- ナノ -

■ 30.ストックホルムの夜明け前

四次試験会場として連れてこられたゼビル島は、山一帯を所有するゾルディックの敷地から比べれば随分と狭かった。ヌメーレ湿原のように危険な生き物が生息しているわけでもなく、他の受験者も雑魚としかとらえていないキルアにとっては実に面白味に欠ける試験内容である。
しかし、三次試験を残り時間1分で通過したキルアの出発はほとんど最後で、おまけにターゲットが誰なのかもわかっていない。あまり舐めてかかって、足元をすくわれるようなことは避けるべきだ。

キルアは初日、自分から得物を狩ることをせず、島の地理や他の受験者の動向を窺うことに徹した。そしてその傍ら、ずっとなまえのことを探していた。


「くそっ、なんで全然会わねーんだよ」

幼少期から命がけの鬼ごっこやかくれんぼを経験してきたキルアが、この狭い島内でなまえの気配を一度も確認できないのはどう考えてもおかしい。彼女だってそう弱いわけではないことくらいわかっているが、キルアには一応プロの暗殺者としてのプライドがある。家業を継ぐのが嫌で、この家出だってそのレールから逃げ出すために行ったのに、それでも自分がこれまで積み上げてきたものが通用しないというのはどうにも我慢ならなかった。

だが、ここで一つ弁解をしておくと、キルアは何も自分のプライドの為だけになまえを捜索しているわけではない。
トリックタワーの頂上で聞かされたなまえの夢遊病の話が気になって、放っておけないと思っているのだ。正直、話だけではにわかには信じがたかったけれども、クラピカが嘘をつくとは思えない。囚人たちとの賭け事で彼の性格がいっそ面倒なほど生真面目だということはよくわかったし、それ以前にクラピカにそんな妙な嘘をつく理由がないからだ。

そしてキルアの心配を増長させるように、三次試験以降、なまえの様子は明らかにおかしかった。試験の内容を聞いてもはぐらかしてばかりで、単身だったのか、誰かと一緒だったのかすら言葉を濁す。けれども言わないということは誰かと一緒だったと考えるのが妥当で、なまえは嘘をついても無駄だからうやむやに誤魔化したのだろう。

「あの針男も全然見つからねーし……」

四次試験をなまえの前後にスタートした人物。
それがなまえと一緒に三次試験を通過した者に違いなかった。もちろんキルア達の例があるから、いったい何人組だったのかまでは定かではない。しかし受験者の顔ぶれを見て、なまえが関わったことを口にもしたくないレベルとなると、ヒソカを除けばもう他はあの不気味な針男くらいしかいないような気がする。あの男は容姿も纏う雰囲気も異様の一言に尽きて、なまえのような若い女がほぼ3日も共に過ごすには大変つらい相手だろう。

夢遊病という持病を抱えて、得体のしれない男と一緒という状況。
それはおそらく激しくなまえの精神をすり減らしたことだろうし、キルアはこの四次試験こそ自分の手でなまえを守ってやりたいと思っている。夜の見張りをすることで、彼女を安心して眠らせてやりたい。
そう思って、事前に彼女のターゲットの番号まで聞いたというのに……。
これだけ探しても出会えないのは、なまえのほうがわざとキルアを避けているとしか考えられなかった。


「はぁ〜、俺、今すっげー機嫌悪いんだよね。ずっとつけまわされたって隙なんか見せねーし、来ないならこっちから行くけど?」

キルアはそれまでの独り言から、完全に人に話しかける口調に変えて、誰もいない森に向かって声をかける。狩人ハンター気取りの残念な獲物が、すぐそばの茂みで息を殺しているのが手に取るように分かった。

「ほんと嫌なんだよな〜」

ターゲットが偶然お互いになる確率は高くないし、向こうが追ってくるということは仮に倒したとしても1点分の価値しかないだろう。ずっと無視を決め込み、来たら返り討ちにしてやるくらいに思っていたが、いい加減監視され続けるのもうんざりだ。
キルアは後方の茂みに向かって、早くしてくんないかな、と煽り始める。その時、隠れていた男が「兄ちゃん!」と声を上げて、キルアの前に3人の男が姿を現した。

