- ナノ -

■ 21.遠回りな感情

「さっきの話、冗談よね?」

食堂を出て二人きりになった瞬間、珍しいことになまえのほうが先に口を開く。扉一枚隔てた向こうに家族がいる状況で話をする気がないイルミは、彼女の問いを無視して自室のほうへ歩き始めた。

「ねぇ、」
「少しくらい待ちなよ」
「……」

なまえは不服そうな顔をしたが、同時に不安そうでもある。
イルミは渋々といった様子で隣を歩く彼女を一瞥すると、先ほどの食事の席での会話を思い出していた。


「おほほほ!!イルがいない間、なまえさんったらすごく頑張ってらっしゃったのよ!!自らハンデを課してうちの訓練に挑戦するだなんて、やっぱり愛の力かしら??」
「そうなんだ。オレも早くなまえに会いたかったよ」
「あらあら!!まあまあ!!」

なまえに演技を強いるために、あえて食事についてはミルキにも声をかけた。キキョウのほうはおそらく呼ばなくても来るだろうとは思っていたが、一つ、キルアが参加したのだけは意外だった。別に、参加してもろくに喋ることもなくちょっとしたつまみを口にしているくらいだが、先ほどからなまえのほうをちらちらと伺っている。

そして予想外にもキルアがいたせいで、キキョウはなまえが念を遣わないことについて簡単に”ハンデ”と表現した。もちろん本当はイルミの指輪で使用を制限されているのだが、そうは言えないなまえがこれも修行の一環だと嘘をついたらしい。それに乗っかる形でイルミが心にもない台詞を言ってのけると、母はそれはそれは嬉しそうにはしゃいだ。

「まさかイルとなまえさんがこんなにも上手くいってくれるなんて!私とっても幸せだわ!イルったらどんなにお見合いを勧めても全然見向きもしてくれないし、もしかして女性に興味がないのかしらってちょっと疑っていたくらいなのよ!!!」
「……別に、忙しかっただけだよ」

思いがけず知りたくなかった母親の勘ぐりを聞かされて動揺したイルミだったが、すぐさま気を取り直してこれを利用することにする。「でも、お見合いなんてしなくてよかったよ。そのお陰でなまえとこうして一緒にいられるんだからね」こうした言動も、彼女にとってはストレスでしかないだろう。よくもそんな嘘を!と発狂しないのは流石だが、確実になまえは苛立っている。

「やめてよ、恥ずかしい」

無理してそうやって照れた仕草なんてしているのが、酷く滑稽だった。思わず緩みそうになる口元を意識してきゅっと引き締める。実際、この茶番に喜んでいるのはキキョウくらいのもので、弟たちは二人して遠い目になっていた。

「いいわねぇ、私もパパと出会った頃を思い出すわ!!!あ、そういえばあなた達はいつ籍を入れるの?式のほうの準備は完璧なんだけれど、記念日は二人で決めたいでしょう?もちろん、なまえさんの戸籍はこっちでうまく作っておくわ」
「そうだね。そろそろ仕事も片付いてきたし……いつがいい?なまえ」

意地悪な感情を押し殺してごくごく自然な流れで話を振ってやれば、なまえは珍しく顔を引きつらせる。これまではムカつくくらいに役者だった彼女だが、こればっかりはどうにも取り繕えなかったらしい。指輪を見せつけるように顔の前で指を組めば、ようやく「そうだね……」と震えた声を返してきた。

「まだ花嫁修業が終わってないから、それが終わったらにしようかな」
「それってさぁ、いつ終わるの?」
「……どうだろう。ゾルディック家の嫁としてどこへ出ても恥ずかしくないようにしたいから」
「別にどこへ出る機会もないと思うけど」
「あはは、いまどき専業主婦希望なんて流行らないよ」

なまえは苦笑いをして誤魔化そうとしているようだったが、そのくせ瞳はイルミをしっかりと睨みつけている。彼女が怒っているのは明らかで、イルミはそれを綺麗に無視した。

「そうかな、オレはなまえに家を守ってほしいと思ってるけど」
「まあまあ!イルミが焦る気持ちもわかるけれど、なまえさんの心意気も素敵だわ!男なら妻の可愛い我儘くらい聞いてあげるものよ!!」
「まぁ母さんがそう言うなら仕方ないね」

