- ナノ -

■ 38.きっと、解けてなくなる

なまえとイルミの婚約話はやっぱり嘘だったらしい。

家出から帰ってきた弟からその話を聞いて、まぁそうだろうなとミルキは思った。元からあの色々と欠落したところのある兄が、誰かと想い想われてという事態になることが想像できない。お家柄打算で政略結婚することはあっても、兄が選ぶにはなんの後ろ盾もないなまえは少々メリットに欠けるはずだった。キルアを家に縛る道具としても役立たないことが判明した今、婚約話が嘘だと発表されるのも実にわかりやすい。

それからキルアは、結局ライセンスを取らずに帰ってきたとも話した。まぁそれは正直イルミが妨害したのだと察しがついたが、腹の傷の恨みもあるミルキは盛大に不合格を馬鹿にしてやった。
しかし予想に反して、キルアはいくら煽ってもつっかかってくるようなことはなかった。イルミにこってり絞られて落ち込んでるのかと思いきや、別にそういう風でもない。それどころか信じられないことにミルキとキキョウに謝って、自ら反省のために独房に入ると言い出したのだ。
ミルキにしてみれば、弟の考えが読めずに気持ち悪くて仕方がなかった。

気持ち悪いと言えば、兄のほうもそうだった。イルミは試験後そのまま仕事に向かったらしく、帰宅したのはキルアが家についてからさらに三日後。
こちらは普段通り家族に嘘をついていた件についての反省はほとんど見られなかったが、なまえに対する態度というか、雰囲気というか、うまくは言えないがとにかくがらりと変わったのだ。
もともと親の前では親密そうに装っていた二人だが、人目がなくなれば空気をぴりぴりさせていたのは知っている。面倒事を避けたミルキはあえて介入しなかったものの、明らかになまえのほうもイルミを嫌っていたはずだ。

それなのに今の二人には、前のように不自然な仲の良さも険悪さのどちらもなかった。婚約話は嘘だと明かされた今のほうがむしろ、婚約していると言われても信じられる距離感だ。特に、イルミの側の執着が露骨だった。いつもは見合いを勧められても仕事が忙しいとうそぶいて顔すらみずにお断りしていたくせに、今は仕事から帰るなりすぐなまえだ。おそらく当初の監視とは別の目的で、イルミが不在の間の彼女の行動をミルキは逐一報告させられている。どうやって手に入れたのかは恐ろしくて聞けないが、今の兄の待ち受け画面がキルアとなまえのツーショットなのも衝撃だった。

そして、イルミがおかしいのはそれだけでない。
試験でできたという、キルアの自称“トモダチ”が敷地内にまで来ていると聞いても、特に妨害する素振りをみせなかったのだ。かといって歓迎している風でもないけれど、話を聞いてもふぅんと言ったっきり。今までの兄貴からすれば考えられない態度である。

蓋を開ければキルアの家出をきっかけにして、ミルキの知らない間に周りの人間が一変してしまっていた。これはもう、UMAの仕業を疑ったり、オカルト板に出張して教えを請わなければならないレベルである。
とりあえず考えれば考えるほど腹が減るため、ミルキは脳みそが求める糖分を探しに、ついでにお清めの塩を調達しに、やむなく自分の城から出ることにしたのだった。


「ものすごく険しい顔してるけど……どうしたの?」

しかし、噂をすればなんとやらだ。
自室を出て幾ばくも行かないうちにばったりとなまえと出くわして、ミルキは少し警戒する。今のところ付き合いの長い兄弟たちの変化のほうが顕著に感じられたものの、彼女もまた急に変わったうちの一人なのである。
第一、今のこの家でのなまえの立場は一体何になるのだろう。婚約話は嘘だったと知らされても、キキョウは欠片ほども諦めていなかった。お陰でなまえは今日も当たり前のように花嫁修業をさせられていたらしく、ちょっぴり袖のあたりが焼け焦げている。
だが過酷なはずの訓練とは対照的に、彼女の表情はとても明るく、不思議なくらい幸せそうに見えた。

