- ナノ -

■ 12.反芻、そして反響

一番安らぐはずだった実家には、かれこれもう二週間ほど帰っていない。
イルミはホテルのベッドに身体を横たえると、胸のもやもやを払拭するように小さく息を吐いた。

別段、家を空けるのはそう珍しいことではない。遠方の仕事や、ターゲットの動向を探るのに長期間要する場合もある。酷いときは二、三か月平気で帰らないし、その間なまえの家に入り浸るというのもざらだった。
けれども、今のイルミには遠方の仕事も長期の仕事も入っていない。怪我をして身動きが取れないわけでもないし、帰ろうと思えば余裕で帰ることができる。

それなのに、イルミは家に帰らず、わざわざホテルに泊まっていた。さすがに成人したイルミに口うるさく言ってくる両親ではないが、あまり続けると仕事でもないのにと不審がられるだろう。
特に、婚約者がいる今となっては。

――イルミ様、そろそろ式のこともちゃんと決めませんと。二人のことですのよ?

好きにしてくれと言ったのに、しつこい女だ。離れていてもあの耳障りな声が聞こえてくる気がする。
確かに元は親の勧めとはいえ、自身も諾と応えた結婚だ。だが、イルミはそんなことは全て棚に上げて女のことを忌々しく思っていた。
今のイルミは、どうでもいい女とのどうでもいい結婚式のことなんて考えている余裕はないのだ。頭の中を占めるのは、あの日見た空っぽの部屋と、クロロの隣を歩くなまえ
のことばかり。

なけなしの感情の中で、どうして、という四文字を何度も反芻していた。
どうしてなまえは引っ越したのだろう。
どうしてなまえはイルミを拒絶したのだろう。
どうしてなまえはあんな男を選んだのだろう。

別れてしまえば、すぐに愛情なんて無くなるものなのだろうか。イルミのことなどすぐに忘れて、次の男の隣で笑えるものなのだろうか。
それも、相手はあのクロロだ。知り合いとくっついた、という嫌悪感もあったが、それを差し引いてもイルミは気に入らない。行動の早さから考えて、なまえとイルミが別れる前からあの男はなまえを狙っていたということだろう。表では慰めるふりをして、内心ほくそ笑みながら彼女に取り入ったに違いない。
そう思うと、非常に腹が立った。自分でも上手く説明できないが、卑怯だ、と糾弾したくなる。

そしてもっと悪いことに、クロロではまたなまえを泣かせるだけだろう。その点ではヒソカも同類だが、自分もあの二人もまともに他人と付き合うような男ではない。せいぜい遊ばれて終わりだ。周りから見れば自分も同罪だというのに、イルミはそれが許せなかった。見る目が無い、となまえを詰りたい。

どうせ不幸になるなら、ずっとイルミのことを想っていればいいものを。

イルミは枕元に置いた携帯へ手を伸ばすと、久しく連絡を取っていなかったピエロの番号を選んだ。
八つ当たりにも近いが、なまえの相手がクロロだと教えなかったヒソカに文句を言いたくなったのだ。今のなまえの方が幸せになれるかも、なんてとんでもない。

「もしもし」

電話に出たヒソカは、どうしたんだい、といつもの調子で聞いてくる。それすらもなんだかむかむかして、イルミは自然早口になった。

「お前、なまえが可哀想なんて言っておきながら、随分と酷いことするんだね」
「……何の話かな?」
「ふーん、まだとぼける気?まさか、なまえの相手がクロロだとは思わなかったよ」

どうせこいつも腹の底であざ笑っていたのだろう。性格の悪いヒソカのことだから、クロロが手を出さなかったら自分でなまえにちょっかいをかけていたかもしれない。事実、前にそのようなことを言っていたし、はっきり言って信用度は低い。
電話の向こうのヒソカは言い訳でも考えているのか、いつになく黙り込んでいた。

「ねぇ、聞いてる?」
「聞いてるよ、でも、それでどうしてボクが責められているんだい」
「クロロじゃなまえを幸せにできないことくらい、お前にだってわかるでしょ。それなのにみすみす放っておくなんて」
「そう言われてもねぇ、なまえの決めたことだろう?それに、クロロがなまえを幸せにできないかどうかなんてわからないじゃないか」
「できないね」

結末なんて自明すぎるのに、どうしてヒソカはわからないのか。イルミが言い切ると、ヒソカは不意に笑った。その笑い方は心底おかしそうで、怒っていたイルミも一瞬毒気を抜かれる。ヒソカがどうして笑っているのかわからず、苛立ちよりも戸惑いの方が先に来た。

「ねぇ、イルミ。次にキミがなんて言うか、ボクが当ててみせよう」
「は?」
「“なまえとクロロを別れさせて”。どうだい、当たってたかい?」
「……」

イルミが返事を返さなくても、ヒソカはまた楽しげに笑った。沈黙は肯定を意味するのだから、当然と言えば当然かもしれない。

「悪いけど、ボクは手出しをするつもりはないよ。クロロが遊びだろうが、少なくともキミに捨てられて落ち込んでいた頃より、なまえは幸せそうに見えるからね」
「……本気で言ってるわけ?」
「彼女に会いに行ったんだろう?じゃあわかるじゃないか」
「もういい」
「キミはなまえを心配してるんじゃない、捨てられたのが自分だと認めたくないだけさ」

「もういいって、言っただろ!」

ホテルの部屋は無意味に広く、反響した声にイルミ自身が一番驚いた。「そうかい。じゃあ、」何か言いかけたヒソカを遮るように、通話終了のボタンを押す。

何もかもが気に入らなかった。

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