「うーん。3人もいれば1点ずつだとしてもこれでクリアか」

ただただ鬱陶しいと思っていたが、プレートも集めとうっぷん晴らしが同時にできるとなればそう悪くないかもしれない。
キルアは少しやる気になって目の前の男達を見据える。それから頭の片隅で、ここの兄弟はよく似ているな、とどうでもいい感想を抱いた。


△▼


初日はみな様子を窺っているのか、島全体で特に目立った動きはなかった。こうした自然を利用した地形なら、戦闘力に自信がない者でも罠を張ることで優位に立てるだろう。そうした罠や待ちの姿勢に入る者がいれば、またそれも格好の標的となる。

なまえは今回の試験では、何よりもスピードを重視した。つまり、みなが互いの出方を窺い、準備をしている中で、機先を制すというわけである。

「1点でも、無いよりマシだよね」

なまえは手に入れた221番のプレートを、奪われないように服の内側へと隠した。このプレートの持ち主はカキンの辺境出身なのか独特な訛りを持つ男だったが、彼もまた戦闘向きではないらしく、島の南東にある洞窟に引きこもって獲物がかかるのを待つ予定だったらしい。肝心のなまえのターゲットはというと、80番の、確かスナイパーの女だったはずだ。なまえが準備前の221番に遭遇できたのは、本当にただの偶然だったのである。

今のなまえは指輪のせいで念が遣えないが、逆に言えば精孔を閉じる“絶”ならば遣えた。おまけにゾルディック家での“花嫁修業”はここで遺憾なく効果を発揮し、全く存在を気取られることなく221番を気絶させて、まんまとプレートを頂くことに成功したというわけである。
目が覚めた男はきっと自分の不覚を嘆くだろうが、この試験は別にプレートを奪われた時点で即終了というものではない。まだ挽回のチャンスはあると考えて、おそらく当初の計画通り洞窟で待ち伏せをするだろう。

さて、初日はそんな風に幸先よく1点を手に入れたなまえだったが、その後の収穫はさっぱりと言っていいほどだった。まず他のまともな受験者は全員様子見の姿勢で身を隠しているし、見つけたとしても既に罠を張られた後では迂闊に近づけない。また、なまえ自身敵から身を隠すことや、これから1週間のサバイバルを見据えた行動をとっておかなければならなかった。

まず確保すべきは、水と食料。それから安全な――敵に見つかりにくいか、近づく敵を発見しやすい場所である。
特になまえの場合は、夜をどのように過ごすかが重要な問題だった。


「はぁ……」

最初の夜を眠らずにやり過ごしたなまえは、”安らぎの道”での出来事を思い出し、知らず知らずのうちにため息をついた。もうすぐ2日目の夜を迎えるが、プレート集めに進展は無し。水場は数か所チェック済みで、いくらか補給も済ませたが、やはり一番の問題は安心して眠れる場所だ。
眠った自分がどのような行動をとっているのかをはっきりとは知らなかったが、起きたときに知らない場所にいるうえ、頬には涙の乾いた後がよく残っていた。

――まさかイルミに、あの姿を見られるとは。

暗い森の中を歩きながら、おそらく今の自分の顔面は、闇夜の中でもそうとわかるくらい赤く染まっているだろうと思った。思い出しただけでもこうなのだから、イルミの腕の中で目覚めてしまった朝はもっと耐え難かった。なまえのあの悪癖は決して毎夜のことではなかったのに、本当に間が悪いとしか言いようがない。

しかしなまえの心をかき乱したのは、何も羞恥心や屈辱感だけではなかった。感情で言うならばおそらくそれは”怒り”に近い。限りなく怒りに近い、”当惑”であった。
どうしてイルミは憎いはずの自分を殺さなかったのか。どうしてあのような弱みを見せたなまえに優しくしたのか。
それがどうしても理解できず、なまえはイルミへの今後の対応を決めかねている。あの男は恐ろしい男だ。自分の家族を守るために、なまえを何度も殺そうとした。冷酷で、自己中心的で、自分の”家族”以外はどうでもいいと思っている男。なまえは初対面でそれを見抜いたからこそ、ずっとイルミが嫌いだった。この男はなまえを排斥して、絶対に受け入れない障害だと思っていた。

