- ナノ -

■ 09.遅れて来た感情

ヒソカから聞いたイルミの近況は、”非常にうまくいっている”というものだった。
今更何が、なんて聞くまでもない。予想はしていたが、同時にほんの少し期待もしていた。流石によりが戻るとまでは思っていなかったが、イルミはそう簡単に他人に心を許したりしないと思っていたのだ。

だが、ヒソカの話ではイルミはその婚約者と上手くいっているらしい。暗殺者同士だから話が合うのか、はたまたその女性がとてつもない美人だったのか、どちらにせよイルミはその女性と結婚することに満足している。その事実は命を狙われていると思った時よりも、激しくなまえの心を傷つけた。

「……なによ、ほんと馬鹿みたい……」

自惚れていたと言われれば、まさにそうなのだろう。なまえは心のどこかで、イルミと上手くやっていける人はそうそういないだろうと高を括っていたのだ。でも現実はそうでなかったらしく、なまえは所詮代えのきく人間だったということ。
本当に自分が馬鹿だとしか思えない。せっかくここしばらく泣いていなかったのに、また鼻の奥がつんと痛くなる。

しかし最初に別れを告げられたときの悲しみとは、また異なる感情がなまえの胸を満たしていた。ぽろぽろと頬を伝う涙は同じでも、その唇は悔しさのため真一文字に強く引き結ばれている。

悔しかった。腹が立った。初めて、自分を捨てたイルミを恨むことができた。
そして同時に見返してやるんだ、とも思えた。もちろんそのために具体的な案があるわけではなかったが、とにかく絶対に幸せになってやると思ったのだ。
その”上手くいっている”という話が、ヒソカの意味のない嘘だとも知らずに……。


▽▼

「あ、そうだ、頼まれてたなまえのことだけど」

こっちは初めからその話をしてもらうつもりで、今日の仕事のサポートをヒソカに依頼した。だが、仕事が終わってもそれらしいことを一向に言い出さないので、いい加減イルミも焦れていた頃だ。これが他のことなら会うなり聞けるのだが、流石にどうも言い出しにくい。そんなイルミの想いもわかっているだろうに、ヒソカは帰りの飛行船の中で、まるでたった今思い出したと言わんばかりにわざとらしく声をあげた。

「聞きたい?後悔するかもしれないよ」
「そういうの、ほんといいから」

勿体つけられればつけられるほど苛立ちは募っていく。生憎、イルミはそんなに気が長い方ではないのだ。
遠慮のない殺気を向けられたヒソカは肩を竦めて見せると、心配ないよとだけ言った。

「心配ない?どういうこと?」
「なまえは自殺してなかったし、むしろ元気にしてたね」
「そう」
「なまえもキミといるより、今の……まぁ、幸せになれるんじゃないかな」
「……今の?」

そんな妙にぼやかした言い方をされて、気にならないわけがない。当然のように聞き返したイルミにヒソカは曖昧な笑みを浮かべた。

「もういいじゃないか、なまえのことなんて」
「……なまえにはもう他の男がいるわけ?」
「キミの言えたことじゃないだろう」
「オレは、オレのは別に──」

弁解をしかけたイルミは、ヒソカの呆れたような視線にその後の言葉を見失った。たとえ愛情が無くとも、自分が結婚するという事実は変わらない。その時点でもうイルミがなまえの恋愛に口を出す権利はないのだ。けれども、いくら頭ではわかっていてもなまえがすっかり自分を忘れて楽しくやっていることが許せなかった。

「……なまえじゃ、無理なんだよ。うちは暗殺一家だから」
「そんなの初めからわかってたことじゃないか」
「……」

まったくもってその通り。イルミだってそれを承知で3年も付き合っていたのだ。酷い話だがこちらには初めからなまえとは結婚する気などなかった。彼女が家業にそぐわないことも知っていたし、いつかの別れは想定内。だからこそ、婚約者が決まってすぐに別れを切り出した。

だが、本当に何もかも想定内と言えるだろうか。自分は結婚相手にさほどこだわりは無かった。そもそも夢も理想も抱いていないし、肝心なのは家の為になるかどうかだけだ。だからその基準で言うならば、今の婚約者はそれなりに条件をクリアしている。多少煩いことを除けば問題は無い。少なくとも、条件だけで言うならなまえよりずっと適している。

けれどもイルミは、ここまで来てようやく一つ誤算があったことに気が付いた。
まさかここまで自分がなまえに執着しているとは思わなかったのだ。

「キミさぁ、ほんとはなまえのことまだ好きなんだろう?」
「……だったら、なに。どのみちなまえとは結婚できないよ」
「あぁ、そう」

ヒソカは短く相槌を打っただけだった。
飛行船が着陸態勢に入る。ちょうど話も途切れて、解散には都合がいい。


「まるで悲劇のヒロインごっこ、だね」

降り際に放たれた言葉の意味に、イルミは黙って耐えるしかなかった。


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