- ナノ -

■ 35.埃を被った愛情

父親の顔は知らない。今思えばあの母親のことだからただ子供を作るために男を必要としただけで、恋愛する気も夫婦になる気もなかったに違いない。なまえの母はいつも友人の話ばかりしていた。彼女がいかに素晴らしく優秀で、うっとりするほど美しいかその話しかしなかった。
なまえが生まれた頃にはとっくにその友人はこの流星街を出てしまっていたらしいが、母の話から彼女がパートナーと結婚するためにここを出て行ったということはなんとなくわかった。

「彼女はお姫様だったから、王子様が迎えに来たのよ」

なまえの母は友人のことを語るとき、それはそれは幸せそうだった。逆に言えばそれ以外のときはいつも不幸そうだった。だからなまえはよく自分から母の友人の話をねだったし、不幸な母親を自分が幸せにしてあげようと思っていた。

「ママ、今日はこんなものを拾ったの!きっと隣町へ持っていけば高く売れるわ」
「……隣町ね、あそこには素敵なドレス店があったわ。ショーウィンドウに飾られていた青いドレスはきっとよく彼女に似合うと思うの」

生活費を稼ぐのは、もちろんなまえの仕事だった。なまえの日課は流星街に捨てられるごみの中から金目のものを探すことと、物心ついたときからやらされているよくわからない修行だ。
母親の関心がここには無いとわかって、なまえはぎゅっと手の中の宝石の欠片を握りしめた。そして気を取り直すと何度も聞いた母の好きな話題を続けることにした。

「ねぇ教えて、ママのお友達は今どこにいるんだっけ?」
「彼女はね、遠いパドキアの山のお城に住んでいるのよ」
「ママは会いに行かないの?」
「まだ駄目。だって約束したんだもの。”生まれ変わって”会いに行くわって。今のままじゃ恥ずかしくって彼女に会えないから、それまでここには来ないでって頼んだのよ」

母親はそこまで話すと、ようやく虚ろな瞳を向けてなまえを視界にとらえた。

「でも残念ね、あなたが男の子だったらよかったのに。せっかくあの男の容姿を上手く受け継いで、綺麗な顔をしているんですもの。彼女だってきっと気に入ってくれたはずだわ」
「……?」
「ところで、今日の分の修行は終わったの?」
「うん。今日はいつもより長く纏を維持できたよ」
「はぁ、一体いつまでそんな基礎やってるの?早くしてくれないと困るわ。壊したらまた一から作らなきゃいけないから、精孔もゆっくりとしか開けられなかったし」
「ごめんなさい……」

母親の言うことはときどきなまえには理解できなかった。が、肝心なのは内容ではなくそこに込められた感情だ。なまえはたとえ他言語だったとしても、母親の感情を声の温度で悟ることができるだろう。
母は怒っている。不幸だから怒っている。
それさえわかればもう十分だった。

「もう行って。それをお金に換えてきたら、もう一回修行しなさい」
「はい」
「怪我だけはしないようにね。特に、その顔に傷をつけてはだめよ」
「はい」

返事をしたなまえは、ぼろ屋を出る前にもう一度だけ振り返って母親を見た。いつも厳しいけれど、なまえが怪我をしたりしないよう心配してくれる。「行ってきます」控えめな呟きは母の耳には届かなかったのか、埃に混じって部屋の隅に積もっただけだった。


△▼


一通りの話が終わり、イルミは折れた腕をぶらりと下げたまま立ち上がる。キルアが棄権したおかげですぐに最終試験は終わったが、初心者用の講習を受けなければライセンスを受け取れなかったのだ。
基本的に真面目な性格のイルミは最前列に座っていたため、イルミが講義室を出る頃には既に半数以上が退出していた。にも関らず、「ギタラクル」と偽名のほうで声をかけてくる者がいる。

