- ナノ -

■ 37.鏡映のモノポリー

仕事を終えて、飛行船に乗り込んで、まず真っ先に向かったのはなまえの部屋だった。
いつでも逃げられるように自分で手錠の鍵を渡したくせに、焦燥感を募らせているなんて本当に馬鹿げていると思う。
それほど手放したくないのなら、確実に拘束してしまえばよかったのだ。

だがいくらイルミでも、なまえに快く思われていないことくらいはわかっているつもりだった。初対面からあれほどわかりやすい敵意を向けられて気づかないのは妙な話だし、その後の関わりを通して彼女の態度が軟化したようにも思えない。
それでも、今回は無理矢理言うことを聞かせるのではなく、なまえの意思で望んでほしいと思った。眠っているときのなまえみたいに、なまえのほうからイルミを求めてほしかった。

「ただいま」

勢いよく扉を開けて帰宅を告げても、当然ながら返事は戻ってこなかった。ベッドは当たり前のようにもぬけの殻で、それを見た途端、イルミは言葉にできない脱力感に襲われる。

やはり彼女は逃げたのだ。いくら飛行船とはいえ、停泊のタイミングがある。その気になれば逃げられないことはない。

この状況は予想していたし、逆の立場ならイルミだってそうしただろう。頭ではわかっているのに、どうしても失意が隠せない。脅すのでもなく、従わせるのでもなく、生まれて初めて真剣にぶつかってみた結果だからだろうか。なんでも解決できる針が便利すぎて、今更それ以外の方法で他人の気持ちをどうやって自分に向ければいいのかわからなかった。

(……冷たい。)

往生際悪く、触れたベッドはとっくに温かみを失っていた。それがどうしようもなく苦しくて、イルミはそこへごろんと横になる。なまえを諦めたくはなかった。だが、イルミに提示できる条件は全部示したし、なまえの望みだって同時に叶うのに、それでも逃げられるなんて相当な嫌われようだ。自嘲するしかない。
これまで母親に勧められた結婚話を断ってばかりだったイルミとしては、自分が振られる身になってやりきれなさでいっぱいだった。望んだ相手に拒まれるということが、こんなに苦しいなんて知らなかった。

「そこ、私のベッドだから退いてくれる?」

けれども不意にがちゃりと扉が開いて、驚いて起き上がった視線の先にはなまえが立っていた。予想外の彼女の登場に、困惑と嬉しさと、少しの気まずさを感じてイルミは乱れた髪を撫でつける。「……まだいたんだ」恥ずかしい姿を見られたな、とは思ったが、この期に及んで取り繕うのもかえってみっともないかもしれない。どうせ好感度はマイナスに振り切っている。これ以上、下がることはない……はずだ。

「いて悪かったね」
「ううん、安心した」

半ばヤケになって素直に返せば、なまえの表情がわかりやすく歪んだ。ただそれは不快感ではなくて、どちらかと言えば居心地の悪そうな表情に見える。
彼女は諦めたようにため息をつくと、後ろ手で扉を閉めて、ゆっくりこちらに近づいてきた。

「ほんとあなたってなんなの」
「……なまえはオレのこと嫌い?」
「うん」

取り付く島もない即答に、イルミは言葉を詰まらせる。色よい返事は期待していなかったものの、もう少し言葉を濁してくれてもよかったのではないだろうか。
イルミがベッド、なまえがそのすぐ傍の椅子に腰かけるという状況は、先ほどとまるきり場所が逆転したものだった。

「でも、試験中イルミと一緒だったらよく眠れたよ。四次試験とか一週間もあったし……それはちょっとだけ感謝してる」
「……気づいてたの?」
「もしかしてそうかなって思って言ったけど、今確定しちゃったから最悪な気分」

最悪だと言ったわりに、なまえは酷く落ち着いているように見えた。最初の、トリックタワーのときのように取り乱すこともなければ、イルミに向かって逆切れするようなこともない。
彼女は目を伏せると、ややあって躊躇いがちに口を開いた。