――それなのに、どうして今更……。


いつの間にか思考の海に沈んでいたなまえは、草木を踏みしめる音にハッと顔をあげた。もちろん自分ではない。いくらぼうっとしていたって、さすがにそんなヘマをするようななまえではないからだ。しかし、逆に言えばここまで残った受験者でそれほど迂闊な者もいないだろう。
つまり相手はわざと音を鳴らしたのだ。なまえを”獲物”とみなして追い立てるか、いたぶるか、その理由は定かではないものの、明らかになまえは今狙われている。そして”狩人”はその気配を隠すこともなく、正面からゆっくりとなまえとの距離を縮めてきた。

「やぁ、なまえ。キミに会えるなんて嬉しいねぇ」
「……ヒソカ」

月夜に照らされて浮かび上がったのは、おそらく一番この試験のルールを楽しんでいそうなピエロだった。一次試験で勝手に受験者狩りを行っていた彼が、合法的に他者を狩れる機会を逃すはずがない。
しかし警戒するなまえに対して、ピエロはいつものように厭らしい笑みを浮かべただけだった。

「ククク……そんな怖い顔をしないでくれよ。我慢できなくなるじゃないか」
「私を狩りにきたんじゃないんですか」
「確かにそろそろ退屈していた頃だけど、キミに会ったのは本当に偶然さ。それに、今はまだイルミを怒らせたいわけじゃないしねぇ」

ヒソカはよく嘘をつくから、そう言われてもすぐには信用できない。なまえはできるだけ平静を装うと、戦闘を避けるためにヒソカの喜びそうな展開を必死で考える。この男は少しでも弱者の姿勢を見せると退屈してしまう。こいつの好みは強者に”勝つ気”で立ち向かってくるような人間なのだ。勝てないかもしれないが思い出にとか、勝てないかもしれないが、やけくそで、とかでは決して満足させられない。
なまえは深呼吸すると、半ば睨みつけるようにしてヒソカの瞳を正面から見据えた。

「偶然だったのなら、私にも運が向いてきたということでしょうか」
「おや、ボクを探していたのかい?」
「ええ。プレート持ってます?一次試験での借りをそろそろ返してほしいなって」

それを聞いたヒソカの目は面白がるように細められる。「ふぅん、ボクがターゲット?」仮にそうだったとしても、それならなまえは別の受験者3人分で稼ぐ。ヒソカなら、そうした雑魚のプレートを既に何枚か持っているのではないかと予想しただけだ。

「いえ、私のターゲットは80番です。80じゃなくても、ヒソカにとって1点にしかならないプレートがあればほしい」

この試験において、自分自身のプレートは3点だ。いくら酔狂を好むヒソカだとしても、ヒソカのプレートをくれと言えば断られる可能性が高い。しかし余りならば”借り”があるヒソカは渡してくれるかもしれないし、無ければそのまま交渉は不成立という体でこのまま無事に逃げられるだろう。
ヒソカはなまえの要求を聞くと薄っすらと浮かべていた笑みを消して、それから次の瞬間、声を上げて笑い出した。

「キミは運がいい」
「……」

流石にここまで大きな反応を予想していなかったなまえとしては、ヒソカの高笑いに肝を冷やしたくらいである。しかし彼の方はというとやっぱり上機嫌で、懐から1枚のプレートを取り出しなまえに向かって差し出した。

「待って、うそ、ほんとに80番?」
「これはね、イルミからもらったやつなんだ」

渡された番号を見て、なまえの声は思わず上ずる。けれどもイルミの名前を聞いて、胸を満たした喜びはすぐに何とも言えない居心地の悪さに取って代わられた。ヒソカが言ったように本当に運がいいとは思うのだが、イルミから流れてきたプレートだと思うとどうしても素直に喜べない。
そんななまえの心境を見透かしたのか、ヒソカは腕を組んでこちらを見下ろしてきた。

「複雑そうだねぇ」
「……まぁ、でも、ありがたくもらっておきます」
「そういえば三次試験、イルミと一緒だったんだろう?何かあったのかい?」
「……」

なまえ達より後にゴールにたどり着いたキルアは誤魔化したけれども、先に到着していたヒソカにはなまえとイルミが同じ道だったことは知られている。普段の険悪さを鑑みれば3日も一緒で何もなかったと言い張るのは無理があるし、どうせ隠せば隠すだけヒソカは興味持って詮索してくるだろう。
なまえは小さくため息をつくと、観念して自分の失態に触れない部分だけを話すことにした。

