- ナノ -

■ 28.安らぎの道

――きっとどこかに下へと通じる扉があるはずだ

そう言われても、上は快晴、左右は絶壁、とくれば残るはコンクリートの床を地道に探していくしかない。
そうして、なまえは今まさに、”下へと通じる扉”に落ちてしまった。手分けして探したほうが効率がいいだろうと思っての別行動だったが、結局彼らに何のヒントも伝えられないままはぐれたというわけである。「いてて……」せっかく昨日、湿布を貰って痛みが和らいでいた足も、着地のダメージにズキンと痛む。最悪なスタートだ。というか、ここはどこなのだろう。中は塔の外観と同じコンクリートブロックでできた小部屋になっていて、特に出口らしきものは見当たらない。

あるのは一台の監視カメラとそれから、何やら壁に額装された文字が掲げられているだけだった。

「安らぎの道……?」

タイトルよろしくでかでかと書かれた名前の下に、説明文がついている。

【君たち2人にはここからゴールまでの道のりを協力して目指してもらう。その間、襲い来る100人の敵に眠りと安らぎを与えること】

なまえは何度もそれを読み返してみたが、さっぱり意味がわからなかった。ルールはこんな抽象的な形ではなく、もっとはっきりと書くべきだろう。
そもそも、”君たち2人”と言われたって、ここにはなまえしかいない。まさかもうひとり誰かがここへ落ちてくるまで、大人しく待たなければならないのだろうか。

「はは、都合がいいね」

しかしそんなことを考えていると、不意に後ろから声がかけられる。なまえが飛び上がるようにして振り返れば、そこには”ギタラクル”ではなく”イルミ”が立っていた。

「な……」
「いつの間に、って顔してるね。でも先に待たされてたのはオレの方なんだよ。どんな奴が来るかわからないから気配を消してたけど、なまえなら変装もしなくていいしラッキーだな」

イルミはそう言って、こきり、と首を鳴らした。
部屋に落ちた時点でなまえも一応周囲を確認したつもりだったのだが、さすがはプロの暗殺者ということだろうか。ここが”協力する”道でなければ、何もわからないまま殺されていたかもしれない。便宜上、キルアの監視役として放り込まれてはいるものの、何度も殺されかけた過去を踏まえ、なまえはちっともイルミのことを信用してはいなかった。

「カメラあるけど、いいの?」
「協会の人間は問題ない。そもそもライセンスは本名で発行してもらうし、うちのじーちゃんだってあの会長と知り合いなんだよ」
「そう。ハンターって仕事も随分適当なものなんだね。あなたとか、ヒソカみたいな奴にも受験資格があるんだから」
「戸籍のない、”存在しないはずの”なまえにもね」
「……」

嫌味を言えば嫌味で返され、なまえは早速気分が滅入る。昨晩、クラピカやレオリオと屈託のない時間を過ごしただけに、余計にこの男の”毒”が強調されるのだ。
しかし、試験を突破するという意味ではイルミと一緒でラッキーだったのはなまえも同じ。聞かなかったふりをして、「で、どうしたらいいの?」と話を変えた。

「その額の裏側に、右手の手形が2つある。2人そろった証拠としてそこに手を重ねれば、どこかしら道が開いて敵が出てくるって感じじゃない?」
「じゃあ眠りと安らぎを与えるっていうのは?」
「普通に考えて死。もしくは気絶ってとこ。こればっかりは協会側が用意した人材によるね」

死を与えるというのは全然普通の考え方ではないが、イルミにとってはそうなのだろう。とはいえ、なまえも他の解釈が思いつかなかったので、ひとまず言われた通りに額の裏を確かめてみる。そこには確かにイルミが言った通り、人間の手の形の窪みが2人分あった。

「……じゃあ、置いてみる?」

なまえが恐る恐る手を伸ばせば、それより先にイルミが何の躊躇いもなく手形に重ねる。一瞬、罠だったらどうするのか?という思いがよぎったが、彼ならば罠だとしてもどうということもないのだろう。
窪みに2人の手がはめられると、壁の一部が音を立てて開き、新しい道が解放された。

「何ぼうっとしてるの?行くよ」
「う、うん」

イルミに促され、なまえは素直に頷いてしまう。試験とはいえ、イルミと協力するなんて不本意でしかなかったが、見ず知らずの人間よりは得体が知れているだけ思考も行動も読みやすかった。

