、怒ってる?」
「怒る?」
「知らなかったこととはいえ、迷惑かけたのは謝るよ。でも、なまえだってオレを疑ったでしょ?だからおあいこじゃない?」
「……なに言ってんの」

戻したカップがソーサーに当たって、思った以上にカチャンと大きな音を立てた。一瞬、怖いという感情よりも苛立ちがなまえを強く突き動かした。

「刺客のことだけじゃない。あんな酷いことしておいて、よく私の前に顔を出せたね」
「酷い?あ、もしかしてなまえに別れようって言ったこと?」
「別れようとすら言ってない。イルミは”結婚するんだ、だからなまえとは別れることになるよ”って言ったんだよ」
「よく覚えてるね」

イルミはどこか感心したふうに呟いた。しょせん、この男の中では忘れる程度のことなのだ。
”別れよう”と”別れることになるよ”のニュアンスの違いも、言われたときのなまえの衝撃も何一つ理解できていない。
そのくせ、自分が刺客の件で信用してもらえなかったことだけは人並みに根に持っているのだからたちが悪かった。

「まぁでも、あの件でなまえが怒ってるなら話は簡単だよ。
結婚、やめにしたんだ。だからまた一緒にいられる」
「……」
「ああ、クロロの件は別に気にしなくていいよ。今回限り、特別に見逃してあげる。何もなかったとはいえ、オレも一時期別の女といたわけだからね」

いつになく饒舌なイルミは、きっと機嫌が良いのだろう。しかしどの言葉もなまえの胸に響くことなく、不法投棄のゴミさながら、醜い山を築くだけだった。
この人はなんでこんな勝手なことばかり言えるんだろう。なんで何事もなかったみたいに振舞えるんだろう。唇がわななくように震えたが、この感情を適切に表す言葉が見つからない。カップを持つ指に力がこもった。

「でも一応確認。クロロとはどこまでヤった?」


瞬間、びしゃっと音を立てて、カップの中の液体がイルミのいた席に降り注いだ。奥まっている席とはいえここが人目のある店内だとか、雰囲気が気に入ってまた通いたいと思っていたこととか、すべて頭から抜け落ちていた。

「……平手打ちは受けたのに、これは受けてくれないんだ」

ぽた、ぽたと茶色い雫が床に落ち、甘い匂いが鼻をつく。当然のように立ち上がってかわしたイルミは、髪をかき上げ汚れた席を見下ろした。

「なまえってこんなにヒステリックだっけ?」
「今までは我慢してたからね」

アドレナリンでも出ているのか、身体が燃えるように熱かった。嫌われるという恐怖も、殺されるかもしれないなんていう恐怖も、今は感じない。「イルミの自分勝手なとこ、大嫌い」最初の言葉さえ言ってしまえば、あとは堰を切ったように感情があふれた。

「デリカシーのないところも嫌い!私を物のように扱うとこも嫌い!嫌われるようなことを平気でやっておいて、それでも許してもらえると思ってる図々しいところも大っ嫌い!」

涙でゆがむ視界の先で、イルミがはっと息をのむのがわかった。傷つけることは慣れているくせに、傷つけられ慣れていない彼の動揺が伝わってくる。なまえはなぜか勝ったような気持ちになって、思わず口角をあげた。心の隅にちらつく虚しさには、必死で気づかないふりをした。

「……オレのこと、そんな風に思ってたの」
「そうだよ」
「じゃあなんでつき合ってたの。そんな我慢までして、なんでつき合ってたのさ」
「好きだったからに決まってるでしょ!嫌いなとこもあったけど、それを上回るくらい好きだった!だけど、もう、」

見返りがなくても愛することはできるかもしれない。でも、愛し続けることは無理だ。そんな綺麗事が通用するのは物語の中だけで、しかもなまえはヒロインなんて器でもない、何の取柄もないただの女だ。
けれどもイルミは何を思ったのか、ゆっくりと近づいてなまえの顎を救い上げた。

「それなら……そんなに好きでいてくれたなら、まだオレたちはやりなおせると思う」
「またそうやって、勝手なことばっかり!」
「今まで何も言わなかったくせに、突然限界迎えてキレるなまえも勝手だよ」
「そう思うなら放っておけばいいじゃない!」
「できないよ、好きだから」

囁かれた言葉に、くらりと眩暈がする。
まさか。今更好きだと言われたくらいで絆されるわけない。イルミから離れようと後ずさったが、足に力が入らず立っているだけで精いっぱいだった。

「わかったんだよ。オレ、なまえじゃなきゃだめなんだって。なまえだってそうでしょ?」
「っ、イルミ……」

おかしい。変だ。感情が高ぶっているせいで身体が熱いのかと思っていたが、そうではない。見計らったかのように、イルミが腰に手をまわしてなまえの身体を支えた。その刺激だけで、びくりと身体が跳ねる。

「やっと効いてきたみたいだね」
「なに……盛った……の」

一口しか飲まなかった甘ったるいカプチーノの味が、今更のように思い出される。イルミはそれに答えなかったが、代わりになまえを抱く腕に力をこめた。

「大丈夫、悪いようにはしないから」


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