正直な話、イルミとしては結婚の時期がいつになろうとどうでもよかった。これはあくまで嫌がらせのパフォーマンスなので、なまえに苦痛を与えられればそれでいい。
だから最後にはあっさりと引き下がって見せたのだったが、それでもなまえは随分と危機感を抱いたらしかった。


「ここまでくればもういいでしょう」

いつもは絶対に来ないイルミの部屋までついてきて、許可も得ずに中に入ってくる。扉が閉まったことを確認した彼女は、さっそく話の続きとばかりに詰め寄ってきた。

「結婚って、まさか本気じゃないでしょうね」

声量こそ抑えているものの、なまえの語気は普段に比べ荒い。敬語をやめろと言ったのはイルミだったが、そうでなくても今の彼女は”素”の態度だろう。「婚約しておいて、今更何言ってるのさ」イルミにはそれが愉快でたまらなかった。彼女のペースを乱せたことが、彼女が自分のせいで苛立っているのがたまらなくおかしかった。

「だって、これはキルアに後を継がせるためのお芝居で……!」
「そうは言うけどさ、じゃあなまえはキルのために何か努力したの?お前がやっていたことといえば、その指輪の解除法を探していた、それくらいだろう?
 そっちが逃げるつもりなら、こっちも手綱を締めざるを得ないよね」

気まずいからか何なのか、なまえがキルアとの接触を避けているのは知っている。キルアの方も何かを感じ取っているのか、前のようになまえにべったりつきまとうようなことはなかった。
つまり、彼女は結局ここへ来てからろくに仕事をしていないことになる。イルミに図星を突かれたなまえはさっと頬を引きつらせた。

「じゃあキルアのために、好きでもない私と結婚する気?ちょっと自己犠牲が過ぎるんじゃないの?」
「どのみちオレは家の為になる相手と結婚するつもりだったからね」

考えてみれば下手に後ろ盾のある暗殺一家の女をもらうより、身寄りもなく生かすも殺すもイルミ次第のなまえのほうが都合がいい。家同士の結婚というのは、結ぶのは簡単でも邪魔になった時が厄介だからだ。

「あなた……やっぱり頭おかしい」

イルミの発言を聞いたなまえはようやく本気だとわかったらしく、先ほどまでの勢いが嘘のように後ずさりを始める。しかし、今度は逆にイルミが距離を詰め、彼女の背は扉に打ち付けられた。

「ああそう。じゃあその頭のおかしい奴と結婚したくなかったらせいぜい頑張るんだね」
「……」
「それともほんとは乗り気だったりするの?こうやって、のこのこ男の部屋にやって来るくらいなんだしさ」

煽るようにぐいと顔を近づけて耳元で囁いてやると、間髪入れずなまえの平手が飛んでくる。それを難なく受け止めたイルミは薄く笑った。

「へえ、案外ウブなんだ」
「最っ低!」
「なんとでもいいなよ」

元から嫌われているのは百も承知だ。これ以上嫌われたところで痛くもかゆくもない。
なまえはイルミに掴まれた腕を振り払うと、逃げるように部屋を飛び出していく。ちょっとからかったくらいで大げさな。殺されかけても逃げなかったくせに変な女だ。

「さて、どうなるかな」


▲▽

長い長い廊下を歩きながら、キルアは先程の出来事を思い返していた。
いつも通りテンションの高い母親が話題に出した入籍の話。それ自体は兄となまえが婚約している現状から考えて、別におかしなことではない。
けれどもやはり、あの時のなまえの表情が引っかかる。今回初めて声も僅かながらに震えていたし、ミルキの言った通りイルミに脅されてるのではないだろうか。

キルアは今更ながらに深く後悔していた。別にイルミの本心を暴露せずとも、なまえの気持ちを確かめるくらいならばもっと早くにできたことだ。それなのに勝手に一人で傷ついて、彼女のことを避けていた自分が情けない。
もしもこれまでなまえが不本意な状況にあったのだとしたら、それをずっと無視し続けていたキルアの方がよほど友達甲斐のない人間かもしれなかった。

