- ナノ -

■ 24.価値と借り

走った距離は、スタート地点のザバン市からおよそ100kmほどだろうか。出口の明かりを見たヒソカはようやくつまらない試験から解放されると喜んだが、いざ外に出ても霧深い湿地が広がっているだけで特に目立つようなものもない。
結局、受験者の4分の3くらいが辿りついたところで背後のシャッターが無慈悲に閉まって、試験官のサトツがゆっくりとこちらに振り返った。

「ここはヌメーレ湿原、通称”詐欺師の塒”。
 二次試験会場にはここを通っていかなければなりません」

彼の説明では、ここには標的を騙して捕食する生き物が多く生息しているらしい。そして騙されないようにという注意喚起がなされた後、早速「ウソだ!」と大声で騒ぐ一人の男が乱入してきた。

「そいつはニセ者だ!試験官じゃない!オレが本当の試験官だ!」

男は人の顔をした猿の死体を引きずり、受験生を惑わす言葉を叫び続ける。中には何人か信じかけている者もいるようで、ヒソカとしては白けるばかりだ。これ以上、こんなところで道草は食いたくない。
どちらが本物の試験官なのか、一気に全員に理解させる方法として、ヒソカは実に簡単な方法を取った。

それが、男と試験官の両方に投げたトランプだったのである。


「これで決定。そっちが本物だね」

ヒソカはそう言って笑ってみせたが、内心ではもう別のことが気に掛かっている。実は、このタイミングでなまえにもトランプを投げてみたのだが、それはなまえに当たることなく、彼女の背後、霧の中へと消えていったのだ。しかし別に彼女の身体が透けているとか、そういうオカルトちっくな話ではない。単純に彼女の腕を引いて、転ばせた者がいるのだ。それがあまりの速さだったので、周りには単になまえがよろけたように見えたのだが、ヒソカはしっかりと”ギタラクル”と目が合っていたのだった。

「おいおいなまえ大丈夫かぁ?まだまだ先はあるみてぇだぞ」
「う、うん。ちょっとぐらっと来ただけ」

なまえ本人も驚いたらしくしばらくぽかん、としていたが、やがて隣のサングラスの男の手を借りて立ち上がる。ちょっと、と言うがイルミはかなり思い切り引っ張ったみたいで、彼女は左足を挫いたようだった。

「確かに、試験官に抜擢されるほどのハンターがあの程度の猿に騙されるはずがないだろうな」
「その通りです。しかし、44番の方。次からはいかなる理由でも、私への攻撃は試験管に対する反逆行為とみなして即失格とします。よろしいですね?」
「はいはい」

死んだ男の身体は、すぐさま鳥たちの餌となる。これから先起こるのが命がけの騙しあいであることを身をもって証明した男の姿に、受験生たちは再度気を引き締めなおしたようだ。

そしてサトツ走り出したことで改めてスタートする一次試験。
ヒソカは最後尾から、ゆっくりと受験者たちを追いかけることにした。霧が深いのはここの生物にとって暮らしやすい環境なのかもしれないが、どさくさに紛れて血を見たいヒソカにとっても好都合である。
さてと、と舌なめずりをしたところで、

「おい、なまえ、」
「……わかってる。キルアは先行って」

そんな切羽詰まったやり取りが、すぐ近くから聞こえてきた。

「先って、お前はどうすんだよ!?」
「私のことはいいって!」

どうやらなまえは先ほど挫いた足が痛むらしく、こんな集団の後方、声の聞こえる範囲にいるらしい。沼地で足場が悪いというのも、余計に効いているのだろう。
ちょうどいい。このままいけば集団から遅れたなまえと直接話せるかもしれない。
それにこれだけの霧と、湿原に住む生物の凶暴さを考えると、事故が起こってもやむを得ないといえるのではないだろうか。

「な、なんだぁ、キルアもなまえもいきなり?」

おぼろげなシルエットが、困惑した声を発している。ヒソカは獲物をいたぶるように、殺気を濃くしたりまた薄めてみたりを繰り返した。そうしていると他の受験者の何人かも気が付いたようで、走れる体力の残っている者はスピードをあげていく。