「……わかんないことだらけなんだよ」
「わかんないこと?」

キルアは独房に入ってしまったし、イルミに聞くのはもってのほかだ。となると後は、なまえくらいしか聞ける相手がいない。そのなまえもイルミに囲われているし、修行は忙しそうだしで、これまでなかなか二人になる機会がなかった。ミルキが部屋を出た当初の目的はお菓子だったのだけれども、ちょうど疑問をぶつけるチャンスなのではないだろうか。

「試験から帰ってきて以来、キルアもなまえもイル兄もさ、みんな変だよ。一体、何があったんだ?」
「うーん、色々かな」
「その色々を聞いてんだろうが……」

返ってきた答えにミルキは思わず半眼になるが、なまえも別に誤魔化そうとしているわけではないらしい。本当に色々なことがありすぎて、上手く説明できないと言うのだ。ひとまず、彼女らが自分の変化を自覚しているとわかったので、そこはミルキもほっとした。

「たぶんね、変わったように見えるのは、みんな自分の欲しいものを見つけたからだと思う」
「は?」

欲しいものと言われて、ぱっとミルキの脳裏に浮かんだのは限定物のフィギュアやら新型のグラフィックボードを搭載したパソコンだったが、他の三人が何を望むのかなんてこれっぽっちも想像がつかない。かろうじてキルアが友達を欲しがっているのは知っていたけれども、それなら自分から独房に入って今も大人しくしているのは妙な話だ。試験で知り合った人間たちがここまで訪ねて来ている話は、キルアにだって伝わっているのだから。

「キルアとなまえの欲しい物もそうだけどさ、イル兄の欲しい物なんてもっと謎だぜ。イル兄に欲しい物とかあるのか?その気になりゃ、なんだって買えるだろ……」

ミルキは仕事人間という言葉が相応しい兄の姿を思い浮かべ、ますます難しい顔になる。イルミには趣味らしい趣味もなさそうだし、たまに家にいてもキルア達の訓練にかかりきりだし、使う当てもないのにあんなに稼いで一体どうするつもりなのかと思っているくらいだ。
しかし、ミルキのぼやきを聞いたなまえはようやく答えられる質問が来た、と口角をあげると、重大な秘密を打ち明けるようにわざとらしく声を落とした。

「私なんだって」
「へ?」
「イルミは、私に家族になってほしいんだって」
「……は?」

開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだろう。聞こえてきた言葉が信じられなくて固まるミルキに、なまえは悪戯が成功した子供のようにくすくすと笑った。そのせいでからかわれたのかと思ったが、なまえの発言をただの悪い冗談であるとは切り捨てられない。
というのも、なまえを探してこちらにやってきたと思われる、イルミの姿を右目の端に捉えたからだ。
普段の無表情もどこへやら、一目でそうとわかるほど苦い、苦い顔をした兄の姿を。

「……なまえ、」
「なに?」

声をかけられて視線を向けたなまえは、イルミの存在に気付いていたようだった。堂々とした態度の彼女と、否定もせずに何とも言えない表情になった兄を見ていると、いよいよ先ほどのなまえの発言が信憑性を増してくる。

「馬鹿じゃないの」
「んー、なにが?」
「もう黙って」

普段威圧的な態度の兄が、こうして誰かに主導権を握られているのは見たことなかった。黙れ、と短く命令することはあっても、きまり悪そうに黙って、と頼んでいるのはありえない。「私はほんとのこと言っただけなのに」どうやら、新しい関係は完全にイルミ側の一方通行らしい。これまで散々甚振られた分、なまえは甚振り返すつもりでいるのだろうか。

ミルキは全てを知っているわけではなかったが、敵対した時の兄の容赦のなさを知っているだけに、今のこの状況は兄の自業自得なんだろうなと思った。今更と言っていいほどの好意を向けられたなまえが、嫌悪感を示していないようなのは内心で驚いたけれども。

「……ふぅん、そっちがそういう態度取るなら、もう一緒に寝てあげないから」
「なっ!ちょっと!」

が、どうやらイルミもただやられっぱなしといわけではないようだ。
誤解されるようなこと言わないでよ、とぱっと赤くなったなまえは、勘違いするなと言わんばかりにミルキに視線を向ける。その表情は怒りよりも、どうみても羞恥の方が上回っていた。「イルミのそういう、自分に都合よく解釈するとこもほんとに嫌い」口ではどんなに悪く言おうとも、その声音には敵意ではなく、気安い家族に向けるような親しみがあった。
確かに二人の空気が変わったことには気づいていたが、まさかここまでとは……。

