- ナノ -

■ 34.内なる望み

――資質で俺がゴンに劣っている……?

最終試験で発表されたトーナメント表には、これまでの試験の成績が反映されているという。純粋な個人としての身体能力値、精神能力値、それから最も重要な要因ファクターである印象値は、ハンターとしての資質評価だそうだ。

キルアは別にハンターになりたくて試験を受けに来たわけではなかった。家業を継いで暗殺者になるのが嫌で、兄からなまえを救いたくて、難関だという試験に合格してなまえに認めてほしかっただけだ。そこにはライセンスがあれば、これから独り立ちするにあたって便利だろうという打算もあった。

だが、こうして改めて他者からの評価を突き付けられると、キルアは素直に現実を受け入れられなかった。そもそもが医者志望のレオリオはともかく、ほとんど一緒に試験を受けたゴンは五回、クラピカですら四回の試合チャンスを貰っている。能力だけで言えば幼少期から厳しい訓練を積んだキルアのほうが遥かに高いだろうに、そのキルアに与えられたのはたった三回の試合回数なのである。明らかに、”ハンターとして”キルアのほうが劣っていると判断されたということだろう。

決して望んだわけでも、そこに胡坐をかいた覚えもなかったが、ゾルディック家始まって以来の天才だと期待をかけられるのが常だったキルアにとって、この結果は衝撃的だった。お前はハンターに向かないのだと、誰かに囁かれたような気がしてぞっとした。

「参った。悪いけど、アンタとは戦う気がしないんでね」

だからポックルとの試合を放棄したのは、慢心というよりも協会に対する反抗だったのかもしれない。戦闘面ではどう考えてもキルアのほうが優位だった。それなのに、ポックルのほうがキルアよりもハンターとして評価されているのが面白くなかった。

チャンスなんて要らない。自分ならば一回もあれば十分だ。
合格することが目的だったのに、キルアはここへきて勝ち方に拘ってしまった。早々にリングを降りて次の試合に出るなまえとすれ違ったとき、もし次でなまえが負けても俺が勝ちを譲ってやるから心配するなよ、なんて甘いことを考えていたのだ。


「おい、なんかなまえの様子おかしくないか?」

けれども現実はキルアの筋書き通りには進まなかった。なぜかあの針男と真っ当な勝負を望んだなまえは、絶対に降参しないつもりのようである。それが彼女の矜持によるものなのか、次の試合のキルアのことを考えてなのかはわからない。
とにかく針男の方はひたすら防御に徹しているようにしか見えなかったのだが、試合が進むにつれてどんどんなまえの苦しみ方が尋常ではなくなっていくのだ。

――もうやめろ、参ったって言えよ!

とてもじゃないが、見ていられない。ゴンの試合のときにもそう思ったが、ゴンにはハンターになって父親を捜すという夢がある。だがなまえにはそこまでしてハンターになりたい理由があるわけではないはずだ。むしろ彼女はキルアに巻き込まれた形で、無理矢理この試験に参加させられたに過ぎない。
それなのに、戦い続けるなまえには何か鬼気迫るものがあって、キルアは結局何も声をかけられないでいた。試合が早く終わってくれることを祈りながら、彼女が苦痛に喘ぐさまを見守ることしかできなかった。

「参った」

そしてようやく告げられた降参の言葉は、意外にも無傷な針男から発せられたものだった。レオリオがすぐさま介抱に向かおうとするが、なまえは大声でそれを制し、未だに針男のほうへと這いずっていく。
本来ならば、試合終了後の接触は審判が止めるべきだった。息も絶え絶えな様子のなまえはそのまま針男に縋りつき、どこか満足したような表情で目を閉じる。

それは、死を覚悟した人間の顔だった。

彼女が何を思い、何を考え、こんな無茶をしたのかはわからない。それでもキルアは直感的に彼女の死を悟った。
状況は未だ何一つ理解できていなかったが、すぐ先の未来の想像がキルアを打ちのめし、全身が凍り付く。懇願の言葉は声にならずに、ひゅっ、とただの空気として喉を通り抜けていった。

「なんだ……?何が起こったんだ?」

その時――。
からん、と金属が床に落ちる音が、会場内にやけに大きく反響して聞こえた。
命の音というにもあまりにも軽いそれは、なまえの左手の指輪が真っ二つに割れて落ちた音。

