- ナノ -

■ 29.幼子

イルミがベッドに横になると、しばらくしてからなまえも諦めたのか壁際に移動した気配がした。別にベッドはちゃんと2台用意されていたのだが、彼女はイルミに近づくのも嫌らしい。まぁ、それはともかく寝首をかこうとしなかったのは賢明な判断だった。彼女が眠りについたのを確認して、イルミは浅いまどろみに身を委ねる。

しかし、それから2時間もしないうちだ。
なまえの起き上がる気配に、嫌でもイルミは覚醒する。眠れないなら眠れないでじっとしていればいいものを、落ち着きのない奴だと忌々しく思った。立ち上がって部屋の中を歩き始めた彼女の気配を感じつつ、イルミは布団をかぶったまま無視をする。けれども次にすすり泣きが聞こえてきたときは、さすがに無視をしきれなかった。

「なまえ……?」

ここには二人しかいないはずなのだから、この声の主はなまえでしかありえない。だが、今まで脅したり殺したり色々やったが、イルミはなまえが泣くのなんて見たことがなかった。
思わず身を起こしたイルミは、そこでようやくなまえの姿を視認する。彼女は指令が書かれた額の前で棒立ちになり、そこで迷子の子供のようにすすり泣いていた。

「……なにやってんの?」

いくらイルミが不測の事態に動揺しないといっても、この状況は理解できない。戸惑いながらとりあえず声をかけてみるが、なまえは泣くだけで返事を寄越さなかった。「ねぇってば」ふてぶてしい態度には慣れているが、こういう場合はどうしたらいいのかわからない。そもそも彼女がなぜ突然泣き出したのかもわからないのだ。

イルミは仕方なくベッドを降りて近づいていき、なまえの顔を覗き込んだ。上を向かせても彼女は別に抵抗するわけでも恥ずかしがるわけでもなく、ただぽろぽろと涙をこぼし続けている。その瞳はどこか虚空に向けられていて、イルミの存在にまるで気づいていないようだった。

そんななまえを見てようやく、イルミはなまえが“普通でない”状態だと気付いた。誰かに操作でもされているのかと目を凝らして彼女を上から下まで眺めたが、オーラを強く感じる部分はイルミが渡した指輪くらいのものである。

「なまえ、オレがわかる?」

肩を掴んで強めに揺すると、緩慢な動作でなまえはこちらを見る。そして何を思ったのか、いきなりイルミに抱き着いた。

「おかあさん」
「は?」

咄嗟のことで受け止めてしまったが、こいつは何を言っているのか。そこまで気にしたことはないが自分が女顔だという自覚があるイルミとしては、笑えない冗談だ。少しも気にはしていないが、いくら寝ぼけていたってその間違いはないだろうと思う。
けれども、内心イラつきながら、イルミはなまえを引きはがすようなことはしなかった。なぜかは自分でもはっきりしないが、抱き着いてきたなまえが不思議なことに泣き止んだからかもしれない。まだ涙の跡の残る頬を晒しながらぎゅっとこちらにしがみつく彼女を見ていると、不本意ながらキルアの小さい頃を思い出した。今も昔も兄弟の中で一番手がかかる子供だったキルアには、ぐずって夜泣きのようなことをする時期もあったのだ。

「……寝ぼけてるにしても酷すぎるよね」

キルアにやっていた癖でそっとなまえの頭を撫でてやると、彼女は満足したように目を閉じた。そしてそのまましばらくそうしていると、すやすやと穏やかな寝息が聞こえてくる。イルミの腰のあたりに抱き着いたまま、どうやらなまえは眠ってしまったらしい。もたれかかるように不安定になるなまえの身体を支えたイルミは、仕方なくその場に座りこんだ。いくら彼女が掴んで離さないとはいえ、イルミがどうしようもないと諦めるほどではないのに、不思議としがみつかれて悪い気がしなかったのだ。寝ている彼女にはいつものふてぶてしさも、敵意もなにもなかった。

翌朝なまえが目覚めたときには、全てが元通りの、いやそれ以上の険悪さだったが。



「そろそろオレもプレート探さないと」

ゼビル島での四次試験が始まって2日目。
初日は三次試験を残り5時間というタイムで突破したためかなりの後続スタートだったが、同着だったなまえは番号順でイルミよりも先に出発することになった。昨日からずっと彼女の気配を探っているものの、今のところ特に問題はない。あの奇行を警戒してなまえは昨晩眠らなかったみたいだが、トリックタワーでの彼女の反応を知るイルミは、それもそうだろうな、と一人愉快な気持ちになっていた。


混乱、驚愕、羞恥。
目覚めたなまえが見せた感情は、どれも珍しいものばかりだった。というか、普段はだいたい憎悪や嫌悪しか向けられていないので、真っ赤になって震える彼女が酷く弱い生き物のように見えた。

――大丈夫だったはずなのに

うわごとのように何度もそう繰り返した彼女は、きっと自分が眠った際にどうなるか全く知らなかったわけではなかったのだろう。今更になって、彼女の家に侵入した際、ドアの内側のノブにチェーンが巻かれていた理由がわかった。きっとゾルディック家にいたときも、同じような手段をとっていたのだと思われる。

しかし睡眠中に移動する癖のある彼女も、まさかイルミの腕の中で目覚めるとは思わなかったに違いない。抱き着いてきたのはそちらだと言っても、起きている間はずっと近寄らないで!と言われ続けて、正直ものすごく面倒だった。面倒だったのに、なんだかんだでその後の夜もこっそり彼女を寝かしつけていた。流石に起きた彼女に言いがかりをつけられるのは嫌だったので、明け方頃にはちゃんと引きはがして元の位置に寝かせておいたが。


