- ナノ -

■ 01.意思の欠落

帰宅すると既に浴室からシャワーの音がしていて、なまえは彼が家に来ていることを知った。長い付き合いだからか、それとも彼の性格か、久しぶりの逢瀬だろうとイルミは一言行くよの連絡も寄越さない。まさに勝手知ったる他人の家と言う感じで、長いときは何の断りもなく一か月以上滞在することもある。ターゲットがこの近くにいてさ、なんてそんな色気の欠片もないような台詞とともに。

だからなまえも今更イルミが部屋にいたところでそう驚きはしなかった。何しろ二人が付き合い始めてからもう3年にもなる。明確に恋人になってくれと告白されたわけではなかったが、身体の関係になり、その後もなんだかんだ切れることなく続いている。ヒソカやクロロも、イルミとそんなに長続きしている女はなまえくらいのものだと口を揃えて言っていたし、いわば公認の仲だった。

なまえはリビングのソファーに鞄を下ろすと、乾いたタオルと常備してある彼の着替えを洗面所に持って行った。

「着替えとタオル置いておくからね」
「なまえおかえり」
「うん、ただいま。っていうか、シャワー浴びるならちゃんと自分で持って行きなさいよ」
「つい忘れるんだよね。家では執事が用意してくれるからさ」

きゅ、とコックを捻る音がして水音が止む。イルミはそのまま何の躊躇もなく扉を開けると、タオルの方へ手を伸ばした。

「久しぶりだね、なまえ。会うのはいつぶりかな」
「2か月くらいじゃない?ていうか少しは隠したらどうなの」
「裸なんて今更だろ」

確かに彼の言うように、なまえだって別に赤面するわけではない。だが、だからと言って恥じらいや慎みといったものはあってもいいはずだ。
なまえは小さく肩を竦めると、自ら背中を向けて彼を見ないようにした。

「なに、またこの辺りで仕事でもあるの?」
「え?なんで?」
「だってイルミっていつも、用があるときにしか会いに来ないじゃない」
「うーん、用がないのに会う方が変じゃない?」

これが久しぶりに会った恋人の会話なのかと思うと憂鬱になるが、イルミは元々こういう性格だ。そんな性格の彼にうるさく言わないなまえだからこそ、上手くいっている部分もある。反論を溜息に変えたなまえは、で、と言った。「滞在期間のご予定は?」とりあえず必要な生活品は揃っているが、食材やら今後の買い物の予定だってある。

服を着終わったらしいイルミは、なまえの背中を押してリビングまで歩いた。

「それが今回は仕事じゃないんだよね」
「そうなの?」
「なまえに話があってさ」

まだ濡れたままの髪はさらに艶があり、男だと言うのにイルミは色っぽい。話がある、と言った彼は半ば強引になまえをソファに座らせると、自分もすぐ隣に腰を下ろした。

「今日はたぶん、このまま帰るよ」
「え?ご飯は?」
「なまえがいいなら食べるけど」
「なに、いっつも遠慮なんかしないじゃない」
「あのさ、なまえ、」

普段から真顔である彼が、真面目な顔つきをしたところでそう変わらない。だが、今までの付き合いで、なまえはイルミが何か重要なことを言おうとしているのだと悟った。だから怪訝に思いながらも、彼の言葉の続きを大人しく待った。

「オレ、今度結婚するんだ」
「……え?」

ぽつり、と呟くようにして放たれた言葉に、なまえは一瞬耳を疑った。彼は今、なんと言ったのだろう。

──結婚?
でも、後に続いた言葉は”しよう”ではなかった。イルミははっきりとこう言ったのだ、自分が結婚”する”と。なまえは不意に目の前が真っ暗になった気がした。

「え……?なに、言ってんの……?」
「だから、オレもうすぐ結婚するんだよ」
「……誰と?」
「知らない。母さんが連れて来た同業の女」
「ま、待ってよ、どういうこと?ちゃんと説明してよ!」

言葉だけなら詰め寄る勢いだ。だかなまえはあまりな内容に恐ろしくなって後ずさった。それでもなまえが声を荒げるのは初めてのことだったからか、イルミは少しだけ驚いたように見えた。

「前から言ってたけど、親が結婚しろってうるさくてさ。オレがあんまりにも避けるもんだからとうとう強硬手段に出たみたい」
「……なんでそんな他人事なの……イルミのことなんだよ?そ、それに私は……」
「まぁ相手の家柄的に妥当ってとこはあるよね。母さんも気に入ってるらしいし、オレとしてはその方が後々面倒くさくないし」

だからさ、と言って、イルミは固まるなまえを正面から見つめた。

「悪いんだけど、なまえとは別れることになるよ。今日はそれを言いに来たんだよね」

残念ながら、全く理解が追いつかない。なまえは目の前にいるこの男が、本当に自分と同じ人間なのだろうかと訝った。いや、たとえ人間だとしても共通言語を解しているとは到底思えない。「別れるって……イルミ、私と付き合ってた自覚あるの……?」いっそお前とはセフレだったんだと言われた方がマシだったかもしれない。しかしなまえの問いに、イルミは不思議そうに首を傾げた。

「え?なまえとオレは恋人でしょ。だってもう、3年もの付き合いになるじゃない」
「だったらなんで……」
「なまえのことは今でも好きだよ。でも仕方ないよね」
「イルミは……イルミはそれでいいの?」
「他の女だったら適当に殺してるけど、なまえはうちの情報漏らしたり馬鹿なことしないだろ?とりあえず、事後報告になる前にちゃんと伝えようと思って」

イルミがそう言い終わるか言い終わらないかのうちに、ぱしっ、と乾いた音が響いた。

「……帰って」

きっと彼の目には、なまえが腕を振りかぶる瞬間もよく見えていたことだろう。それなのにわざわざ平手打ちを食らったのは、彼なりの贖罪か。もしそうだとしたらとことん人を馬鹿にしている。

「わかったよ。でも、そういうことだから」
「……」
「じゃあね、なまえ」

いつもふらっとやって来てふらっと帰るくせに、今日だけは律儀に挨拶をして帰っていく。いや、帰っていくのではない。もう彼はここにこないのだ。なまえとイルミはたった今この瞬間から、正真正銘赤の他人になるのだ。

「……なんなの、最低……」

溢れて来る涙を拭こうにも、彼がソファーに残していったタオルは水気をたっぷりと含んでいた。

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