「……はぁ、あほらし。惚気はどっかよそでやってくれよな」

この際勘違いであろうが、二人が間違いを犯そうが、もはやどうでもよかった。とにかく全て丸く収まってもう胃の痛くなるような思いはしなくていいんだということさえ分かれば、兄弟の恋愛事情など知りたくもないのだ。

「違う!違うから、ちょっとミルキ!」
「あーはいはい。俺は腹が減ってんだよ」

その日、どこか遠い目をしながら廊下を徘徊するミルキの姿が、執事たちの間で目撃されたとかされなかったとか。
次兄の彼が部屋から出るのは珍しい事なので、その真偽のほどは不明である。

▽▲

「……なんだ、結局なまえもイル兄から逃げられなかったのかよ」

石でできた地下への階段は、足音を立てないようにするのが難しい。鎖に繋がれ、吊り下げられた格好のキルアは、なまえが独房へと足を踏み入れる前からその訪れに気付いていたらしかった。

「そうみたい」

キルアがここに入っているのは、本人の意思であると聞いた。本当ならもっと早く様子を見に行きたかったのだが、一応イルミとの婚約を解消して宙ぶらりんな立場のなまえでは、罰を受けているキルアに気軽に会いに行けなかったのだ。そのため今回、こうして足を運ぶことができたのは、”キルアの様子を見に行ってやってくれんか”というゼノの取り計らいがあってこそだった。

「調子はどう?」
「最高だね。絶好調だよ」

気絶してしまったなまえは彼とイルミが最終試験でどのようなやり取りをしたのか知らなかったけれども、比較的元気そうなキルアの表情に少しホッとする。憎まれ口を叩けるくらいだ。心を閉ざしてしまうような事態は避けられたらしい。「イルミに、友達が欲しいってちゃんと言ったらしいね」核心に触れてみても、キルアは穏やかな、それどころかむしろ満足そうな顔をしていた。

「……まぁね、否定されたけど」

もっと、全てを諦めたような瞳をしているかと思っていたのに。
もっと、苦痛や絶望の張り付いた表情をしているかと思ったのに。

なまえは自分の予想が裏切られて、それだけで酷く安堵した。その身に付けられた傷の痛々しさには眉をひそめたくなるものの、ゾルディック家におけるこの仕打ちを虐待と一口に言ってしまうのは躊躇われる。それは花嫁修業と称して様々な訓練を受けさせられているなまえだからこそ、”必要なこと”もあるのだ、と理解しているからだった。

「急に肯定されても気持ち悪いでしょ」
「はは、それは言えてる」

キルアにはキルアの考えがあるように、イルミにはイルミの考えがある。キルアの置かれた境遇を可哀想だと言うのは簡単だったが、ゾルディック家という特殊な事情を考慮すれば友達が不要だと言うイルミの教えも一理あった。
そもそもそのイルミの考え方だって、誰かが小さい頃の彼に教え説いたものなのだろう。

「で、否定されて、キルアの気持ちは変わった?大人しく家に帰ったのはそういうことなの?」
「いいや」

はっきりと否定を返したキルアには、彼が最終試験前に見せたような不安定さは微塵もなかった。もっと言うと家出をした頃のキルアと比べて、随分と心が自立したのではないかと思う。

「俺は今でもゴンと友達になりたいって思ってるよ。だから、」
「今は会えない、なんて伝言したんだね」
「あぁ」

ゴンたちがゾルディック家にやってきているという話は、イルミ経由でなまえも聞いていた。というか、彼らにこの家の場所を教えた張本人がイルミらしい。イルミがゴン達を害するつもりなら、なまえが彼らを追い返すつもりだったが、イルミも他のゾルディック家の人たちも拍子抜けするくらい手を出そうとはしなかった。