「……途中までは協力する道だったんですけどね。最後は相手を殺すか、64時間その場で待機かを選ぶ道だったんです」

あの道の”安らぎ”の定義は、別に気絶でも良かった。だがそもそもイルミがなまえにそんな温情をかける理由はないし、実際彼はなまえを気絶させることすら選ばなかった。なまえにしてみれば、そこも未だに引っかかっている点なのである。

「じゃあイルミはキミを殺さず、64時間待ったんだ?」
「ええ。らしくないですよね、あんなに殺そうとしてたくせに……。私にはあの人が何を考えてるかわからない」
「イルミは家族しか大事にしないからね」
「だからですよ」

イルミは“なまえを殺すメリットがない”と言ったが、逆に言えば“生かすメリット”もさほどあるようには思えない。キルアを家に縛る道具としてだって役に立たなかったし、試験中の監視もイルミだけで事足りるはずだ。脱落者が死んでいようが生きていようが合格者と顔を合わせることなどないのだから、イルミはなまえを殺してなまえの携帯からキルアにメールを送ればいい。

――“私は落ちちゃったけど、キルアは残りの試験頑張ってね。試験後に合流しよう”

そんな風にでも送っておけばキルアはそのまま試験を続行するだろうし、試験が終わってなまえが死んだと判明する頃にはイルミもライセンスを手に入れている。そうなれば後はキルアを回収して終わりだ。なまえは試験中の事故死扱いで結婚話も立ち消え、自分の家出のせいでなまえが死ぬことになったのかもしれないとキルアもこれからの行動を自粛する。
こうやって考えてみれば、むしろメリットの方が大きいかもしれなかった。

「うーん、それはきっとイルミの中でキミはもう家族になりつつあるんじゃない?」
「それが人質としての結婚でも?」
「加害者が被害者に特別な感情を抱くのはそう珍しいことでもないよ」

ヒソカが言っているのはリマ症候群のことだろう。しかしあの男がなまえに同情したり、好ましい感情を向けたりするのはどうも想像ができない。これまでの殺されかけた経験を考えれば考えるほど、その感情はあまりに倒錯しているとしか言いようがなかった。「もちろん、その逆もね」そう付け加えて意味ありげに笑ったヒソカに、なまえは瞬間的にかっとなる。

「ありえない!」

いくら指輪で支配下に置かれているとはいえ、なまえは心まで言いなりになったつもりは無い。極限下に置かれた被害者が加害者に対して心理的な繋がりを築く事例は確かに存在するけれども、それは結局のところ生存戦略だ。生き残るためには強者に迎合する道が最も賢く、脳が生きるために自分を騙しているに過ぎない。たとえ無意識下の戦略だったとしても、なまえは自分がイルミに心を許すなど考えたくもなかった。

だが、なまえの強い否定はかえってヒソカを楽しませたようだった。これではまるでなまえがイルミのことを意識しているみたいだ。正直なところ、ヒソカの邪推には腹が立って仕方がないが、今は何をどう弁解しても無駄だろう。なまえはそれ以上この話題に触れることはやめて、半ば押し付けるような形で221番のプレートをヒソカに渡した。

「じゃあもうこれはいらなくなったのであげます」
「おや、いいのかい?今回は単なるプレート交換じゃなくて“借り”の返済だったんだろう?」
「ええ。ですからそのプレートをあげる代わりに、残り期間私に関わらないでください。そっちはもともと私と戦う気なんてなかったみたいだし、あなたにとっては80番のプレートも221番のプレートも同じ1点の価値なんでしょう?
この試験で私を狩らないだけで借りの返済ができ、おまけに点数の損もない。あなたにとってそう悪い話じゃないと思いますけど」

四次試験でヒソカの心配をしなくていいというのは、こちらにとっても実にありがたい話だ。ここまで残った受験者は皆そこそこの手練れだとはいえ、やはり念を遣えて人殺しも躊躇わないヒソカやイルミの存在は群を抜いて危険である。三次試験で不戦の姿勢を見せたイルミが今更なまえを狩りに来るとは思えないので、ヒソカを封じることができればなまえの安全はかなり保証されるに違いなかった。