そんなことを考えながら移動していると、ちょうど視界の先のほうにイルミはターゲットの男を見つけた。371番――名前までは憶えていないが、イルミは全員分の受験番号と顔を一致させられる。男の進行方向からして、おそらくこの辺唯一の水場に向かうのだろう。四次試験は1週間もの間、島に身を潜める必要があるので、普通の人間は水場の近くで待っていればいつかは必ずやってくる。
運がいいな、と考えてスピードを上げ、先回りをすることにした。そしてその結果が、思わぬ男の懇願である。


「……プ、プレートは差し上げる。しかし、死にゆく俺の最期の願いを聞いて、ここは一度見逃してもらえないだろうか」

男は格上のイルミを見ても、逃げることなく真っすぐに立ち向かってきた。おそらく根っからの武闘派タイプなのだろう。お陰でイルミは簡単にプレートを奪うことができたが、どうせ命乞いをするなら初めにやれば助かったのに、と呆れた気持ちで男を見下ろす。

「別にいいけど。でも、その傷じゃどうせ長くはもたないんじゃない?」
「か、構わないんだ、感謝する。私は武人として、どうしても死ぬ前に戦ってみたい男がいるのだ」
「そう」

男は”ギタラクル”が喋ったことに驚いたようではあったが、血の滴る身体のまま、感謝してどこかへ去って行った。男がこんな状態になってまで戦いたいという相手は何となく想像がついたが、今はそれより先に片付けるべき”敵”がいる。男の末路を見届けるのは、あそこで銃を構えている奴を殺してからでいいだろう。

イルミはひらりと跳躍すると、こいつは殺しちゃっていいかな、と考えた。


▽▲

「ボクさぁ、死人に興味ないんだよね。
 キミ、もう死んでるよ。目が」

バイバイ、と呟いて、戦意はないとばかりに切り株に腰をかけたヒソカを見て、あれはダメだな、とイルミは行動を起こした。わざわざ男を追いかけてまで成り行きを見に来たのはほんの気まぐれだが、気まぐれの分はきっちり責任を取る必要があるだろう。

「ごめんごめん、油断してて逃がしちゃったよ」

男の顔面に針を飛ばし、今度こそしっかり絶命させたイルミは、そんなわざとらしい嘘をつきながらヒソカの前に姿を現した。ヒソカはというと特に驚いた様子もなく、小さく肩を竦める。そんな彼の周りにも多くの紅血蝶が飛び交っていて、三次試験のダメージはまだ残っているようだった。

「ウソばっかり。
 どうせこいつに戦いたい相手がいるからって、命乞いでもされたんだろ?どうでもいい敵にまで情けかけるのやめなよ」
「だってさ、可哀想だったから。どうせ本当にすぐ死ぬ人だし、ヒソカ相手なら多少は面白いかなと思ってね」
「面白い?こんな奴相手にもならないよ」
「うん。だからだよ。ヒソカ嫌がるかと思ったんだけど、嫌がる以上に無視されちゃったからな。残念だよ」
「そ……、キミもなかなかイイ性格してるねぇ」

ヒソカはふぁあ、と大きなあくびをすると、で、プレートは?と首を傾げる。戦ってくれと言ってきた男を無視したくせに、彼の胸にプレートがなかったことはちゃっかり確認しているらしい。つくづく調子のいい奴だと思ったが、まだヒソカの点数が集まってないのなら、不要な分はくれてやってもいい。

「あるよ。その男のでオレは6点になったから、こっちのプレートはあげる」
「80番か……これ誰の?」
「オレを銃で狙ってた奴。そっちはむかついたから殺しちゃったけど」
「ふぅん、どうせならなまえにあげればよかったのに」

イルミとしてはもう自分のプレートを集め終わったので、後のことはどうでもよかった。この試験内容ならばキルアが落ちることはないだろうし、放っておいて構わない。期日まで寝ようと思って針での変装も解いたのだが、ヒソカの言葉にぴたりと動きを止めた。

「……どうせなまえはオレからの施しなんて受け取らないよ」
「相変わらずだねぇ。少しは仲良くなったかと思ったのに。
 三次試験、一緒だったんだろ?」
「別に何も変わりないけど」
「そうかな、キミにしてはいやに時間がかかっていた。それに、ゴールした時のなまえの様子もおかしかったし」
「あの女がおかしいのはいつものことだよ」

本当にこいつは要らないところで察しが良くて困る。しかしイルミはなまえの”アレ”について話すつもりはないので、いつも通りに白を切った。前にも言ったが、家族になる者の情報を漏らす気は無いし、なまえの”アレ”を知っているのは自分だけでいいとも思う。余計な詮索はやめろと言ったはずなのに、どうしてこうもしつこいのだろう。
イルミはヒソカの存在を無視して、ざくざくと土を掘って眠る準備を始める。なんとなくこいつにだけは、イルミが夜になまえを監視していることを知られたくない。

「じゃ、オレは期日まで寝るから頑張ってね」

それだけ言うと土の中にすっぽりと収まり、もう出てこないという意思を表明する。ヒソカだって流石に馬鹿ではないので、キルアやなまえのプレートを狙うようなことはしないだろう。


今日の夜も、大人しくしてればいいけど。

イルミは暗がりの中、静かに目を閉じる。
すっぽりと収まった即席の個室の中は、泣きつかれた後のなまえの頬のようにしっとりと湿っていた。


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