「今の俺にできる最善は、関わらないことだからな。来てくれたのはすっげー嬉しかったけどさ、今の俺じゃ皆を庇ってやれねーし」
「別にゴンは庇ってもらうつもりなんて無いと思うけど」
「そうは言っても、実際兄貴にも親父にもゴンは勝てないじゃん」
「そのシルバさんがさ、ゴンたちに手を出すなって言ってるって、知ってた?」
「へ……?」

ぱちぱちと目を瞬かせたキルアはやはり何も知らなかったらしい。イルミも、あのキルアを溺愛しているキキョウも本音で言えば”トモダチ”なんて排除したくてたまらないだろう。末弟のカルトだって、キルアに家を出てほしくないと強く思っている。本当ならばキルアを迎えに来た”トモダチ”なんて目障りでしかないはずだった。
だが、それらの感情は全て、シルバの判断で押さえ込まれている。キルアに“レール”通りの生き方をさせようとしたのも、キルアの“トモダチ”を見逃しているのも、どちらも同じシルバの行動なのだ。

「イルミに言ったみたいにさ、シルバさんにも望みを言うだけ言ってみたらどうかな。私からするとここの家族って、すっごく水臭く見えるんだよ。別に想い合ってないわけじゃないのに、それぞれ大事に思ってるのに、皆すれ違ってるように見える」

キルアを囲い込もうとするのも、歪んではいるが愛情だろう。キルアに代々続いてきた誉れ高き家業を継がせたいと思うのも、親心だろう。
キルアは自分が人殺しの道具扱いされていると感じているみたいだが、本当に道具として産み落とされたなまえからすればわかりにくいだけで愛情は注がれていると思う。少なくともキルアの両親は、キルアのささやかな成長を喜んでくれそうだ。刺されて喜ぶくらいなのだから、多少のことは反抗期が来たと感慨深く思ってくれるに違いない。

「ま、どうせ、親父には今回のことで申し開きしなきゃなんねーし……」

キルアはなまえの話を聞いてもまだ半信半疑のようだった。が、あるかもしれない父親からの愛情に、ほんの少し照れくさそうな顔になる。きっと、彼は強制された“レール”が嫌なだけで、家族自体のことは憎んでは無いのだろう。殺し屋という仕事をしていても、父親のことは心の中でちゃんと尊敬している様子だった。
だから勇気を出して向き合ってみれば、知らない間にできてしまっていたわだかまりも解けてなくなるのではないか。

「ていうか、なまえこそゴンたちに会いに行かねーの?俺は無理でも、なまえならその気になれば旅に出ることだってできるだろ。婚約も解消できたって聞いたし」
「えっと……ごめん、私には私の優先順位があるから」
「優先順位?」

首を捻ったキルアに、自分の変化を話すのは少し恥ずかしい。偉そうなことを言っておきながら、なまえの中のわだかまりも最近になって少し解け始めたばかりなのである。
なまえは自分でもどうかしているなと思いつつ、口元が緩く弧を描くのを止められなかった。

「……あのね、実はこのままいけば私の望みも叶いそうなの。だから、キルアが私の分も元気ですって皆に言っておいてよ。夢遊病も治ったってクラピカに伝えて」

夢遊病、となまえが自分から口にしたことで、キルアはものすごく驚いたようだった。無理もないと思う。以前にその話題を振られた時は、とてもじゃないがこんなあっさりと認められなかった。
この発言でなまえにも何かしら心境の変化があったのだと察してくれたらしいキルアは、吊られながらも器用に肩を竦める。もうそれ以上なまえをこの家から救うために、旅に誘うようなことはしなかった。

「なんだよ、俺をパシるつもりかよ」
「弟ってのはね、姉にこき使われる運命なんだよ」
「……しょうがねーな」

ぼやいたキルアは身を捩ると、よっ、と繋がれていた鎖を簡単に引きちぎる。手枷も足枷も玩具みたいにあっさり壊されて、改めて誰も彼を縛ることはできないのだと思わされた。

「じゃあ、俺行くよ。ひとまず、親父と話に」
「うん」
「その……色々サンキューな、なまえ」



――行ってらっしゃい。


キルアと最後に交わしたやり取りを思い出しながら、なまえは自室のバルコニーからゾルディック家の広大な敷地を見下ろした。もちろん、本邸からでは執事邸の屋根すら目視できなかったが、今頃キルアはゴンたちに会えただろうか。

