- ナノ -

■ 36.弱り目

嫌な夢を見ていた気がする。昔の夢だ。

なまえはまだうすぼんやりとする視界の中で、無意識に人の姿を探していた。それは孵化したばかりの雛鳥が、本能的に親を探すのと似ている。ただ残念ながら人間であるなまえの場合は、音を発して動く物であればなんでもいいというわけではない。

「ようやく気が付いたんだね」

焦点が定まった先に苦手な男の顔を見つけて、なまえは反射的に眉をしかめた。そうしてゆっくりと回り始めた頭で、あぁ、自分は失敗したのか、と静かに理解したのだった。

「……試験は?」

身を起こして周囲を見回せば、明らかに行きと同じゾルディック家の私用船の中だった。なまえは一応ベッドに寝かされていたものの、その左手首はベッドのフレームと手錠で繋がれている。皮肉なことに、この光景は睡眠中に悪癖を抱えるなまえにとって非常になじみ深いものだった。唯一いつもと違うのは、ここ最近ずっと目障りだった薬指の指輪がなくなっていることくらいだろうか。

「終わったよ。不合格者はキル。先に家に帰ってる」

ベッドの脇に置かれた椅子に腰かけたまま、イルミは実に簡潔に答えを返す。でも、それきりだ。普段の彼の性格ならば嫌味の一つや二つ寄越してきてもおかしくなかったのに、なまえが最終試験で取った選択に対して、何のコメントもなく黙り込んでいる。
なまえはそのことにやや拍子抜けする思いだったけれども、挑発されたところで食ってかかるほどの元気もなかった。全身が泥につかったように怠くて重いし、せっかく覚悟した死すらも阻まれて何もかもどうでもいい気分だ。

「そう……じゃあ、結局全部イルミの思い通りになったんだね」

どうせ今更強がってみたところで、なまえの敗北が覆るわけでもないのだし。
すっかり戦意を喪失してしまっているなまえはともかく、イルミを取り巻く雰囲気までもが今日は不思議と穏やかなものだった。

「……キルには余計な感情は持ってほしくなかったんだけどね、欲しいものがあるって言われたよ」
「まぁ、欲しいものくらい誰にだってあるだろうね」
「なまえにも?」
「……」

まるでこちらを見透かそうとするような黒い瞳と目が合って、今度はなまえが黙り込む番だった。つい今しがた、誰にだってあると言ったくらいなのだから、もちろん答えはYESだ。だが、肯定すればその欲しいものを聞かれるに決まっている。もうなまえは素直に欲しいものを口にできるほど、幼くもなければ純粋でもないのだ。
なまえが沈黙を守っていても、イルミは少しも気にせずに勝手に話を続けた。

「ずっと考えてたんだ。なまえが何を目的にうちにやってきたのか」
「私はキキョウさんに会いに来たんだってば……」
「そうだったね。でも本当の望みはそれだけじゃないだろ? というか人間ってのは欲張りだからさ、一つ満足したら、すぐまた次の望みが湧いてくる」
「……何が言いたいの?」

なまえの望みが何かなんて、イルミには関係ない。興味もないはずだろう。それなのにイルミは話をやめようとはしなかった。彼の声音は酷く落ち着いていて、いつもみたいになまえを甚振る意図ではないだと察せられる。
それでも、なまえは次にイルミの口から出る言葉を認めたくなくて、耳を塞いでしまいたかった。

「家族が欲しくなったんだろ、なまえ」
「……違う」
「いいや、そうやっていつまでたっても子供の病気にかかってるのがいい証拠だよ」

ちらりと手錠に視線を走らせるイルミに、なまえは何も言い返せなかった。身体が弱っているせいで、心まで弱くなっているのかもしれない。悔しさよりも怒りよりも、惨めで、情けない気持ちが込み上げてきた。そんななまえの気持ちを知ってか知らずか、イルミは呆れたように息を吐いた。

「馬鹿だね。いくら母さんに気に入られたって、本当の娘になんてなれやしないのに」

それを聞いた心臓がぎゅっと縮こまって、冷え切った肺は空気を吸い込むのをやめてしまったみたいだった。本当の娘になれるわけがないことくらい、当のなまえが一番よく知っている。わざわざ言われなくたって、痛いほど理解している。「……イルミに、何がわかるっていうの」つんと鼻の奥が痛んで、声が震えた。俯いたなまえは涙が決壊してしまわないよう、必死でまばたきを堪える必要があった。

「最初からちゃんと家族を持ってるあなたに、家族を大事にして、大事にされてきたあなたに……大事にされなかった人間の何がわかるの」
「ふぅん、それがオレを憎んでた動機? 結局羨ましかったってこと?」

流石にあんまりな言い方だと思ったが、なまえは他に取り繕う言葉を持たなかった。彼の言った通り、なまえはイルミを羨んだのだ。他にもいる彼の兄弟を妬まなかったのは、きっと彼だけがなまえをゾルディック家から排斥しようとしたからだろう。家族に大事にされているだけでもずるいのに、僅かばかりのぬくもりさえなまえに許さないイルミの姿勢が酷く恨めしかった。それほど自分の家族を愛しているのなら、その家族が気に入ったなまえに何百、何千分の一でいいから愛情を分けてくれたってばちは当たらないだろう。
イルミの言葉を認める代わりに、大粒の雫がぽたり、ぽたりとシーツを濡らす。その様子をじっと見ていた彼は、なまえの固く握りしめられた拳の上に手を重ねた。