腕一本ではまだ足りないのか。
イルミは内心でうんざりしながら、待ち構えていたゴンを見下ろした。

「なに」
「キルアは帰ったんでしょ。場所を教えてよ」
「やめておいたほうがいいと思うよ」
「誰がやめるもんか」

一試合目で合格しながらその後気絶して会場にいなかったゴンは、先ほど事の顛末を聞いて講習中にイルミに詰め寄ってきたばかりだ。キルアは明らかに自分の意思で棄権したし、イルミからすれば他人どうこう言われる筋合いはないのだが、それでもゴンは納得がいかないらしい。今回の試験の合否だけでなく、キルアに望まないことをやらせている教育方針自体が許せないのだそうだ。
公衆の面前で兄弟の資格が無いとまで言われたものの、そういう目の前のゴンは所詮”自称トモダチ”である。むしろ、他人の家庭に首を突っ込む資格があるのかを問いたい。

「なまえのことだってそうだ。なまえが倒れたのもギタラクルが何かしたんだろ」
「それは既に会長たちの前で説明して納得してもらってる。あれはなまえが自分でやったことだよ」

合否についての異議申し立ては二件。ポックルの不戦勝と、イルミとなまえの不自然な試合についてだ。後者についてはなまえの合格云々ではなく、主にイルミが不正を行ったのではないかという”クレーム”だった。
しかしその件については、講習が始まる前にイルミは別室に呼び出されて説明を済ませている。念にまつわることなので他の受験者の耳に入れるようなことではないし、なまえの身柄を引き渡してもらう都合上、婚約している状況や神字の指輪についても簡単に話した。

指輪については二次試験を担当していた女の試験官からかなり派手な非難を浴びたものの、家の伝統だと言い張れば向こうは口を挟めない。念無しで試験に合格するためのいわゆるハンデであり、殺害の意図はなかった、むしろ指輪の自爆を逆手に取られてこちらが驚いていると淡々と述べた。

――でも、それって自殺しようとするくらい嫌われてるってことじゃないの!やっぱりそんな男に彼女は渡せないわ。
――嫌われてるのは認めるよ。今回のことでよくわかった。でも婚約を解消するにしても、一度うちに連れて帰って話し合う必要がある。
――そんなの、彼女が目覚めてから自分の意思で向かえばいいことでしょう。
――なまえにはうちの情報も色々知られている。きちんと話し合いや取り決めもせずに彼女が逃亡するようなことがあれば、オレはいよいよなまえを殺さなきゃいけなくなるよ?もし彼女が行方をくらませたら、ハンター協会に責任がとれるの?
――それは……
――そうだ。なまえが本当にオレと婚約しているかは、家に確認してくれてもいい。そこの会長はうちのじーちゃんとも知り合いでしょ?

イルミの言葉に、ネテロはうむ、と頷いて顎髭を撫でつけた。暗殺者でも快楽殺人者でも、実力さえあれば取れてしまうのがハンターライセンスだ。一部にはハンターを誇り高い職業と見なす人間もいるが、実際のところ正義の味方でもなんでもない。結局ぎゃんぎゃんと騒いでいた女の試験官は、不服そうな顔をしながらもネテロの決断に委ねることにしたらしかった。

――まぁ実のところ、ゼノから『今年はうちの孫二人と孫の嫁が試験を受けに行くからよろしく頼んだぞ』と先に連絡を貰っておる。だからまぁ、おぬしの言い分も丸きり嘘というわけでもないのじゃろう。

”嘘”の部分でちらりと証拠品の指輪の破片に視線をやったネテロは、あれがゾルディック家の伝統でないとわかっているようだった。しかし指摘されない以上はこちらも涼しい顔で続きの言葉を待つ。伝統でなくても、なまえとイルミの二人の問題であることに変わりはない。他人に嘴を挟まれる言われはなかった。

――じゃが、これだけは聞いておかねばならん。なぜおぬしはその”大事な伝統の指輪を壊してまで”なまえの自殺を止めたんじゃ?
――は?そんなの死なせたくないからに決まってる。
――なぜ死なせたくない?
――なにその質問……当たり前だろ、だってなまえはオレの――