「……イルミこそ、私のこと嫌いなんじゃなかったの」
「嫌いだったよ」

一体いつから嫌いで、いつからその感情が裏返ったのかはイルミ本人ですらもはっきりとしない。だが少なくとも不快感が確かな形を持ったのは、自分の家族と楽し気に過ごすなまえの姿を見てからだった。
キキョウと親密にお茶を飲み、弟たちにも当たり前のように慕われて、キルアの教育においても認められて。

「オレの家族を奪おうとするなまえが憎かった」

このままいけば、自分の居場所が盗られるかもしれないと危機感を抱いた。ゾルディック家が大事だったのもそうだが、その大事なものを丸ごとそっくり奪われるのが嫌だった。

「オレもたぶん……なまえが羨ましかったんだと思うよ」
「え?」
「なまえのことは監視させてたから、うちでどんな風に過ごしてたのか、ビデオの映像を見たんだ。なまえはオレよりも姉弟きょうだいだった。母さんにも頼られてたし、父さんやじいちゃんもなまえのことを受け入れてた」

なまえはイルミが家族に大切にされていると言った。確かに、彼女の境遇と比べるとそうなのかもしれない。けれども大切にされているのはこれまでのイルミの努力があっての物だ。その努力をもってしても、後継者はイルミではない。とっくの昔に納得はしているけれど、今はむしろキルアに家を継がせることが使命だとすら思っているけれど、ゾルディック家の子供たちの中には暗黙の優先度が存在している。

血の繋がりはないけれど家族の振る舞いをしていたなまえと、血こそ繋がっているものの責任や柵で雁字搦めのイルミの、一体どちらを羨ましがるべきなのだろうか。互いを妬んで、幻の立場を必死になって奪い合っていた二人は、実は似た者同士だったのではないだろうか。

「そんなこと思ってたの?イルミの方が本当の家族なのに?」

なまえは信じられないとでも言うように大きく目を見開いたが、内心ではイルミもひどく驚いていた。自分の奥底に仕舞い込まれていた気持ちを、こうして言葉にする経験などなかったのだ。これまで形を持たなかったもやもやとした感情が、すとんと胸に落ちて妙に納得する。
なまえは難しい顔で少し考え込んだあと、イルミを窺うかのようにまっすぐと視線を合わせてきた。

「あのさ、イルミ……私やっぱり、すぐにはイルミのこと好きにはなれない。殺されかけたり、脅されたり、利用されたりしたこともそうだけど、キルアに対する行動とか考え方とか全然共感できない」
「みたいだね。散々邪魔されたし、それはよくわかってるよ」
「イルミのしていることが、家や家族のことを考えた行動だってのはこれでも理解してるつもり。だけど私はイルミからすればきっと、キルアの教育の邪魔にしかならないよ。それでもいいの?」

いいも悪いも、イルミは初めから決定権を持たない。今回のキルアの家出だって最終的に沙汰を下すのは父親だし、イルミは決められたそれに従うだけだ。ゾルディック家を繋いでいくことが、陰からそれを支えるのがイルミに与えられた使命だから、仮にもし他の弟に白羽の矢が立つようなことがあれば、今度はそちらに注力するだろう。

そういう意味では、なまえのほうが余程家族を”個人”として大事にしてくれているのだろうと思った。家族に受け入れられるなまえも羨ましかったけれど、なまえにそうやって想われる家族もイルミは羨ましかった。その何百、何千分の一でいいから、イルミにも愛情を向けてくれればいいのに、と思っていた。

「……なまえは最終試験で命を張れるくらいキルアのことを家族だと思ったんだろ?」
「……」
「逆に言えばそれで十分だ。なまえがオレのことを嫌いでも、オレの大事なものを大事にしてくれるのならそれでいい」
「ほんとに?」
「……できれば、オレのことも同じように思っては欲しいけどね」