この男は自分の家族にさえ手を出されなければ、そうそう感情的になるタイプでもない。いつも冷静で自分に自信があって、息子として、兄として完璧な役割をこなしている。自分の居場所を確立して、手の届く範囲は全部自分の物だと思っている。

なまえは目の前のすっと伸びた背中を見ながら、そういうところが嫌いだ、と心の中で呟いた。


△▼


100人の敵、と称されたのは、正式なハンターでも協会側が雇った力自慢でもなく、囚人服を来た男達だった。しかしまさか衣裳だけ揃えた一般人ということはないはずだから、本当に彼らは罪を犯した人間なのだろう。
最初にたどり着いた部屋にはまず10人が待ち構えていて、彼らはなまえとイルミを見るなり、下卑た歓声を上げた。

「ようこそ、安らぎの道へ、お二人さん。待ちくたびれたぜ」
「へへっ、女がいるなんて当たりだな」

男達はぐるりとこちらを囲むように立ちはだかる。なまえも今は念が遣えないのであまり人のことは言えないが、彼らはどうみても能力者ではない雑魚だ。イルミは黙ってなまえのほうをちらりと見ると「これなら、なまえにも少し働いてもらおうかな」と言ってのけた。

「えっ!?全部やってくれるんじゃないの?」
「ほんとはそのほうが早いんだけどさ、なまえに楽させるのも癪だと思って」
「私、あなたのせいで今ごく普通の人間なんだけど」
「多少はうちで修行してたんでしょ?うちの嫁としてどこへ出ても恥ずかしくないようにって言ってた成果を今こそ見せるときじゃない?」
「そんな……」

冗談でしょ?と言いたいが、残念ながらイルミが冗談なんて言う男ではないことくらい、嫌というほど知っている。なまえは観念して深いため息をつくと、覚悟を決めた。

「ぎゃははは、お嬢ちゃん可哀想になぁ。まぁ安心しろよ、そっちの男より俺たちのほうが優しくしてやれるぜ?」

そう言って、無遠慮に後ろから伸びてきた男の手。なまえはそれが肩に触れるか触れないかのところで、逆に男の手を掴んで腕ごと引き寄せる。そして、男が前のめりになったところで足を払い、そのまま一本背負いの要領で地面に叩きつけた。「ぐはっ」ここがコンクリートでできた床だというのも効いたようだ。頭を打った男は簡単に伸びてしまい、場は水を打ったような静けさに包まれた。
だがここにいる囚人たちは、もともと血気盛んな者ばかりを集めている。すぐに「やっちまえ!」と誰かが叫ぶ声が聞こえた。

――ここから先は乱闘だ。

なまえが構えると、男達が束になって掛かってくる。もともと仲間意識なんて持っていないだろうに、それでも同じ囚人が女にやられたとあってはプライドを傷つけたのかもしれない。「イルミ!」正直、この数は今のなまえが一人で相手取るには厳しい。そっちも働けという意味を込めて名を呼べば、なぜかイルミは少し驚いたように眉を上げた。

「言われなくてもわかってる」

しかし、イルミはすぐ元の無表情に戻ると、その手の中から幾本もの針を飛ばした。いっそ小気味よいくらいに男たちの眉間を刺し貫いたそれは、確実に命を奪っているだろう。なまえがようやくもう一人を手刀で沈めた頃には、もはやなまえとイルミ以外その場に立っている者はいなかった。

「……やっぱりイルミがやったほうが早くない?」
「初めて」
「え?」
「初めて、オレの名をちゃんと呼んだね」

何のこと、と思ったが、そう言われるとそうかもしれない。なまえは基本二人のときには二人称で彼のことを呼んでいたし、いくら呼び捨てしろと言われても彼の家族の前では頑なに”さん付け”していた。しかし先ほどのような場面で”あなた”と言うのは夫婦みたいで虫唾が走るし、かといって嫌味でもない場面で”さん付け”するのも腹立たしい。ただそれだけの理由でなまえはイルミ、と呼んだに過ぎなかったが、呼ばれた側のイルミはかなり驚いたみたいだった。まじまじとこちらを見てくるのがとても煩わしい。