「なるほどねぇ……。うん、なまえが元気そうでよかったよ」
「はい?」
「いや、なんでもないよ。じゃあこれは貰うから、その調子で頑張って」

しかし、断られるとは思っていなかったものの、ヒソカのこの反応は意外でしかなかった。彼は困惑するなまえを置いて、じゃあ、とあっさりこの場から去って行く。何をもって元気と判断されたのかよくわからないが、ひとまず危険は去ったらしかった。点数もこれで揃ってしまったし、上手くいきすぎて逆に不安になるくらいだ。

しかし、なにはともあれ一人になったなまえは、いよいよ本格的に隠れる場所を探すことにした。
念が使えた頃はよく他人に憑依して、無防備になる本体を土に埋めて隠していたがそういうわけにもいかない。いや、案外いけるだろうか。魂を抜いた後の自分の身体については、仮死状態ではなく、ちゃんと心拍も呼吸もあることを確認している。なまえの精神が戻らない限り外的な刺激で目覚めることはないが、状態としては眠っているのとそう大差ないだろう。

つまり、いつものように空気穴さえしっかり確保すれば、土中を避難場所にするのも意外とありかもしれない。今回は意識がある分、土の中に埋まるというのは怖いかもしれないが、狭い土の中は例の悪癖対策にもなるのではないだろうか。
なまえは少し開けた場所に出ると、試しに足元の土を掘ってみることにした。木から離れているので根っこにぶつかるようなことはないものの、土が予想以上に固くて全然掘り進まない。せめてシャベルのようなものがあればよかったのだが、さすがに素手だけで人が入れる深さと広さに掘るのはかなり大変だろうと思われた。

「周が遣えたらなぁ……」

周でその辺の木の棒でも覆えば、これくらいの穴掘りは随分と楽になる。道具を使わずに硬でそのまま手を強化してもいいが、パンチで穴を開けるようなことをせず、なるべくなら静かに掘りたいものだ。

なまえは手近な長さの木の枝をぽきりと折ると、それを何本も一纏めにして握りやすい太さにする。それから大きめの葉っぱをその先端に結び付け、葉に折り目をつけて形を整えた。「一瞬……一瞬だけなら、大丈夫かな」イルミは確か、発ほど高密度までオーラを高めれば指輪が爆発すると言っていた。周は纏の応用技とはいえ、オーラの量は多少加減が効くし、爆発の前には痛みを与える警告段階もある。試すだけ試してみて、無理だと思えばやめればいいのではないか。自分の念を遣える限界を知ることも、この指輪を攻略するヒントになるかもしれない。

なまえは来る苦痛を想像し、すうはぁと大きく深呼吸する。それからまずはごくごく薄いオーラの層を自分の身体と即席のシャベルに纏わせてみた。途端に全身を押しつぶされるような痛みが襲ってくるが、ゾルディック家の修行のお陰か、この程度ならば耐えられないことはない。問題はシャベルのほうの強度で、土に突き刺すことは可能ながらも素晴らしく作業が楽になるわけではなかった。葉っぱで固い土を掘れるのはすごいことなのだが、せいぜいプラスチック製の手持ちスコップ程度しか役に立たない。それではあまり大変さは変わらないのだ。

「うーん、やっぱりもうちょっと……」

恐る恐るオーラを濃くしてみるが、やはり一定のオーラ量を超えたあたりで、立っていられないほどの激痛が走る。図らずも地面に伏せる格好となったなまえは、自分の惨めさとあまりの不自由さに段々腹が立ってくる始末であった。

爆発って、本当になんなんだ。いっそ指輪の効果が強制絶状態なら一思いに諦められたのに、痛みに耐えれば少しは遣えるというこの状況が返ってもどかしくて仕方がない。やはり術者の性格がとことん捻じ曲がっているのだろう。
イルミの、あの飄々とした表情を思い浮かべたなまえは苛々して、伏せたままドンと強く地面を叩いた。それからハッとしたように、今叩きつけたばかりの自分の拳をしげしげと眺める。