「この殺気がわからないのかレオリオ、これは、」
「ヒソカ、だね。さっき、試験官の人にトランプを投げた」

ご名答。ご丁寧に名前まで憶えてもらっていて、嬉しさもひとしおだ。子供の受験者は確かイルミの弟ともう一人、405番の少年だったか。彼らはヒソカの殺気に早くから気づいていたが、なまえの足を気にして先に進めないようだった。

「みんな気にせず走って!今すぐ!」
「そ、そういわれてもよぉ、これでも精一杯走ってんだぜ」
「キルア!わかるでしょ!行きなさい!」
「……っ、ゴン、」
「嫌だ。俺は行かない。みんなを残してはいけないよ」

なまえは必死でキルアを逃がそうとしているようだが、当のキルアは迷っているらしい。イルミの教育を考えると、ここはなまえを見捨てて逃げるのが賢い選択だ。だが、迷ってしまうようなキルアだからこそ、イルミは余計に過保護になるのだろう。
なまえは焦れたように、再びキルアの名を強めに呼んだ。

「ここでキルアが残っても何の意味もない!ヒソカに勝てるわけもないし、万一逃げ切れたとしても全員道を見失って終わりだよ。それなら今走れる人は走って道しるべを残して。それが今できる最善!」
「……くそっ、わかった。ゴン、」
「ううん。キルア一人で行って。なまえの言うことはわかるけど、俺は行かない。その代わりキルアはこれを持って行って!」

こんな霧の濃い沼地で、一体何を道しるべにしようというのか。生憎ヒソカが確認することはできなかったけれど、キルアはどうやら何かを受け取って走っていったらしい。
だんだんと彼の気配が遠ざかっていくのを確認したヒソカは、さて、と足に力を籠める。それから一足飛びに跳躍して、後方集団の道を妨げるように立ちふさがった。

「なんだ、一体なんのつもりだ!?」
「試験官ごっこ……あまりに試験が退屈だから、少し選考作業を手伝ってあげようと思ってさ」
「はっ、何言ってんだてめぇ!この霧じゃ、試験官とはぐれたら最後!てめえもここで脱落だ!」
「ククク……キミたちと一緒にしないでくれるかなァ?」

ヒソカは好物を一番最後までとっておくタイプだ。前菜である、雑魚たちはトランプ一枚でさくっと片付けて、いよいよお楽しみの時間である。「うわぁぁあ!!逃げろ!!」散り散りになる受験者たちだが、円を遣えるヒソカにとってはあまり意味がない。
ちょっかいをかけるという意味での本命はなまえだったので、ヒソカはまっすぐに彼女の方に向かったが、そのお陰で他にも骨がありそうな受験者を発見することができたのだった。

「くそっ、ただ逃げるなんて性に合わねぇぜ!」
「……あぁ。無謀かもしれないが、同感だ」

なまえを庇うようにして前に進み出たのは、先ほど彼女を助け起こしていたサングラスの男と、彼と一緒に走っていた金髪の青年である。彼らのグループにはもうひとり405番の少年がいるはずだが、なぜか姿が見えない。念も覚えていないようなのに、これほどまでに気配を絶てるのなら実に素晴らしい逸材だ。

「ん〜、キミいい顔してるねぇ」

サングラスの男は覚悟の決まった面持ちで、木の棒片手に殴りかかってくる。ヒソカはそれをあっさりとかわすと、反対に男の首を掴もうとした。
その時だった。

ひゅっ、と素早く空を切る音がして、丸い何かがこちらへ向かって飛んでくる。もしもヒソカが先に少年の存在を念頭に置いていなければ、きっとそれはヒソカのこめかみに直撃していたことだろう。

「ゴン!」

ゴンと呼ばれた少年が手に持っていたのは釣り竿。やはり彼は逃げたわけではなく、隠れて攻撃のチャンスを伺っていたのだ。

「キミなら逃げられただろうに、仲間を助けるなんていい子だね」
「うぉおおお!!てめぇの相手はここにもいるぜ!」

そんな威勢のいいことを言いながら攻撃してくる男の頬に一発入れて、ヒソカはゴンの方に向き直る。金髪の青年も両手に木刀を構えてじり、と動いたが、ヒソカが素早くゴンの首を掴んだのを見て、再びその身を固くした。