「だったらやっぱり結婚しよう、なまえ」
「……は?」

驚きのあまり顔をあげれば、やはりそこにはいつもと変わらぬ無表情が鎮座している。イルミの手はその青白さからは想像できないほど熱を持っていて、振り払おうにも手錠で繋がれた左手では身動きがとれなかった。いや、仮に自由が利いたとしても、なまえは指先一つ動かせなかっただろう。
それくらいイルミの発した言葉は、なまえの思考力を容易く奪った。

「なに……言ってるの?」
「だって、結婚したら家族になるでしょ?なまえが憧れた家族だ。一体何の不満があるの?」
「不満って言うか、意味がわからないんだけど……言っておくけど、私にはもうキルアの足枷としての価値はない。メリットないんだよ?」
「あるよ」

間髪入れずにそう返されて、なまえは一瞬息を呑む。疲労と衝撃でただでさえ鈍くなっている頭では、突拍子もないイルミの言動を理解するのは難しかった。そうでなくても常々何を考えているのか読めなかった男だ。どうせまた、訳の分からない自分理論を展開しているのだろう。

「……確かにキキョウさんは喜んでくれるかもしれないね。もしかして、また親孝行や自己犠牲の一環?」
「違う。これはオレの望みの話」
「……」
「オレはね、なまえが魘されてるのを見て、なまえのこともっと知りたいって思った……なまえが死のうとしたとき、死んでほしくないって思った……なまえとこれまで無理矢理一緒にいて、やっぱりオレのものになってほしいと思った」

イルミの訥々とした語りを聞いているうちに、いつの間にかなまえの感情の奔流はすっかり勢いを失っていた。今では濡れたまつ毛と少し赤くなった目元が涙の名残をとどめているに過ぎず、惨めさや悲しさは綺麗さっぱり消え去っている。だが、イルミに言われた言葉を何度反芻してみても理解できず、困惑の感情を胸に、彼の顔をまじまじと見つめることしかできなかった。

これではまるで告白ではないか。

なまえがイルミを嫌っていたのは嫉妬からだが、イルミだって実際相当になまえのことを目のかたきにしていたはずだ。それがいったいどうして、どういう風の吹き回しで、こんなごく普通の男女みたいなことを言いだすのか。
混乱を極めたなまえは、かえって自分が冷静になっていくのを感じていた。

「待って。イルミの言ってること、全然わからない」
「要約すると、なまえに結婚してくれって言ってる」
「……なにそれ、なんで?」
「うーん、なんでって言われてもな。確かに今なまえと結婚するメリットは見当たらないし……母さんと父さんの例を参考にするなら、好きってことなんじゃない?」
「は?」

こんな大事なことを他人事みたいに言うなんて、一体どういう神経をしているのだろうか。なまえの方こそ訳がわからなくて困っているのに、当の本人ですら曖昧な感情だというのならどうすればいい。馬鹿にしているのかと、怒っていいものなのかすら判断に迷う。
しかし、イルミは戸惑うなまえを置き去りにして、さも素晴らしい提案をするかのように少し口調を強めた。

「なまえは家族がほしい。オレはなまえがほしい。オレたちが結婚すれば、両方の願いが叶う」
「だから、なんでイルミが私のこと欲しがってるの。ほんとに意味がわからないんだけど」
「正直、オレもだよ」
「なっ……ふざけてんの?」

やっぱりイルミはなまえをからかって馬鹿にしているみたいだ。そう判断して、なまえがまなじりを決したのも束の間――

「だけど、欲しいんだから仕方ないだろ」

ぽつりと呟かれた言葉に、喉元まで出かかっていた怒りの言葉は霧散してしまった。「……なんなの」代わりに漏れたのは、行き場のない感情をのせた吐息だけだった。

「別に、今すぐ返事をくれなくてもいい。今向かってるのも家じゃなくて仕事先だし」
「……イルミ、」
「手錠の鍵、置いておくから」

サイドテーブルに金属製の鍵を置いたイルミは、なまえが引き留める間もなく立ち上がって部屋を出ていく。今まで監視されていたことを考えると、ものすごくあっさりとした態度だった。てっきりイルミのことだから、代わりの指輪とまではいかなくてももっとしっかり拘束するかと思っていたのに。

しかしよくよく考えてみれば、ここは飛行船の中。逃げ場などないから放っておかれただけかもしれない。
一人ぽつんと残されたなまえはしばし呆然としていたが、舐められてるな、と思い至って復活してきた怒りにほっとした。かといってぶつける相手はもういないし、心も身体もへとへとだ。他にすることも思い当たらず、仕方なく目を閉じる。

そういえば眠るのが怖くないのは、随分と久しぶりだ、と思った。

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