最後の最後で、小さな嘘をついてしまった。
本音を言えば一番がいい。使命を持ったイルミではなくて、ただのイルミとしてなまえに感情を向けられたい。ゾルディック家の名には興味がなく、純粋にゾルディックの家族を愛してくれるなまえだからこそそれができるのだと、キルアの懐き具合を見ていればよくわかった。だが、

「それは無理」

現実は無情なのだ。イルミがこれまでしてきたことを考えれば、自業自得だとも言える。「……だよね」苦い想いで呟いたイルミは、ずしりと心が沈むのを感じたが、すぐになまえが屈託なく笑っていることに気が付いてぽかんと口を開けた。彼女の珍しい笑顔に、思わず見とれてしまっていた。

「そんなすぐには好きになれないよ」
「すぐには」
「でも、キキョウさんたちに何も言わずにさよならするほど、私も恩知らずじゃない。先に帰ったっていうキルアのことも気になるしね」
「……じゃあ、このまま一緒にうちに帰ってくれるの?」
「帰るんじゃない、行くだけ」

なまえはそこまで言うと、戸惑うイルミを無理矢理ベッドから押しのける。「まだ疲れがとれないから。着いたら起こして」簡単に言ってくれるが、ゾルディック家に帰ればいよいよなまえは逃げられなくなるだろう。それはイルミの望むところでもあるけれど、本当にいいのだろうか。仮にこれまでの全てが演技だったと告白したところで、今更あの母親が引き下がるとは思えなかった。絶対に外堀を埋めにかかるだろうし、なによりなまえはイルミ以外の家族に対しては柔らかい態度だ。強気の姿勢で断れるとは思えない。

「自分から檻に入りに行くなんて、なまえもほんとはオレのこと好きなんじゃないの」
「自意識過剰。私が好きなのはイルミじゃなくてイルミの家族」
「それはもう、オレが好きってことと同義だよ」
「全然違う」

シーツを肩まで被り、くるりと背中を向けた彼女は鬱陶しそうに耳を塞いだ。一目でそうとわかるほど拒絶の姿勢だが、それでもこの距離で完全に遮音できるはずなどない。

「なまえはオレの家族目当てかもしれないけどさ、オレはなまえと家族になりたい」

なるべく抑揚を込めて伝えれば、ぴくりとなまえの肩が小さく跳ねた。その表情はここからは見えなかったけれど、どうせ起きているときの彼女は素直ではない。
イルミはどうしようもない愛しさが、胸を満たしていくのを感じていた。

「一人で眠れる?一緒に寝ようか?」
「っ、一緒に寝るとかありえない!こっち見ないで!」

頑なに振り向こうとしない彼女は、今度は枕を乱暴にひっつかんで自分の顔面に押し当てた。その声がくぐもっているのは押しつぶされたせいか、何かを堪えようとしているからか。

「何もしないよ。ていうか、試験中のこと考えたら今更だろ。一緒に寝たらなまえのことすぐ寝かしつけてあげられるよ?」

お互いみっともない姿は散々晒したのだ。今更少しくらい弱さを見せたところで、何を幻滅することがあるだろう。
結局、なまえもイルミと同じようなことを考えたらしく、しばらくして蚊の鳴くような小さな声が聞こえてきた。

「……じゃあ、寝るまで。私が寝るまでの間、そこにいて」
「泣き出すのはいつも寝たあとなんだけど」
「今日は泣かないし、途中で起きたりもしない」
「わかったよ」

彼女の声が既に涙声だと指摘するのは、いくらなんでも野暮というものだ。
イルミは小さく肩を竦めると、飛行船に乗った時の焦燥や後悔が嘘だったと思えるほど、穏やかな気持ちで呟いた。

「ここにいるから、ゆっくりおやすみ」


[ prev / next ]