「そっか、本当に掘る一瞬なら……」

オーラは術者の体内、体外をめぐるもの。
そのため、イメージとしては膜や湯気のように繋がった状態を想像するが、実際には応用技の硬で使う通り、部位ごとにオンオフの切り替えが可能な代物である。
今回なまえが行いたい周は纏の応用技であるため、道具を身体の一部としてその周囲を常にオーラで覆うようなイメージをしていたが、実際念による強化が必要なのはシャベルが土に触れる瞬間だけ。つまり今回の場合、要となるのは流の技術。纏うオーラは極最小でいいので、インパクトの瞬間だけすばやくオーラ量を変化させればいいのだ。幸いにも、先ほどの練習でオーラ量による痛みの上限下限は把握できた。瞬間的な痛みなら、耐えきって見せる。

なまえはゆっくり立ち上がると、ごく薄いオーラの層を身にまとう。それから足を肩幅に開くと、腰を落として「はっ!」という掛け声のもと、即席のシャベルを深く土に突き刺した。もちろん、シャベルが土に触れる瞬間、流れるオーラ量を増大させている。

「っ、やった!できた!」

襲い来る痛みにぐらり、とよろけそうになるが、前みたいに倒れ込むほどではない。肝心の地面の方は、歪ながらも巨獣が残した爪痕のように深く抉れていて、なまえは思わず歓喜の声を上げた。

「なにやってんの」
「ひっ!」

喜びに打ち震えていたのも束の間、後ろからいきなり声をかけられなまえは息が止まりそうになる。確かに目の前のことに夢中になりすぎていた。慌てて振り返れば、この島におけるもう一人の死神。なまえは最悪の想像に身を強張らせた。「な、んで……まさか私がターゲット?」そういうことなら彼が三次試験で見せた、謎の温情など関係ない。
けれどもイルミはなまえの質問に対し、自身の左手を掲げて見せただけだった。

「違うよ。オレはとっくに集め終わって寝てたところ。でもなまえが念を遣ってるってわかったから、自殺でもする気なのかと思ってさ」

どうやら彼はなまえの様子を見に来ただけらしい。対になった指輪は、念の使用をなまえに警告する一方でイルミに通達する機能もあるのか。とことん念入りな設計に呆れるも、イルミのターゲットがなまえでないのならどうでもいい。今回なまえは別に、自殺をするつもりで念を遣ったわけではないのだ。

「自殺なんてしない。私もプレートを集め終わったから、隠れようと思ってたところ」
「土の中に?」
「そうだよ」

イルミの視線が無残に抉れた地面の方へ向いて、なんだかなまえはいたたまれなくなる。表情こそいつも通りの能面だが、いいとこ育ちのイルミはきっと内心でなまえのことを馬鹿にしただろう。

え、土の中で寝るの?流星街のやつってモグラみたいだね。あ、そうか、家がないから仕方ないのか。

そんな被害妄想を脳内で繰り広げたなまえは、ついつい目の前のイルミに敵意のこもった眼差しを向けてしまう。もっともイルミは慣れっこになっているのか、なまえに睨まれても特に何も感じていないようであった。

「本当なら“身体だけ”埋めて隠したいところだけど、生憎そこまでの念は今遣えないから。あなたがこれ外してくれるっていうなら話は別だけど」
「冗談」
「あ、そ。わかったのならもういいでしょ。放っておいて」

なまえは自分で先に睨んでおきながら、ふい、とすぐに視線を反らした。やっぱりイルミの顔は見たくない。イルミの顔を見ていると、あの夜の失態を思い出してしまって耐えられないのだ。「だいたい私が自殺したところでどうでもいいじゃない」そのせいで普段の冷静さもどこへやら、言わなくていいことまで口走ってしまった。

「なんでそんな怒ってるの?」
「別に怒ってなんかない」
「うそ、怒ってるよ。だってなまえは普段嫌味っぽいけど、怒るとストレートな物言いになるから」
「……」

そんな自分の癖など知りたくもなかった。しかもそれを指摘してきたのが自分を長らく目のかたきにし、何度も殺そうとした男だなんて何かが間違っている。「なんなのよ……一体」なまえは一向に立ち去る気配のないイルミに、とうとう我慢ができなくって感情をぶつけた。