「呼び方なんてどうでもいい。それより、ほんとにこの先、私も戦わなくちゃいけないの?」
「できないって言うんならいいよ。足手まといは休んでれば」
「……できなくはない」

本当は挫いた足が痛むが、そんな言い方をされれば引き下がるわけにはいかない。正直なところ上手く乗せられている気がしないわけでもないものの、それでもこの男に弱みは見せたくなかった。「そう、じゃあ大丈夫だね」イルミはわざわざなまえが倒した男に近づいて、確認するためにかがみこんだ。

「で、殺さなかったのはわざと?」
「さすがに素手では厳しいだけ」
「だったら家に帰ったら、そっち方面の修行もしないとね」
「ゾルディック家の嫁だから?」
「そう」
「……ならないって言ってるでしょ」

いい加減にしつこい。本当に結婚で家に貢献したいなら、なまえなんかよりちゃんと暗殺一家の娘を貰ったほうがよほど即戦力になるだろう。嫌がらせもここまでくるとむしろ感心する域だ。
けれどもイルミはそんななまえの抗議を無視して、あ、次の扉が開いた、と部屋の奥に視線を向ける。確かに彼の言う通り下へと降りる階段が続いていて、おそらくこの先もこの部屋みたいに囚人たちと戦わされるに違いなかった。
それでもまぁ、初めに100人と言われているだけ気分的に随分楽だ。この調子ならば72時間なんてかからずに、三次試験もさくさくクリアしてしまえるだろう。


しかし、そんななまえの想像は甘かった。
100人を倒すこと――それ自体も確かにこの試験の課題であるが、ハンター試験は単純に戦闘力だけを問うものではない。
その証拠に、囚人を100人倒してもゴールに続く道は開かれなかった。
代わりにたどり着いたのは、半分が簡素なベッドや生活用品が置かれたごくごく普通のスペースと、もう半分が様々な種類の武器が置かれた物騒なスペースに分かれている比較的広めの部屋。そしてその部屋の突き当りには、残り時間を表示するデジタル時計と、スタート地点のように額に入った文章が掲げられていた。

「なにここ……」
「さぁね。でもまだ試験は終わってないみたいだよ」

今までとは明らかに様子の違う部屋に、二人は警戒しながら入っていく。新たな指示と思われる文章には、次のような内容が書かれていた。

【ここは”安らぎの道”の最終ステージだ。
 最後にこれまで協力してきた君たちには選択をしてもらう。
 1)パートナーに”安らぎ”を与える
 2)今まで殺した囚人の数×1時間、ここで2人で”安らぐ”
 1)を選択した場合、片方は直ちにゴールに到達でき、試験は合格となるが、もう1人は生きていたとしても試験終了時刻までこの部屋から出ることはできない。
 2)は2人で脱出が可能である。なお、殺していない囚人の数はボーナスとして、1人当たり30分の待機時間短縮が可能】

最後まで読んだなまえは、自分の全身が心臓にでもなったような気分だった。嫌な汗がこめかみを伝い、自分の心音が爆音で聞こえるだけ。こんなの、選択も何もない。そもそも与えられた制限時間は72時間だというのに、1時間のペナルティーとなる囚人を100人用意しているのが無茶な話だ。もはやなまえにはイルミがいったい何人殺したのかわからない。わかるのはただ一つ、この男はハンターライセンスを必要としていて、そのためならば躊躇いなくなまえを殺せるだろうということだけだった。

「残り時間は69時間か……」

何気なく呟かれたイルミの言葉に、嫌でも緊張が走る。戦闘になれば勝ち目がないのはわかりきっていた。確かになまえは育った環境のせいで人よりは死に対する恐怖が少ないが、ただ死ぬことと殺されることはまた別である。しかもイルミはなまえのことを嫌っている。殺すにしたって、楽には死なせてくれないだろうということは容易に想像できた。

「うん、じゃあ仕方ないね」

やがてイルミは決断を下したのか、そう言ってこちらに向き直る。なまえはごくり、と息を呑んだが、今更どこにも逃げ場なんてないことくらいわかっていた。とはいえ、無抵抗で殺されてやる気にもなれなくて、大量に置かれた武器の中から切れ味鋭そうな斧を取って構える。それを見たイルミはまたもや眉を上げて、驚いたような表情になった。

