- ナノ -

■ 21.伏せてあった選択肢

引っ越しが終わってようやく生活が落ち着いてきたなまえは、自宅付近を散策している途中でお洒落なカフェを見つけた。

ここ最近、手酷く振られたり危険な目にあったりと、平穏から遠ざかっていたなまえは、久々にゆったりした気持ちで店に入る。木々に囲まれたテラス席は開放感があるものの、うまく人目から隠されていて落ち着ける雰囲気だ。なまえは入ってすぐにこの店が気に入ってしまった。

メニューを開いてすぐ、迷いなくコーヒーの欄を見る。
元々紅茶ばかり飲んでいたのはイルミが家にどこぞの高級な茶葉を置いて行ったからで、別になまえ自身が紅茶党というわけではなかった。しかし特に拘りがなかったはずの自分はすっかり贅沢に慣れてしまっていて、他の紅茶はあまりおいしいと思えなくなったのだ。

可愛らしいラテアートに惹かれて、頼んだのはカプチーノ。定番のリーフ型はよく見かけるが、この店は立体的な作品が売りらしい。カップから覗く、泡で作られた白猫は、思わず写真を撮りたくなるような出来栄えだった。
すぐに飲んでしまうのがもったいなくて、少しカップを回して眺めてみる。

その時、なまえの携帯が着信を知らせた。

せっかく居心地のいいカフェなのだ。他に客はほとんどいなかったけれど、なまえは席を立ち、化粧室へ向かう。画面に表示された名前はヒソカだったので、本音を言えば出たくなかった。

「もしもし」
「やぁなまえ、そろそろ新しい生活には慣れたかい?」
「おかげさまでね。それで何の用なの?」
「せっかちだなぁ。もう少しお喋りにつきあってくれたっていいじゃないか」
「だって、ヒソカなんだもの」

平穏という言葉の対極にいそうな男だ。できることならば関わりあいになりたくない。しかしヒソカはなまえのささやかな願いすらもぶち壊すように「デートしない?」と言った。

「なんで私がヒソカとデートしなきゃなんないのよ」
「いいじゃないか。今フリーなんだろう?ボクもなまえとお近づきになりたいなぁって」

いっそ清々しいまでの嘘に、思わず噴き出す。どうせこの男はなまえに興味があるのではなく、なまえにちょっかいをかけることで生まれるごたごたを期待しているだけなのだ。
クロロもこのくらいはっきりしていてくれれば、なまえも好かれているのかも、なんて勘違いせずに済むのに。

「お近づきになりたい、ねぇ。じゃあ聞くけど、いったい私のどこが好きなわけ?ヒソカに気に入ってもらえるほど強くなった覚えはないんだけど」
「なまえは可愛いよ」
「くだらない」
「じゃあ、嘘が上手いところかな」
「え?」

嘘が上手い?私が?
一瞬、言われた意味がわからなくてなまえはきょとんとした。確かに自分もヒソカと同じ変化系で、彼の性格判断によると嘘つきで気まぐれということらしいが、自分でそれが当てはまっていると思ったことがない。けれどもリップサービスにしては、あまりにそぐわない内容である。

「自覚なかったんだ?なまえってものすごく嘘つきだよ」
「……どういう意味?」
「嘘つきからすると、自分を騙すのが一番難しいんだよね。でもなまえは器用に自分に嘘をついて、不器用な生き方ばかりしてる。そういうとこ、いじらしくって可愛いと思うよ」
「……」

そう言われると、思いあたる節がないわけでもなかった。なまえはこれまで自分の意見を言うということがあまりなかったし、嫌なことも笑って受け流していた。嫌われるのがいやだから寛容なふりをして、いつのまにか自分でも寛容な人間になった気でいた。
あの日イルミに振られて、寛容の仮面が砕け散ってしまうまでは。

3年も付き合って、怒るところを見せたのはあの1回きりだったと思う。まぁ、もう我慢する必要も取り繕う意味もなかったからこそできた、というのもあるのだが、普段なまえは放っておかれても文句のひとつも言わない、非常に都合のいい女だった。都合がいいから一緒にいてもらえているのを認めたくなくて、我儘を言えば切られるかもしれないという不安があって、そのくせ自分は面倒でない良い女なのだと思ってすらいた。
そう思わないと、やっていられなかった。

「……可愛いって言ってくれたところ悪いけど、もう自分に嘘をつくのはやめたの」
「できるのかい?」
「我慢した結末があれなんだもの……意味ないよね」

黙って耐えていたって、その頑張りは誰も気づいてくれない。それも当たり前だろう。なまえ自身がひた隠しにしている感情を、悟ってくれというのはあまりに横暴だ。我慢してくれてありがとう、という感謝もない。だってなまえが“当たり前のこと”のように振舞ったから。
誰もなまえは我慢しているから優しくしてあげよう、なんてことはないし、むしろなまえにはいくら無茶苦茶なことをしても許されると思い始める。

耐えていればいつか相手が気づいてくれて、なまえのために変わってくれるなんて、いまどき子供ですら笑いだしそうな夢物語だ。
そんなものを信じていたころに、もう戻るわけにはいかなかった。

「私、普通の幸せがほしいだけなの」

なまえの心からの言葉に、ヒソカは面白いことを聞いた、と言わんばかりに笑う。

「無理だよ、キミの周りに普通の人間なんていないじゃないか」
「たしかに。でも、望むくらいはいいじゃない。初めから諦めていたころに比べたら、これでも成長したんだよ」
「まあ、どっちを選んだとしても地獄だろうしねぇ。頑張って」

謎に励まされ、じゃあね、と電話が切られる。自分からかけてきておいてデートしようだなんて言ったくせに、随分と自由な男だ。
確かにヒソカの言う通り、クロロと一緒になっても普通の幸せは望めそうにないだろう。でも普通の幸せのために誰かを好きになるのか、好きだから幸せなのか、考え出すとわからなかった。そもそも今のなまえは好きということ自体よくわからなくなっていた。

本心はそう。幸せになりたいだけなのだ。
それなのにどっちを選んでも地獄といわれるのだからどうしようもない。

なまえはふう、と大きく息を吐くと、気を取り直して席に戻ることにした。きっとすっかりコーヒーは冷めてしまっただろう。

「ん?どっちを選んでも?」

どっち、とはなんのことだろう。今なまえが悩んでいるのはクロロとつきあうか、つきあわないかだが、告白されたことは誰にも話していない。さすがにクロロが自分で話すわけないだろうし、つき合わなくても地獄とはどういうことだろうか。


相変わらずヒソカの言うことはよくわからないな、と考え事をしながら向かったテラス席。
なまえは自分の座っていた席を見て、思わず硬直する。

「な、んで……」
「や、久しぶりだね。なまえ」

片手をあげたそう言ったイルミは、いつもと変わらぬ無表情だった。


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