イルミはその時の自分の答えと、それを聞いたネテロの面白がるような瞳を思い出してため息をついた。結果的にその答えのお陰でなまえの身柄を引き渡してもらえることになったのだが、なんだか釈然としない。これまでの自分だったなら、あそこで”なまえに死なれると不合格になるから”と、そういう答え方をするはずだった。

「はぁ……なまえのこともキルのことも、どちらもキミには関係ないことだと思うけど」

ため息の理由は別にあったのだが、イルミの態度にゴンはますますいきり立つ。強い光を目に宿し、イルミが答えるまでドアの前から動く気がないようだった。

「キルアもなまえもオレの友達だ!絶対、このままさよならなんてごめんだ!」
「それは後ろの二人も同じかい?」

背後に立つ金髪と長身サングラスも、覚悟を決めた表情でこくりと頷いた。これ以上、ここで面倒な押し問答はしたくない。

「……いいだろう。教えたところでどうせたどり着けもしないし。
 ククルーマウンテン――この頂上にオレたち一族の棲み家がある。キルはそこへ帰っているはずだし、なまえもそこに向かうよ」

別に隠してもいないし、それこそハンターを名乗るなら自分達で調べればいいと思う。「もういいでしょ」イルミがあっさりと答えたことに驚いたのか、三人は少し顔を見合わせてそれから脇に退ける。
ようやく出られた。今のイルミはくだらないことに関わっている暇はないのだ。講習の部屋を出て足早に医務室に向かおうとすれば、また目の前に邪魔な人間が立ちはだかった。

「なまえはまだ目覚めないのかい?」

それをこれから見に行くところだ、と思ったが、ヒソカはわざわざこの話をするためにイルミを待っていたらしい。折れた腕にちらりと視線が向けられるのを感じて、余計に忌々しさがこみ上げた。

「そうみたいだね。あの会長にも事情を聴かれたよ」
「話したの?」
「簡単にだけどね。なまえの身柄を引き渡してもらわないと困るし。それでもライセンスは本人じゃないと渡せないって言われた。その時に講習もやるらしい」
「でももう指輪を外しちゃったんだろう?彼女、また逃げるんじゃないの?」

そういえばヒソカはなまえの念が”入れ替わり”だと思っていたのだった。実際には”憑依”であるため、彼女が念を遣えるようになったとしても本体はイルミの手元から逃げられない。
しかしそのことを説明する余裕も義理もないため、イルミはさっさと話を切り上げようとした。

「大丈夫、今更逃がさないよ。逃がさないし、死なせもしない」
「彼女、弟くんの足枷としてはさほど役に立たないんじゃないかな?」
「……」

そんなことは言われなくてもわかっている。今回の試験でキルアの友達を自称する者はなまえだけではなくなってしまった。今回は圧力をかけて家へと帰らせることに成功したが、元々なまえを婚約者として家に連れて来てから、キルアは訓練に精を出したことがない。罪悪感で縛る計画も結局家出されて意味がなくなったし、なまえを利用するにも効果はいまひとつと言ったところだ。

「そうなんだよね。でも役に立たないけど邪魔でもない。むしろ邪魔なのは、」
「ゴンはボクの獲物だ。手出ししたらただじゃおかないよ」

いつも飄々としているヒソカが怖い顔をするなんて珍しい。余程ゴンに期待しているようだ。「わかってるよ」残念ながら彼は進んでゾルディック家に来たがる自殺志願者なのだが、そこでの生死はイルミの関知するところではない。

「でも、ヒソカもわかってるだろうね?」
「なまえとキルアに手を出すなってことかい?」
「そう」
「キルアはともかく、なまえも?」
「そう」

イルミは念押しするように深く頷く。「あれはオレの……モノだから」ヒソカにまでからかわれるのはごめんだと思って先ほどとは違う言い回しをすることになったが、その努力はあまり意味をなさなかったらしい。イルミの言葉を聞いたヒソカは、ふっと表情を緩めて、憐憫にも似た視線を寄越した。