「え、」
「……無駄だって言いたいんでしょうけど、悪あがきくらいはするから」
「いや、なんで戦う気でいるの?」
「は?だって、仕方ないって言ったじゃない」

斧を握りしめたまま、なまえはイルミを睨みつける。正直、彼には念の指輪を爆発させるという奥の手があるので、なまえのこれは本当に悪あがきでしかない。しかし彼はなまえの言葉を聞くと合点がいったとばかりに、大きなため息をついてみせた。

「あぁ、勘違いしてるよ。仕方ないって言ったのは、足止めのこと」
「……じゃあ、2を選ぶの?でも、それじゃ間に合わないかもしれない」
「間に合うから言ってる。計算したんだ。オレが殺したのは76人、だから残りはなまえが気絶させた24人。
 69−76×1+24×0.5=5時間。2を選んだとしても問題なくこの試験を突破できる」

イルミはまるで物わかりの悪い生徒に教えるように説明してみせたが、なまえとしては納得がいかない。今やもう恐怖心はすっかり掻き消えていたが、代わりによくわからない怒りが胸の内から沸々とわきだしていた。

「殺した人数を覚えてるって言うの?」
「信じられないなら来た道を戻って死体の数を確認してきなよ。オレはここで休んでるから」
「……」

確かにイルミの言う通りの数ならば試験終了に間に合う時間だが、このタイムが次の試験に影響しないとも限らない。なまえはイルミが自分を殺すものだと思い、覚悟を持って刃を向けたので、あっさりと背中を向けられたことが許せなかった。どうしようもなく馬鹿にされたような気分だ。
そもそもイルミはなまえのことが邪魔だったんじゃないのか。仕事でもないのに表立ってなまえを殺せば、母親たちから非難されるというのはわかる。しかし試験中の事故を装えば、その死は仕方なかったといくらでも取り繕えるではないか。

「なんで殺さないの?」

なまえは死体の数を確認しに行く代わりに、既にベッドの方へ向かったイルミに向かって疑問を投げかけた。

「殺さなくても間に合うのに、殺す意味ある?」
「囚人たちは殺したじゃない」
「いくらオレでも、さすがになまえのことは囚人より上だと思ってるけど」
「そういうことじゃない。大手をふって私を殺せるせっかくのチャンスだっていうのに、なんで殺さないのって聞いてるの」
「だって、オレになまえを殺すメリットがないよね」
「あるよ!この残り時間だって次の試験に影響してくるかもしれない!」

現に殺した人間の数まで、試験に影響してきている。早く通過した者がそれだけ次の試験で優遇されるというのは大いにあり得る話だった。けれどもイルミはさっさとベッドに腰かけると、面倒そうに髪をかき上げる。

「うるさいな、そんなに殺されたかったの?」
「違う。でもあなたとこの先64時間も一緒なら死んだほうがマシかもって思っただけ」
「そう、だったら死ねば?」

イルミはそう言うと、なまえが未だに武器を手にしているにも関わらずさっさと眠る体勢に入る。とことん人を舐め切った態度だ。それを見て腹立たしさが頂点に達するが、結局ここでもなまえに選択権などない。イルミが寝ていても、なまえに武器があっても、やっぱり彼には勝ち目がないからだ。

なまえはしばらくその場で斧を握りしめていたが、やがてそっとそれを手放した。今はこれから先のことを考えたほうがいい。なまえは自分が寝た際に起こる悪癖を自覚していたが、さすがにこのくたくたの状態で69時間もの間眠らずにいられる自信がない。かといってここにあるのは武器かなんてことない生活用品ばかりで、なまえの身体を拘束できるようなものも特に見当たらなかった。

「最悪……」

呟いた言葉は、きっとイルミにも聞こえていただろう。なまえは彼から最大限距離を取るようにして、壁際に腰を下ろすと静かに目を閉じる。実際、命の危険がなくなったとわかると、脱力感と一緒に疲労感と睡魔が押し寄せてきた。

”アレ”は別に毎晩起こるような代物ではない。昨日は”アレ”が起こらなかったみたいだし、環境がいつもと違えば深い眠りに入らないだろう。大丈夫なはずだ。


そう自分に言い聞かせるようにして、なまえはゆっくりと意識を手放した。

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