「うん、合格。いいハンターになりなよ」
「え……」

かがみこんで視線を合わせ、にっこりと笑って判定を告げる。手を離せば、彼は何かに魅入られたようにじっとこちらを見つめてきたが、そもそもヒソカのこれは初めに言ったように”試験官ごっこ”。期待できると判断した人材はここで殺す必要がない。ゴンから離れたヒソカは、改めて用事を思い出して、なまえに狙いを定めた。

「来るな。それ以上近づけばこちらも反撃は厭わない」
「ククク……ボクはそれでも別に構わないよ」
「クラピカ、やめて」
「キミたちは今日知り合ったばっかりだろう?別に庇う必要もないと思うケド」
「確かにその通りだが、私は人としての誇りを大事にしている。自分の良心に恥じるような行いはしたくない」

なるほど、こっちの青年――クラピカもなかなか肝が据わっているらしい。ヒソカは思わぬ豊作ぶりに嬉しくなってついつい笑いだしてしまった。

「そうかい、わかったよ。キミも合格だ」
「……」
「だけど、ボクはなまえに用があるんだよねぇ。取引としてキミたちは見逃してあげるから、彼女と少し話をさせてくれないかい?」
「彼女を貴様に差し出せというのか!」
「別に殺すつもりはないよ。彼女とはちょっとした知り合いでね。そうだろ、なまえ?」

クラピカはヒソカの提案に憤ったが、ヒソカがなまえの知り合いだというと驚いたように彼女を見た。なまえは素直に頷く。それでようやく彼もヒソカの言葉を信じたようだった。

「私のことは大丈夫。ヒソカには一度仕事を頼んだことがあるの」
「見たところ彼女は足を痛めているみたいだし、ちゃんと次の試験会場までボクが責任もって届けるよ」
「本当?」
「うん、もちろんさ。ボクは嘘なんかついたりしないよ」

ゴンの問いに笑顔を浮かべて見せれば、すぐに怪訝そうな視線がクラピカから飛んでくる。なまえもヒソカのことを信用してはいないみたいだが、それよりも彼らを逃がしたくてたまらないようだった。

「あの男もああ言ってるし、皆は気にしないで先に行って。できれば関わりたくないのが本音だったけど、試験会場にまで運んでもらえるなら私にとっても悪い話じゃないし」
「しかし……」
「ここで押し問答しても時間の無駄だよ。ヒソカが信じられないのなら、私を信じて」
「わかった……君の言う通りにしよう」

クラピカは刀をおさめ、気絶しているサングラスの男を助け起こす。彼とゴンが男を運ぶ後ろ姿が霧の向こうに消えるのを見送ったヒソカは、ようやくだ、となまえを見下ろした。

「……で、話ってなんですか?」
「まぁ色々聞きたいことはあるけど、まずその足はボクのせいだからね。ほんのお詫びのつもりさ」
「お詫びをするくらいなら、初めから投げないで欲しかったんですけど」
「ボクだって驚いたんだよ。キミがかわすか受け止めるかまでは考えていたけど、まさかイルミがキミを庇うなんてね」
「……」

イルミ、の名前を出すと、彼女の表情はわかりやすいくらいに歪んだ。どうやらイルミはまだ相当に嫌われているらしい。「そういや結婚するんだって?おめでとう」追い打ちをかけるようにヒソカが言葉を重ねれば、なまえの眉はますますしかめられた。

「私が喜んでいるように見えますか?」
「嫌なら前みたいに逃げればいいじゃないか。キミは“入れ替わる”ことができるんだし」

――誘導尋問。
直接聞いたところで、はぐらかされるのがオチだろう。なまえは頭の回るほうではあるが、誰だって怒れば多少口が軽くなる。「素敵な婚約指輪だね」目についたそれを褒めると、なまえはピクリと頬を引きつらせた。

「……なぜ、婚約や結婚の指輪を左手の薬指に嵌めるか知っていますか?」
「さぁ、ボクは生憎そういうことには興味がなくてね」
「左手の薬指には、心臓に繋がる太い血管がある――古代の人々は心のありかとして心臓を縛ろうとしたみたいですが、私はそのまま、これに命を握られています」