「……試合は終わりでしょ。彼女、医務室に運んであげて」

キルアはその声を耳にして、初めてそこで何もかもを理解した。針男の正体も、なまえの異様なまでの覚悟も全て理解して、自分のあまりの愚かさに泣き出したいような気持ちになる。
キルアはずっと、イルミの手のひらの上で踊らされていたのだ。


だが、キルアが後悔に沈む間もなく、試合は無情にも進んでいく。なまえが医務室に運ばれると、次はキルア対ギタラクルなのだ。
もしもあのときポックル戦を棄権していなければ、また少し結末が変わっていたかもしれない。もしかするとなまえもあそこまで無茶をしなかったかもしれない。

キルアは針男の正体を知ったことで、なまえがなぜ今更”キルアとは友達じゃない”と言い出したのかわかったような気がした。彼女も彼女で、キルアに対して罪悪感を抱いていたのだろう。あの苦しみ方は演技なんてレベルじゃなかったし、明らかに死を覚悟していたものだ。キルアにとって”家族”というのはこれまで煩わしいものでしかなかったが、なまえは命を賭してイルミに立ち向かってくれた。
なまえは友達ではないかもしれないが、代わりに家族的な愛情を示してくれたのだ。


試合開始が告げられると、キルアは目の前の男を見据えてゆっくりと口を開いた。

「……奇遇だな、兄貴」
「そうだね、これは全くの偶然だ」

そう言いながら針を抜いていく”ギタラクル”。
みるみるうちに顔かたちがめきめきと変形し、見慣れた長い髪がさらりと背中に流れ落ちた。「オレは仕事の関係上、資格が必要だったんだけど、まさかキルがハンターになりたいと思ってたなんてね」あまりの白々しい嘘に聞いているだけで吐き気がする。
不気味な針男の正体がキルアの兄だという事実に周囲はどよめき、二人の会話を固唾をのんで見守っていた。

「……さっきのあれ、なまえに何したんだよ。ていうかこれまでも。何させてたんだよ」

なまえを助けるつもりでした家出が、まさか余計になまえを苦しめることになるとは思ってもみなかった。
キルアは自分に対する怒りと情けなさと、目の前の兄への憎しみで溺れそうになっていたが、対するイルミの表情はいつもと変わらない。ただ、会話をする気はあるようで、底冷えのする黒い瞳でキルアを見下ろした。

「別に何もしてないよ。むしろオレはなまえの自殺をとめてやったくらいだから、感謝してほしいね」
「自殺しようとするほど、追い詰めたのは兄貴じゃないのか」
「心外だなあ。あれは気を病んで死のうとするほど、可愛い性格じゃないだろ?
 だいたいキルがいけないんだよ。キルさえ大人しくしていれば、なまえは安全だったのに」
「……っ、俺のせいだって言うのか?俺が、大人しく暗殺やってればよかったって?」

「そうだよ。お前の天職は殺し屋なんだから」

決めつけるようなイルミの言葉と共に、兄を取り巻く空気の温度がぐっと下がる。圧迫感というのは比喩でも何でもなかった。なけなしの酸素を求めるように、キルアの呼吸が早く短いものになる。

「お前は熱をもたない闇人形だ。自身は何も欲しがらず、何も望まない。陰を糧に動くお前が唯一喜びを抱くのは、人の死に触れたとき。お前はオレと親父にそうつくられた」

イルミはまるで経典でも暗唱するかのように、いつもの台詞を諳んじた。その言葉の意味を考える必要はなく、絶対的に正しいのだと信じているといわんばかりの口ぶりだ。「そんなお前が、何を求めてハンターになると?」首を傾げたイルミには、キルアの行動は考えたことすらない選択だったらしい。
キルアは何度も聞かされた”レール”に挫けそうになる心を叱咤して、自分の想いを伝えようと思った。

これまでは聞く耳すら持ってもらえないと諦めていたけれど、もしかすると今の兄なら――

「……別に、ハンターになりたいわけじゃない。でも、俺にだって望むことくらいはある」
「ないね」
「あるよ!イル兄にだってあるはずだ!」

「……オレに?一体何を言い出すんだい、キル」

ここで起こるのは、有る無しの平行線の議論。
そう思い切っていたのか、キルアの反撃にイルミは目を瞬かせる。お陰であの不気味な圧力もやや弱まり、キルアはここぞとばかりに深く息を吸い込んだ。

