- ナノ -

■ 19.もはや限界

ようやく帰ってきた未来の夫は、ノックもせず乱暴に扉を開ける。
ケイナはドレスのカタログから顔を上げると、おかえりなさい、と当たり前のように返した。

「……」

もちろんそれに返事はない。相変わらず人形のように表情のない男だ。そのくせ、肌が焼けそうなほどの禍々しい殺気を放っているのだから、そのちぐはぐ具合が滑稽ですらある。
イルミはソファに腰掛けるケイナのところへ、その長い脚でつかつかと歩み寄った。普通ならば怒りに任せて踏み抜くといった雰囲気であるのに、やはりこんな時でも足音がしない。とことん可哀想な人だわ、と思ったケイナもまた、危機迫る状況で落ち着いている自分に嫌気がさしていた。

「私、ずうっとあなたの帰りを待っていたんですよ」
「……」
「仕事が忙しいのはわかりますけど、あんまりではなくて?」

この男がケイナのことをどうとも思っていないのは知っている。それに関しては政略結婚の都合上、こちらもお互い様だし責めるつもりはない。

しかし、一旦すると決めたからには割り切ってもらわねば困る。愛が無いことには我慢できるが、初めからほかの場所に愛があるというのは流石に面白くない。これはあくまで双方に益のある”契約”なのだから、ケイナが積極的に関わろうとし、意欲的に式の準備を進めたみたいにそちらも歩み寄るべきではないだろうか。
少なくとも、過去をきちんと清算するくらいには。

「まぁ、仕事だけではないようですわね。ボディーガード、ご苦労様です」
「へぇ、認めるんだ?なまえに刺客差し向けたこと」
「だって、悪いと思ってませんもの」

邪魔なものは排除する。ケイナはただできることをやっただけだ。むしろ本来ならばイルミ自身がやるべきことをやってあげたくらいである。
けれども彼は「思いあがらないでくれる?」と心底不快そうに言った。

「お前はただ都合がよかっただけ。妻になるからって、オレの領分にまで手を出していいわけじゃない」
「あらまぁ。では愛人にでもなさるおつもりでしたの?」
「なまえが望むならオレはそれでもいいよ」

思いあがっているのは一体どっちか。

「……あなた、馬鹿なのかしら?」
「は?」

殺そうとしたとはいえ、ケイナは別になまえという女が憎いわけではない。それどころかむしろ、憐れみすら感じている。今までこんな無茶苦茶な男と付き合ってきて、挙句結婚するから、といきなり振られたのだ。それだけでも大概なのに、今度は愛人?
しかもまるで向こうがそう望むのが当たり前のように言うのだから、嫌悪を通り越して呆れるしかない。

男は身勝手な生き物だが、この男は身勝手が服を着て歩いているようなものだ。

血統とお金のため、と割り切っていたケイナですらも、もはや結婚したくない、と思えるくらいに。

「私もターゲットのことくらい調べてますのよ。彼女、既に新しい恋人がいるのではなくて?」
「あぁ、あれは騙されてるだけだよ。傷心のところに付け込まれて、おまけにお前が放った刺客がオレのせいにされてるからね」
「でも、彼女を傷心させたのはあなたでしょう?」
「なまえはオレのことが好きだからね。お前みたいに金や家の名前目的じゃなくてさ」

家目的なのはそちらもだろう。そうでなければ、暗殺家業の女を嫁に選んだりしない。ケイナは言い返しそうになったが、それよりもっと効果のある言葉を思いついた。もはやこの男とは死んでも結婚する気はない。この際言いたいことは言ってやる。

「今となっては好きだった、でしょうけど」
「……どういう意味?」
「そのままの意味ですわ。あなたみたいな最低男と別れられて、彼女も今頃感謝してるでしょう。私もあなたとの結婚は絶対にお断りですね」

そういってカタログをイルミの足元へ投げ捨てる。世界が自分中心に回っていると思っているらしい彼は、案の定ケイナの行動に面食らったようだった。

「婚約破棄するってこと?」
「ええ。あなたと結婚するくらいなら死んだほうがましですわ。あなたもそのおつもりでここへ来たのではなくて?」
「それはそうだけど……」

よもや、ケイナのほうから切り出されるとは思っていなかったのだろう。結果的には同じことなのに、振られる弱者の立場になったことが信じられないらしい。驚いたからか入ってきたときの殺気が嘘のように霧散していて、ケイナは畳みかけるように言葉を続けた。

「あなたがずっと家に寄り付かなかったこと、お義母様も知ってますわ。だからこの申し出は当然受け入れられるはずですし、落ち度があるのはあなたのほう。よろしいですわね?」
「うん、いいよ。別れてくれるなら」
「私、あなたとつき合った覚えもありませんけどね!」

ではそういうことで、ごきげんよう。

ドレスの裾をつまみ、かろうじてお辞儀をして見せたが最後の最後まで腹の立つ男である。ケイナは言いたいことだけ言い切ると、文字通り逃げるように屋敷を後にした。あまりの理不尽さに腹が立って色々言ってしまったが、相手はゾルディック家。機嫌を損ねて殺されでもしたらたまったものではない。今更になって、心臓がばくばくと騒いでいた。

ケイナが必要以上に衣服や装飾品に関心を示したのも、正直なところ義母に合わせていたに過ぎないのだ。イルミの好みがわからず、男はみんなマザコンだろうとキキョウのキャラに寄せていた部分もある。もちろん、贅沢する以外にここでの生活に魅力がなかったのもそうだが。

しかし我慢ももう終わりだ。試しの門を通り抜け、ケイナは助かった、と思った。いくら血統が良くて金持ちでも、あんな男と一生一緒にいるなんて気が狂いそう。それなりに自分で稼げて、プライドもあるケイナでは絶対に合わない。

――あれと3年も付き合ってたなまえさんって、どんな人なのかしら?

殺すために必要な情報は集めたが、本人の具体的な性格までは知らなかった。海のように寛大な心の持ち主かもしくは、恐ろしく自己肯定感が低く、自罰的なタイプなんだろう。


どちらにせよこうして婚約破棄が相成った以上、イルミは元鞘に戻ろうとするに違いない。ケイナはぶるりと身震いすると、会ったこともないなまえに心の中で同情の声援を送った。


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