「あなたのこと、ちっとも理解できない。一体何を考えてるの?」
「それはこっちの台詞でもあるね。オレもなまえが何を考えてるのかさっぱりだよ」

向かい合ったイルミは、別になまえをからかっているわけではないようだった。いつも通りの真顔で、心底不思議そうに首を傾げている。
そこには今まで何度も向けられていた敵意や嫌悪は一切なく、口論になるつもりで身構えていたなまえは肩透かしをくらったような気分だった。

「……もう一度だけ聞く。三次試験で、どうして私を殺さなかったの?」
「何度聞かれても同じだよ。あの場でオレにお前を殺すメリットがない」
「じゃあ……メリットがあれば私を殺す?」

なまえの母親はメリットがあったからなまえを産み、そして殺そうとした。血の繋がった母親ですらそうだったのだから、他人で、ましてや敵対していたこの男がなまえを殺さないだなんてそんなことがあっていいはずがない。「うん」誤魔化しは無意味だとでも言うようにイルミを睨みつければ、彼はなまえの期待通りにあっさりと頷いた。
頷いて、それで終わればよかったのに、イルミはその後も言葉を続けた。

「と、言いたいところだけど、家族は殺さないよ。家族はね」
「……っ、私はあなたの家族じゃない!」
「今は違っても、いずれそうなる」

自信たっぷりに告げられた言葉に、頭がくらくらした。もちろん、ときめきや羞恥なんてそんな可愛らしい理由ではない。なまえのこれまでを覆すようなことを、なまえがずっと心の底から望んで、それでも手に入らなかったものをあっさりと差し出され、どう反応していいのかわからなかったのだ。

家族だなんて、そんなものまやかしだ。そんな簡単に手に入るはずがない。
初めから全てを持っているこの男には、なまえの気持ちなどわかるわけがないのだ。

そう思うと、再び彼を憎いと思う感情がぶわりと湧き上がった。
初めてゾルディック家で会ったあの日、縄張りを守らんとするような彼の瞳が、排斥される立場のなまえにはものすごく憎かったのだ。そして同時に、守るべき家族がある彼も、彼に守られる家族も、どちらも心底羨ましかった。

「オレからも一つ質問いい?」

しかしイルミはそんななまえの内心の荒ぶりも知らず、いつものように飄々とした態度で会話を続けた。一応は確認のていこそとっているが、なまえが良いとも悪いとも言わないうちから好き勝手に喋りだす。

「もしかしてオレって、なまえの母親と似てたりする?」
「……は?」
「寝言かなんだか知らないけど、お前がそう言ったんだよ。
 で、なまえが初めからオレのこと嫌ってたのって、そういう理由かなって」
「全然違う!」

イルミの質問は、今なまえが二重の意味で最も触れられたくない話題だった。あの夜の醜態を取り上げられるのも嫌だし、母親の話などもってのほかだ。しかし頭に血が上れば上るほど、いつもは自分でも小賢しいと思うほどよく回る口がちっとも動いてくれなかった。

「そうなんだ?じゃあどうしてそんなにオレを敵視してたわけ?」
「……質問は一つって言ったじゃない」
「あ、それもそうか。うーん、まぁいいよ」

そう言って顎に手をやって自己完結した彼は、それで、となまえがぐちゃぐちゃに掘ってしまった地面を見る。「そこで寝ることは確定?」抉れ具合は合格だが、今のままではあまり寝床としてふさわしくない。内心ではもう少し試行錯誤が必要だと思っていたが、なまえは意地になって頷いた。

「そう言ったでしょ」
「ちゃんとしっかり埋まるんだよ。お前は寝相が悪いみたいだから」
「……ほんっと最悪。どっか行って」
「はは、わかったよ。じゃあこれはサービス」

そう言って地面にかがみこんだイルミは、その手でざくざくといとも簡単に穴を掘る。なまえのとは違い、綺麗に人一人分の空間を作った彼は、満足したように「うん」と頷いて立ち去った。

「ほんと、なんなのよ……一体」

その後ろ姿はすぐに闇に溶けて見えなくなったが、その後もなまえは長いこと彼が去った方向を睨みつけていたのだった。

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