「なまえはもう人質として使えない。さっきの話を聞いて、確信がもてた」
「ふぅん、やっぱりなまえを見捨てるってわけ?」
「違うよ。なまえは俺に言ってくれた。俺のこと家族みたいに大事に思ってるって」
「……」
「でも、兄貴もそうなんだろ? 兄貴はもう、なまえのことを家族のように思ってるはずだ。だからなまえの自殺を止めたんだろ」

「……別にただ、あれはオレのモノだってだけだよ」

いつも淡々と話すイルミにしては、随分と歯切れが悪い。しかしだからこそ、この指摘が図星であるとよくわかる。
キルアはさらに畳みかけるように口を開いた。

「いいや、薄々おかしいと思ってたんだ。俺を脅すための人質にしては、やけになまえに拘るんだなって。家出した俺を追うだけなら、なにもなまえまで試験に連れてこなくていい」
「それは、万が一キルが脱落した時の保険だよ」
「監視は執事でもいいだろ?なのに、イル兄はなまえをわざわざ同伴させた。拘りすぎなんだよ、なまえに」
「……」
「でも仕方ないよな、イル兄、家と家族のこと大好きだもんな。……こっちがうんざりするくらい」

わざと吐き捨てるように言ってやれば、イルミは元から大きな瞳をさらに見開いた。手塩にかけた弟に腹の中で疎ましく思われていたこと、そして弟にあっさりと自分の感情を見透かされたこと。前者はともかく、強い否定を返してこないあたり、イルミ自身ももうなまえを家族だと認めているのだろう。これで彼女が殺されるようなことはなくなったが、この兄の愛情は下手な殺意よりも対象を擦り減らす。それを知っているキルアとしては、素直に安心していいのかどうか複雑な気分だ。
一方、イルミは早々に衝撃から回復し、今度は顎に手をやって、どうキルアをやり込めるか考えているらしかった。

「……仮に、オレがなまえを家族みたいに思ってるとして、だったらキルはどうなの?自分のことを大事にしてくれるなまえを置いて、キルは外の世界に行くって言うのかい?」
「なまえは俺の望みを応援してくれた」
「望み?ふーん、では言ってごらんよ」

話題がなまえのことからキルアの話へと移った時点で、あの不思議な圧が再び強くなり始めた。それでもキルアは引き下がらない。あれだけのなまえの覚悟を見せられた後だ。自分だけ逃げだすなんてみっともない真似はしたくない。ごくり、と自分の喉が鳴るのを聞きながら、この試験を通してようやく形になり始めた心からの望みを口にすることにした。

「……俺は、ゴンと友達になりたい。友達と旅して、もっともっと色んな世界を見て回りたい」

元はといえば、ただあの環境から逃げ出したかった。なまえを救うこともそうだが、彼女がいなくてもキルアはいつか家出をするつもりだった。
だが、“家を出たい”や“暗殺者になりたくない”というのは後ろ向きな望みだ。家を出て、暗殺者以外の道を選んだ自分が、何をして生きるのか、したいことがあるのかと問われれば、たちまち答えに窮してしまう。けれども今のキルアには、僅かながらも前向きな望みがある。まだまだ具体性には欠けるけれど、心の底から想った願いが。

「無理だね。お前に友達なんてできっこないよ」

イルミはあざ笑うわけでもなく、哀れむわけでもなく、ただ事実を述べるように淡々と否定した。

「お前は勘違いしてる。所詮、お前も人を”使える”か”使えないか”でしか判断してないんだ。なまえのときもそうだろう?お前はなまえに褒められることで、誰かに認められたいという感情を満たしていただけだ」

それについては思い当たらないわけでもない。家族がキルアを”一人の人間”として扱わないから、どうしてもなまえに求めた部分がある。
反論の言葉を持たなかったキルアに、イルミは言い含めるようにゆっくりと話した。