見た目はごく普通のエンゲージメントリングに見えたが、彼女が言うには内側にびっしりと神字が彫られているらしい。イルミがひと月かけた手製の品で、突然家に侵入され寝ているうちに嵌められたというのだ。

「念を遣うと激しい苦痛の警告。それを無視すれば死に至る爆発。あの男が解除するか、私とあの男のどちらかが死なない限り、指輪を外すことはできません」
「なるほどねぇ」
「これがある限り私は逃げられないんですよ。いっそ死んでやろうかとも思いましたが、それもまたあの男の狙い通りなのかと思うと悔しくて」

イルミが対となるように指輪をしていたのも、何かルールに基づくものなのかもしれない。しかし話を聞いた感想では、現状なまえに勝ち目はなく、いたぶられているも同然だ。
ヒソカの知る限り、イルミが仕事と家族以外のものにここまで執着するのは初めてのことだったので、なんだか面白いような空恐ろしいような複雑な気持ちで、彼の手製だという指輪を眺めた。

「指を落とすってわけにはいかないんだよね?」
「そうしたら、きっと次は首輪になるんじゃないですかね」
「あー愛されてるね」
「……」

なまえは心底嫌そうな顔をしたが、ヒソカはからかいではなく本気で言っていた。なまえも、いや、イルミ本人ですらもこの感情には憎悪や嫌悪しかないと思っているようだが、外野から見れば一目瞭然だ。この場合可哀想なのは、暴力的な愛に晒されているなまえなのか、まともな愛情を抱けないイルミなのかはさておき、これならばヒソカの取引も上手くいくことだろう。高いとは予想していたものの、なまえの価値は思った以上に絶大なようである。

「で、話はそれだけですか?早く次の試験会場まで連れて行って欲しいんですけど。ちゃんと当てがあって言ったんですよね?」
「うん。キミのお陰でばっちりさ」
「は?」

そう言って携帯を取り出したヒソカは、迷うことなくイルミの番号を選んだ。イルミもヒソカがうずうずしていたこと、それからなまえが後方集団にいたことは知っているはずなので、きっと内心やきもきしていたことだろう。予想通り、ワンコールも鳴り終えないうちに繋がった電話に、思わず吹き出してしまいそうになった。

「なにしてるの。もう大半が二次試験会場についてるけど」
「ちょっと試験官ごっこをしていたら、皆を見失っちゃってね。悪いけど、道を教えてくれないかい?」
「なんでオレが。自業自得でしょ」
「そう言わずにさぁ。キミならわかってくれるだろ?」
「……なまえに手は出してないだろうね」
「むしろ手を貸すところさ。彼女、足を痛めているみたいでね。ボクが連れて行かないと、このままじゃ試験に落ちちゃうね」

なまえは弟の監視のために連れてきた、とイルミは言っていたが、正直弟の監視くらいなら彼一人でも十分だろう。彼曰く、弟のみが脱落した場合に足取りを見失わないための”保険”でもあるらしいが、イルミが見失いたくないのはキルアだけではないはずだ。ここでなまえが落ちて、試験を続けなければならないイルミの監視下から外れるのも、絶対に不本意に違いなかった。

「はぁ、わかったよ。なまえが落ちたとなると、キルアが棄権するかもしれないからね」
「大丈夫。場所さえ教えてくれれば、責任もって連れていくよ」
「ほんと、なまえが一緒で良かったね」

イルミはため息をつくと、方角と距離を伝えてきた。それが期待していた以上に詳細だったので、おそらく彼女の指輪はGPSのような役割も果たしているのだろう。つくづく都合がいいとほくそ笑んだヒソカは、濃霧の中で鈍い光を放つ太陽の位置を確認する。それから身をかがめると、何の断りもなくなまえを抱え上げた。

「それじゃあ行こうか」
「……お詫びって言ったくせに。私をダシに使いましたね」
「ククク、じゃあこれはキミへの借りということにしようか」

二次試験会場は、ヒソカの足であればすぐに辿りつける距離だ。問題は先に進んだゴンたちが果たしてたどり着けるのか。せいぜい青い果実に期待することにしよう。
腕の中のなまえはひどく機嫌が悪そうだったが、特に暴れるようなこともなく大人しく現状に耐えていた。

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