- ナノ -

■ 11.広すぎる部屋

要らないもの……か。

その言葉を聞いたとき、イルミの脳裏に浮かんだのは清々しいほど空っぽになっていた彼女の部屋だった。

まさか引っ越しているなんてつゆほども思わず、いつものように気まぐれに訪ねたなまえのマンション。イルミは自分の行動が――別れた彼女の家を訪ねることがそう悪いことだとは思っていなかった。別に下心があったわけではない。ただ、ヒソカが言ったことが本当なのか気になったのと、久しぶりになまえの顔が見たくなったから訪ねてみただけのこと。

イルミの中では、なまえと恋人ではなくなったものの、縁が切れたわけではないという認識なのだ。自分となまえは別れただけで離れてしまうほどの浅い関係ではないのだという驕りもあった。

しかし、実際はどうだろう。
返しそびれた合鍵で入った室内は、一瞬イルミの思考を停止させるに十分な光景だった。彼女の家はイルミの自室よりずっとずっと狭いはずなのに、今日ばかりはやけに広く、うすら寒い印象を与える。

そこにイルミの求めた物は何一つなかった。当然あるものとして思い切っていた彼女の姿も、気配も、声も、匂いも、なにひとつ残されてはいなかった。イルミの目の前に広がっているのはどうしようもないただの空間で、手の中の鍵は金属片としての価値しかない。

イルミはゆっくりと瞬きをした。そうしてようやく、なまえが引っ越したのだと理解した。彼女はもうここにいない。
でも、どうして?
どうして彼女は引っ越したのだろう。それも、イルミに何も告げずに、だ。

ヒソカの話が途端に真実味を帯びて来て、イルミは無意識のうちに首を振った。嘘つきのあいつのことだ。話は半分くらいに聞いていてちょうどいいくらいだろう。なまえに新しい男がいるなんてそんなはずはない。だって、まだ別れてからそんなに経っていないじゃないか。これくらいの期間なら、付き合っていた当時でも会わないことはよくあった。だからそんなにすぐに心変わりするわけがない。他の女ならともかく、なまえはそういう女ではないと自分が一番よく知っている。だからきっと何か仕事で不都合があって、引っ越しを余儀なくされたに違いない。

イルミはひとまずそう考えてそれなら仕方がない、と納得した。なまえもイルミほどではないが危ない仕事だ。急なことでイルミに連絡する余裕も無かったのかもしれない。控えめな彼女のことだから、こちらに気を遣った可能性もある。
言ってくれれば、なまえを狙う奴なんて殺してあげたのに。

「ということは、蜘蛛のところかな。なまえがオレ以外に頼れるのなんてそこくらいだろうし」

昔馴染みが団員の一人であり、同じ流星街の出身であるなまえは彼らと仲がいい。蜘蛛を見つけるのは多少手間だが、それこそヒソカあたりにでも聞けばおおよその場所はわかるだろう。

こうして、イルミはなまえの居場所を突き止めるに至った。
だがその結果目の当たりにしたものは、当たり前のようになまえの隣に立つ男と、自分はあの空っぽのマンションに唯一置き去りにされたものなのだという現実だった。

△▼

なまえに刺客を差し向けたのはおそらくイルミではない。

ヒソカの言葉を鵜呑みにするな、とは言ったものの、クロロは初めからそうだろうと思っていた。そして先ほど、商売用とは思えぬ殺気をぶつけてきたイルミを見て、自分の考えは正しかったのだと確信した。
もしあの男がなまえを殺そうとするなら、必ず自分の手で行うだろう。下手くそな嘘までついてわざわざなまえに会いに来たイルミが、彼女の最期を他人にゆだねるなどありえない。
普段は感情を映さぬ黒色の瞳が、今日はぞっとするほど嫉妬に濡れていた。

だが、当事者であるなまえはきっとイルミの感情に気がついていないだろう。彼女自身、突然自分を捨てた恋人が現れて、他人の感情を察する余裕などあるわけもない。しかも振った側の人間が振られた側の人間をまだ愛し、嫉妬しているなんてそんな馬鹿なこと思いつくはずもないだろう。

別れを告げた瞬間からイルミは加害者で、なまえは被害者だ。
その意識があるからこそ、イルミは自分を傷つけるものだという思い込みが働いているし、それは容易に覆らない。

イルミに会った瞬間のなまえは確かに困惑し、怒ってもいた。だが同時に恐怖もしていた。物理的にしろ、精神的にしろ、これ以上傷つけられたくないというなまえの声にならない叫びが聞こえてきたような気がした。


「あの……クロロ、」

控えめにノックされた扉。
考え事に没頭していたクロロは、ややあって返事を返す。扉を開けたまま入ってこないなまえはどことなく気まずそうな顔をしていた。

「どうした」
「あの……さっきはごめん、ありがとう」
「あれくらい気にするな」

礼を言いに来ただけにしては、どうにも歯切れが悪い。まだ他に何か言いたいことがあるらしく、彼女はその場を動かなかった。

「えっと、助けてもらったのもなんだけど、たぶんイルミに誤解された気がするから……」
「あぁ、だろうな。そのつもりだ」
「そのつもりって、いいの?イルミの殺気、見たでしょ?目的の邪魔になるものには容赦しないタイプだよ、彼」
「目的とは、お前を殺すことか?」

わざと意地悪な質問をぶつけてやれば、途端になまえの目は泳ぐ。

「……うん。荷物取りに来たなんて絶対嘘だろうし」

やはり、イルミが自分の命を狙っているのだと思いきっているらしかった。

「俺は誤解されても問題は無い。逆に、俺の女だということにした方があいつも手を出しにくいんじゃないか」
「それはそうかもしれないけど、でも、」
「あいつに節操のない女だと思われるのは嫌か?」
「っ、そうじゃない」
「なら、嘘でも俺の女になるのが嫌なのか?」

クロロの言葉に、なまえはわかりやすく目を見張った。「そうじゃないよ」

「なら何の問題もないだろう。お前はさっさと幸せになって、あいつを見返してやればいい。間違っても迷惑をかけたくないからなんて言って、ここから出て行こうとするなよ。自殺行為だ」
「……クロロにはなんでもお見通しだね」
「なまえの考えそうなことくらい嫌でもわかる」

クロロがそう言い切ると、なまえは困ったように苦笑する。訪ねてきたときの気まずそうな表情はもう消えていた。

「ほんとに、色々とありがと。じゃあおやすみ」
「あぁ」

ゆっくりと扉が閉められる。おやすみ、と言われて、もうそんな時間だったのかと気づかされた。

「それにしても……」

鈍い奴だな、とクロロはひとりごちた。こっちはなまえのことがわかるのに、どうやら向こうはちっともわかっていないらしかった。

[ prev / next ]