「ゴンに関してもそうだよ。お前は家から出たい理由に、都合よくそいつを使ってるだけだ。友達になりたいわけじゃない」
「違う……!俺は、」
「キル、お前は俺がなまえを殺さないだろう、と言ったね。確かになまえがこのまま大人しく家族になるなら、オレはなまえを殺さないと思う。
でもね、始まりはやっぱり利用価値だった。なまえが”使え”なければ、オレはなまえに目をつけなかったよ」
「……」
「キルもそうさ、今は家を出る口実にゴンに利用しようとしているだけだ。そんなものは友情じゃない。
いつかゴンが”使えなくなったら”、きっとお前はゴンを殺すよ。たとえ直接的でなくても、邪魔になれば見殺しにする。なぜなら、お前は根っからの人殺しだから」

イルミの決めつけるような発言に、キルアの背筋がぞくりと粟立った。いくら綺麗ごとを言おうとも、友達を見捨てないことに関してキルアは正直なところ自信がない。特にゴンは格上相手でも平気で突っ込んでいくような奴だ。危ない橋は渡らずに逃げろという方針で育ったキルアとは真逆である。
もしも、もしも、ゴンと二人でいるときに窮地に陥ったら――。

「キルア!そいつがお前の兄貴だろうが何だろうが言わせてもらうぜ!そんな人をモノとしか思ってないような奴の話に聞く耳持つことねえ!いつもの調子でぶっとばしてやれ!」

キルアが嫌な想像に引きずられかけそうになったところで、外野からレオリオの大声が聞こえてくる。「ゴンと友達になりたいだ?馬鹿か!お前らはとっくにダチ同士だろうが!」その激励に、はっとしたのはキルアだけではなかった。

「え、そうなの?」

これまでキルアだけを捉えていた暗い瞳が、ギャラリーのほうへと向けられる。「あたりめーだろが、バーカ!」すっかり頭に血が上った様子のレオリオは臆することなく喚きたてた。

「ゴンとキルアは友達だ!そんなもん、見りゃわかるだろうが!ゴンだってもうそう思ってるぜ!」
「……へぇ、あっちはもう友達のつもりなのか。
よかったね、キル。ちょうどいいじゃないか」

本心から良かったね、と言ってるわけではないことくらいわかるが、ちょうどいいとはどういうことだろう。
困惑するキルアに、イルミはさも素晴らしい思い付きをしたかのようにピンと指を立ててみせる。

「今からゴンを殺そう。それで、お前が友達を見捨てないかどうかはっきりする」
「っ……!」

瞬間、会場を包んだ緊張。
キルアだけじゃない、あれだけ怖い物知らずと思えたレオリオも、あまりの発言に息をのんで固まっている。

「彼は今、どこにいるの?」
「ちょっと待ってください。まだ試験は、」
「どこ?」

イルミの行動に一拍遅れて試験官が止めに入ろうとしたが、言葉を最後まで言い切らないうちに針の餌食となる。キルアとの訓練ではただの凶器でしかなかったはずだが、刺された試験官の顔はイルミが変装を解いた時のように歪に変形した。

「ト、隣リノ控エ室二……」
「どうも」

イルミはまったく心のこもらない礼を述べると、そのままリングを降りようとする。
追いかけたい。追いかけて止めたい。なのに足が動かない。
自分も他の皆のように、扉の前に立って兄の行く手を防げたらどれだけよかったか。

「お前にゴンは殺させねぇ!」
「……うーん、ここで彼らを殺しちゃうとオレが失格になって、自動的にキルが合格ってことになっちゃうね。ライセンスが要るのは本当だし、参ったな……」

「あ、いけない。それはゴン殺しても同じか?
 うーん、それじゃあ、合格してからゴンを殺そう」

兄のわざとらしい独り言が、キルアの胸に突き刺さる。それでも耳はちゃんと聞こえているのに、身体が凍り付いたように動かなかった。他の者からすれば、“殺す”なんてのは子供のような脅し文句かもしれない。あまりにもあっさりと発せられたものだから、現実味に欠けている。
けれどもこれまで兄の行いを間近で見てきたキルアは、つまらない脅しだと笑い飛ばすことができなかった。

「それならたとえここに居る全員を殺したとしても、オレの合格は取り消されたりしないよね」
「うむ。ルール上、問題ない」
「聞いたかい?キル。オレと戦って勝たないとゴンを助けられない。 
 友達のためにオレと戦えるかい?」

――できないね

苦しい。苦しい。
あの不思議な圧力とは関係なく、恐ろしい想像に胸が押しつぶされそうだ。自分が友達を――ゴンを見捨てるかもしれない。絶対大丈夫だとは、今のキルアには言えないのだ。自分の実力は正しく理解している。
イルミはキルアが返事をしないことで、キルアの出した答えを確信したみたいだった。

