■ 18.各自、動き出す
「まぁまぁイルミ!やっと帰ってきたのね!!!ケイナさんもずっとあなたが帰ってくるのを待っておられたのよ!!」
「ケイナ……?」
誰そいつ、と聞きそうになって、イルミはすんでのところで言葉を飲みこんだ。そういや、あの婚約者の女がそんな名前だった気がする。
久々の実家は相変わらずのようで、キルアも戻っていないし父も祖父も仕事。イルミだって帰って来たくなかったが、生憎と今日はそのケイナとかいう女に用があった。
「結婚式までもう日がないの!こちらで決められることは決めておいたけれど、やっぱり本人がいなくちゃねぇ!さ、イルミ、こっちへ」
「母さん、そのことだけど、」
「なあに?今ならまだ変更はきくわ、ケイナさんのドレスの候補はこっちの部屋にあるからあなたの好みも、」
「そう。じゃあ変更してくれない?花嫁」
「……え?」
うるさかった母親が、ぽかん、と口をあけ固まる。瞬きをするように、スコープの奥の光がちかちかと点滅した。
「母さんが気に入ってたみたいだからまぁいいか、と思ってたけど、オレの領分に手を出すような女は要らないんだよね」
「イ、イル……」
「悪いけど、これでも怒ってるんだよ」
瞬間、あたり一帯を禍々しいオーラが包む。八つ当たりをするつもりは無いが、本気なのだということはわかってほしい。ただ大人しくゾルディックの妻の座に収まることだけで満足していればよかったものを、あの女はなまえにまで――イルミの私物にまで干渉したのだ。到底許せるわけがない。
口元を手で覆い、後ずさりをしたキキョウを置いて、イルミはすたすたと歩き始めた。目指すのは図々しくも居座っているあの女の部屋だ。
「な、なんてことなの……イルが……」
その場に残されたキキョウは予想外の出来事にわなわなと震えるしかなかった。彼女にとって、長子であるイルミは聞き分けの良い模範的な息子だったのだが……。
「素晴らしいわっ!!大人しい子だと思ってたけれど、怒るとあんな素敵な殺気を出せるのね!!!」
今まで母親には見せていなかった一面に、当の母親は感激していた。
△▼
コンコン、と扉をノックすると、中から「どうぞ」と返事が聞こえる。声に従って扉を開けると、部屋の主は相変わらず読書に勤しんでいた。
「少し待ってくれ、今いいところなんだ」
クロロは横顔のままそう言った。なまえとしては出来上がったプリンとコーヒーを差し入れに来ただけなので、待ってくれ、の言葉に少し戸惑う。しかしそう言われた以上退室するのも躊躇われ、仕方なく彼の正面の席に腰を下ろした。
ぺらり、と紙のめくる音が静かな室内に響く。手持ち無沙汰でコーヒーから上がる湯気を眺めていたなまえは、その音にふと視線を上げて彼の顔を見た。
そして思わずその真剣な表情に見とれてしまった。
文字を追うために伏せられた瞳は長い睫に覆われ、目元に仄かな影を落としている。透けるように白い肌はどこまでも滑らかで、時折するまばたきが無ければ精巧なビスクドールのようだった。
「……なまえ、」
「……」
「なまえ?」
「えっ!あっ、ごめん、なに?」
「そんなに見つめられると流石に気が散るんだが」
見ていた時間は、実際そんなに長くないと思う。だが、クロロに苦笑しながらそう言われて、なまえは今更のように視線をそらした。
「ご、ごめん、差し入れしに来ただけだから。邪魔しちゃ悪いし出るね」
「いや、俺こそ無謀だった。なまえが気になって、まったく文字が頭に入ってこない」
「ほんとごめん……」
「違うんだ、なまえのせいじゃない」
立ち上がりかけたなまえを制して、クロロは読んでいた本をテーブルの端に押しやった。どうやら読書は中止らしい。
彼はプリンを見ると先ほどまでの静謐な雰囲気はどこへやら、子供のようににっこりと笑った。
「美味そうだな。なまえの分は?」
「向こうにあるけど」
「持ってこればいいだろう。せっかくなら一緒に食べよう」
「う、うん」
クロロの提案になまえは頷いて、逃げるように早足でキッチンへと向かう。理由はわからないが動揺していた。
最近の自分はおかしいと思う。今までは特に気にも留めていなかったことを意識してしまっている。たとえば彼のふとしたときの表情とか、部屋に二人きりになることとか。
この前なんか部屋飲みしてたくらいじゃないか。今更おやつを共にするくらいで何を緊張することがあるというのだろう。
そう頭では考えるものの、なまえはプリン片手に部屋の前で躊躇せざるを得なかった。彼の顔を見る度に、どうしてもイルミに襲われた時のことを思い出して落ち着かなくなる。それも恐ろしい体験だったはずなのに、一番印象に残っているのはクロロの腕の中の安心感なのだからどうしようもない。
なまえは部屋の前で深呼吸すると、なるべく普段通りに見えるように祈りながら彼の正面へ腰を下ろした。
「なまえは料理が上手いな」
「お菓子はあんまり作らないけど、一人暮らしが長いからそれなりにはね」
「俺だってほとんど一人だが、一人だと作ろうとすら思わないな」
「まぁ、誰かのために作る方がやりがいはあるよ」
せっかく手間と時間をかけて料理を作っても、実際食べるのには30分もかからない。美味しいね、と言いあう相手がいなければ、味わって食べるわけでもないし尚更だ。
だから、なまえにとっても今の生活は楽しかった。毎日他愛ない会話をしてご飯を食べて、ただ一緒に時間を過ごすというのがどれほど楽しいかよくわかった。わかったうえで、この今の生活が続かないことを知っていた。
「ねぇ、クロロ」
「なんだ?」
「そろそろ、次のお宝を見つけたころなんじゃない?」
旅団がどのくらいのペースで仕事を行っているのか、正確には知らない。蜘蛛の盗品がすべてなまえの店を通るとは限らないし、売りに出されるタイミングもクロロ次第だ。
だがそれでも、彼らがこうしてメンバーで定住しないことは知っている。今のように変則的な生活を送っているのは、明らかになまえを刺客から守るためであった。
「まぁな、欲しいものは決まってる」
「そう。私もいい加減お世話になりっぱなしってわけにもいかないしさ、近々出ていこうと思ってるの」
以前はひっきりなしにやってきていた刺客の攻撃が最近ぴたりとやんでいる。それを逆に不気味に思わないわけでもないし、相手が諦めたのだと言い切れる証拠はないが、そんなことを言っていたらいつまでたっても怯えて暮らさなければならない。
刺客が来なくなって、蜘蛛も次の仕事を見つけた。なまえがここを出るにはこの上ないタイミングである。
「今まで本当にありがとう。この恩は仕事のほうで返させてもらうね」
「……そうか、じゃあ俺もそろそろ動くか」
「私にできることならなんでもするよ。レアな古書とかでも、題名を教えてくれれば探すし。そういや、この前オークションで出してた本の残りはもう集まった?」
「いや、欲しいものは決まってるって言っただろ」
なに?と首を傾げたなまえに、クロロは少し呆れたように眉を下げた。「なまえ」彼の言っている意味が分からず、かといってこれ以上首も曲がらず、なまえは彼の顔をまじまじと見る。
「俺たち、本当につき合わないか」
クロロの瞳に映った自分が、大きく目を見開くのがわかった。
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