「そういえばなまえがキミのこと知りたがってたよ」
「は?オレの何を知りたいわけ?」
「さぁね、でもキミが何を考えてるのかわからないって言ってた」
「……それはこっちの台詞なんだけど」

どうして今更自殺なんて馬鹿な真似をしたのか。どうしてあんなにも辛そうに魘されているのか。
そしてどうして、イルミのことを最初っから嫌っていたのか。
ずっとずっとそれが知りたかったのに、彼女は決して教えてくれないのだ。なまえが何を望んでいるのかさえわかれば、もう少し交渉の余地はあったかもしれない。ゾルディック家に関わることが望みなら、婚姻で達成されるはずだった。
だが、彼女は自分の命を捨ててでもそれを拒否したのだ。

「キミ達はホントに似たもの同士だよ。夫婦になる前から鏡みたいだ」
「鏡?」
「そう。夫婦は合わせ鏡って言うだろ?眠ったときのなまえを見て、ボクはそう思ったよ」
「……」

よりにもよってあの状態のなまえと似ていると言われるのは心外だ。イルミはあんな風に母親を求めたりはしない。そもそもなまえのことに関して、ヒソカにわかったような口を利かれるのは癪だった。「意味がわからないんだけど」あの悪癖以外だったら、なまえと自分が似ているというのはなんとなくわかる。打算で動くところも、理屈っぽいところも、似ているからこそ利用しやすかった。

あともう一つ、ゾルディック家の人間を愛しているところも。


イルミはヒソカと別れると、今度こそなまえの眠る医務室へと向かった。キルアが棄権した時点で試験は終了したので、講習も含めてまだ二時間ほどしか経っていない。彼女の場合ただの気絶とは違って色々と限界だったはずだから、起きるのはもう少し先だろう。しかしそんなイルミの予想に反して、部屋もベッドももぬけの殻だった。

――逃げられた?

確かに指輪のなくなった今、彼女が逃げるには絶好のチャンスだ。
咄嗟に触れてみたベッドはまだ温かく、そう遠くへ行っていないことがわかる。イルミは一瞬、円を展開しようとしてそれをすんでのところでやめた。ここには主にハンター協会の関係者として念能力者が何人かいる。その後に戦闘をするつもりならともかく、円で触れることは同時にこちらの力量も明かすことになるのでむやみに使うのはあまり賢い選択ではない。一度冷静になろう。逃げるにしたってなまえは今無一文だし、ライセンスもまだ協会側が預かっているのだ。

医務室を飛び出したイルミは、誰か彼女の姿を見た者がいないか辺りに視線を走らせた。
部屋の窓も廊下の窓も全部閉まっていたので、ここから飛び降りた可能性は低い。指輪のダメージは相当なものだったはずだし、弱っている彼女ならばすぐに追いつけるだろう。むしろここで追いつけなければ、また彼女を探すのは苦労するに違いない。

だがイルミの焦りとは裏腹に、なまえはごくあっさりと見つかった。医務室と同じ階にあるリネン室近くの廊下で、ぼうっと突っ立っていたのだ。「なまえ、」大股で歩み寄っても、彼女には逃げだす気配もなければイルミの存在にさえ気付いていない。そこで初めてイルミは彼女が“逃げ出した”のではなく、“例のアレ”が起こったのだと察した。

「……ほら、帰るよ」

なまえの腕を引けば、ぐらりと彼女は身体ごとこちらに倒れこんでくる。一応眠っている状態だから体温が高いのか、これが彼女の温度なのかは定かでないが、この試験中に何度も感じた重みとぬくもりだ。よかった。彼女はここにいる。死んでもいないし、逃げ出してもいない。それがわかると焦燥感は嘘みたいに引いていった。

「これと似てるなんてね……」

かつてはなまえの屈辱や嫌悪の表情を見ると愉快でたまらなかったはずなのに、なんておかしな話だろう。
自分にはないと思っていたはずの感情がただ埃を被っていただけだったと気付かされて、イルミは面映ゆいような、何とも言えない気持ちを味わっていた。


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