「なぜならお前は友達なんかより、今この場でオレを倒せるか倒せないかの方が大事だから。そしてもうお前の中で答えは出ている“オレの力では兄貴を倒せない”。
“勝ち目のない敵とは戦うな”。オレが口をすっぱくしてそう教えたよね?」

イルミは不意に手の平をこちらに向けると、「動くな」と鋭く言い放った。

「少しでも動いたら戦い開始の合図とみなす。同じくお前とオレの体が触れた瞬間から戦い開始とする。
 止める方法は一つだけ。わかるな?だが……忘れるな。 
 お前がオレと戦わなければ、大事なゴンが死ぬことになるよ」

そう宣言して、一歩、一歩と近寄ってくるイルミ。
キルアは限られた時間での選択を迫られた。ゴンを助けたい。でも、兄貴には勝てない。勝ち目のない敵とは戦うなという、言葉の正しさはよくわかる。だが、このままでは今度こそ本当にゴンを見殺しにすることになるのではないだろうか。

――友達ってのは対等。どちらか一方が責任を負うようなこともない。お互いに助け合って、そのときできる最善をすればいいんだよ

追い詰められたキルアの脳裏に浮かんだのは、最終試験前に聞いたなまえの言葉。
最善、この場合の最善とはなんだ?

キルアはゴンを助けたい。ならば、友達だから見殺しになんかしないで戦うか?
たとえ戦ったとしても、イルミはキルアを殺すようなことはしないだろう。試合中での殺害がルール違反であるというのもあるが、イルミは”家族であるキルア”を殺さない。実戦とは違うのだから守りに入る必要はないのだ。
しかし、実際のところキルアがイルミに立ち向かったとして、イルミを行動不能にできるかと言われればやっぱり不可能だ。それどころか、キルアが反抗したことに対する見せしめとして、イルミは本当に試験後にゴンを殺すかもしれない。

だったら、この場合の最善は――
ゴンを見殺しにするのではなく、生かすための最善は――

「参った……俺の負けだよ、イル兄」

絞り出すように負けを認めれば、嘘のようにイルミの圧力は引いていった。俯いたキルアが腹の底でどのように思っているかなど、少しも気づいた様子はない。

「あーよかった。これで戦闘解除だね。はっはっは、ウ、ソ、だ、よ、キル。
 ゴンを殺すなんてウソさ。お前をちょっと試してみたのだよ」

ぽん、と頭に手を置かれ、キルアはびくりと肩をはねさせる。が、嘘をつくのは苦手ではない。このまま、”友達を見捨てた奴”の汚名を背負ってでも、キルアにできる最善を貫き通せばいい。
イルミはダメ押しとばかりに、キルアの心を砕くための言葉を続けた。

「お前に友達をつくる資格はない。必要もない。お前は今まで通り親父やオレの言うことを聞いて、ただ仕事をこなしていればそれでいい。ハンター試験も必要な時期がくればオレが指示する。今は必要ない」

キルアはそれを最後まで聞くと、黙ってリングを降り、そのまま出口の方へ向かった。「お、おい!」レオリオが声をかけてくれるが、今は聞こえないふりをする。レオリオからすれば、キルアは兄に脅されて友達を売った最低な奴だろう。

だけど、それでいい。キルアはキルアの最善を尽くした。
ずっとイルミの言うことなんて聞きたくないと思っていたが、逆に言うことを聞いている間、イルミは目立った行動を起こさない。このまま家に帰って試験を棄権すれば不合格は確定だが、キルアの望みはライセンスを取ることではないのだ。

――ゴンと友達になりたい

会場を出れば、キルアは一人だ。またあの鬱屈とした家に帰ることになるのだろう。しかし今のキルアは、一次試験の後のような苦々しい気持ちにはならなかった。ゴンはキルアが帰ったことで、もしかしたら怒るかもしれない。ゴンを人質にされたと聞いたら余計だろう。
だが、これもまたキルアの決断だ。今回のキルアの不合格について、誰も責任を感じる必要はない。

「お前と一緒に試験受けられて楽しかったぜ、ゴン」

キルアは最後にホテルを振り返ってそう言うと、パドキアに帰るために空港へと向かうことにした。


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