「なまえが唆したんだろ」

自分の家のゲストルームは出入り自由だとでも思っているらしく、当たり前のようにソファで寛いでいたイルミは、少しばかりの非難の色を滲ませて呟いた。けれどもその声にはこれまでのような敵意や苛立ちはなく、むしろ拗ねているような響きすら感じられる。キルアが出て行ったこと自体もそうだが、未だになまえが姉ぶってキルアを気にかけるのも面白くないらしい。

「最終的に許可を出したのはシルバさんだよ」

結局、父子の話し合いを通して、キルアは自由を勝ち取った。なまえに様子を見て来いと言ったゼノのほうも、キルアが外の世界に触れることには賛成だったらしい。
立ち上がって同じようにバルコニーへと出てきたイルミは、なまえの反論には何も言わなかった。ただ黙って隣りに立ち、見えるはずのない弟の姿を、果てしなく続く深緑の中から見つけ出そうとしているように見えた。

「……なまえこそ行かなくてほんとによかったの?」
「私は友達よりも、家族を優先したいから」
「なまえが命を張れるぐらい大事な家族ってキルアだろ。一緒に行こうって誘われたんじゃないの?」

先ほどよりもずっと拗ねたような響きが強くなって、なまえは景色から彼へと視線を向ける。相変わらず彼は正面の森を睨みつけるようにして前を向いていたけれど、その横顔を見たなまえはまたひとつ、わだかまりが解けていくのを感じていた。

「家族になってほしいって言ったのは、キルアじゃなくてイルミでしょ」

イルミに”羨ましかった”と言われたとき、もしかするとこの人も自分やキルアと一緒なのかもしれないと思った。ただ、なまえやキルアが道具扱いから逃げようとしたのに対して、道具でいいから存在理由があることに固執した結果が今のイルミなのではないかと。

あの時は突然すぎて吐露された感情を信用できなかったけれど、今ならなんとなく自分達が似たもの同士だったのだと理解できる。そして互いの欠落を埋め合える可能性に、小さな喜びも感じていた。
なまえにとってもイルミは、初めて”なまえをなまえとして”家族に望んでくれた相手だったのだ。友人に気に入られるための道具でも、あの母親の娘としてでもなく、ただのなまえとして望まれたことが泣きたくなるほど嬉しかった。

「じゃあ……」
「これは取引だよ、イルミ。私の望みを叶えてくれるなら、イルミの望みも叶える。そのほうが私たちにはわかりやすいでしょ」
「なるほど、それもそうだね」

イルミは珍しく口元を緩めると、それからにわかに生き生きとし始めた。「だけど取引なら、改めて条件をはっきりさせる必要があるね。隠し事があるまま交渉なんてしたって無意味だし」そう言った彼は話の途中だというのに、すたすたと歩いて室内へと戻る。何事かと驚いて追いかければ、彼は部屋に備え付けられたクローゼットの前で立ち止まっていた。

「イルミ、」
「オレはね、一番がいいんだ。なまえの家族の中で一番になりたいってのが、本当の望みだとしても呑んでくれる?」
「……今度の指輪に、あんなふざけた神字を彫らないならね」
「その代わりもう二度と、なまえもオレに偽物なんか使わないでね」

イルミがクローゼットの扉を開くと、中から”なまえの本体”がぐらりと倒れるようにして飛び出してくる。それをなんなく抱きとめた彼を見て、なまえはとうとう観念することにした。他の誰にも気づかれなかったのに、イルミだけが気づくというのならもう仕方がない。
なまえは泣き笑いのような笑みを浮かべると、参ったと言う代わりに二人に相応しい言葉でもって返事した。

「いいよ、交渉成立だね」



遠いパドキアの山のお城には、お姫様と王子様が住んでいるらしい。
母親から聞かされていた話と現実は随分違っていたけれど、なまえはそれでもここ以上に幸せなところはないだろうなと思った。

大切な家族と暮らす、このパドキアの山のお城以外には。

End

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