――殺し屋に友達なんていらない。邪魔なだけだから。

何度も聞かされた兄の言葉が、嫌でも脳裏をよぎる。それを聞くたびに反発心こそ抱いたが、本当は大切な物の存在が判断を鈍らせるという主張の正しさも理解はしているのだ。だが、キルアが耐え難いと思うのは、大切な誰かのせいで自分の足が引っ張られることではない。それは自分が強くなれば、おのずと解決する問題だろう。
それよりも本当に恐ろしいのは、

――お前に友達をつくる資格はない。必要もない。 

自分が窮地に陥った時、その大切な誰かを見捨ててしまうことだ。誰かと仲良くなる資格もないほど、残酷で無機質な人間であると突き付けられることだ。

結局キルアは自分が一番信用できなかった。圧倒的に不利な状況で、助けを求める大事な人の手を取れるかというと正直自信がない。それは常に勝算のある戦いを求められる暗殺者ならではの癖と言えばそうだが、キルアはそれを否定したい。

自分はそんな人間じゃないと、誰かに向かって証明したかった。
お前は殺しのための機械でないと、誰かに認めてほしかった。

そしてそうやって暗殺以外でキルアを認めてくれたのは、なまえが初めてだったのだ。この家の人間はキルアの能力や才能を、ゾルディック始まって以来の逸材だと誉めそやす。けれどもキルアが欲しいのは暗殺一家の後継者としての承認ではない。ただのキルアとして、暗殺のための機械ではないただの一人の少年として、ごくごく普通に認めてほしかった。
それはもしかすると贅沢な願いだったのかもしれないが、同時に根源的な願いでもあった。

だからこそ――

キルアは自分がここまでなまえを放っていた事実が許せなかった。今更もう謝っても遅いのかもしれない。話を聞いたところで自分にできることなどたかが知れているかもしれない。
それでも今日こそはちゃんと向き合おうと思って、キルアはなまえの部屋を目指した。


「最っ低!」

しかしキルアが彼女の部屋をノックをしようとした瞬間、突然隣の部屋の扉が開いてなまえが廊下へ飛び出してくる。彼女の隣は兄イルミの部屋だ。驚いてキルアが固まっていると、こちらの存在に気付いたなまえもハッとした表情になる。

「キルア……」

なまえは何か言い訳をしたそうにぱくぱくと口を動かしたが、結局キルアの名を呼んだっきり黙り込んでしまった。キルアもキルアで、思いがけない展開に思考停止してしまう。なまえのただならぬ様子に圧倒され、咄嗟に言葉が出てこなかった。

「……イル兄となにかあったのか」

そしてしばらく見つめあったのち、ようやく絞り出した質問はこの場では答えづらい内容だった。

「……悪ィ、場所を移そう」
「うん……」

と言っても、行き先はキルアの部屋くらいしかない。正直キルアの部屋だからといってどのくらい安全かはわからないが、イルミと物理的に距離をとれるだけで気分的にも楽だろう。
キルアはなまえが頷いてくれたことに内心ほっとしていた。まだ気まずい雰囲気ながらも、今は黙って足を進める。

自室に到着して扉を閉めると、キルアはどっかりとクッションの上に腰を下ろした。

「で、何があったんだよ」

当初聞こうと思っていた内容は別だったが、あの様子を見るになまえが兄に惚れているという線は薄い。それならばせめて話しやすいところから、と思って話題を切りだしたが、彼女は二人きりになっても黙り込んだままだった。

「なんで黙ってんだよ」
「……ごめん、なんでもないの」
「あんなの見せられて、なんでもないが通用するわけないだろ」
「……」
「なまえ、ほんとにイル兄と結婚するのか」
「……」
「ほんとは嫌なんだろ。なまえ、脅されてるんじゃねーの」
「私は……」

畳みかけるように言葉を重ねれば、初めてなまえが口を開きかける。しかし結局話そうとしては口を閉ざしてしまい、キルアは苛立ちに唇をゆがめた。

「ハ、俺じゃ頼りにならないってわけね」

確かにキルアは無力かもしれない。でも、相談くらいはしてくれてもいいのではないか。この家を訪ねてこないと決めた時もそうだ。なまえはいつも何も言ってくれない。「俺は、なまえが俺のせいでこんな目にあってんのかもって、それで、」怒りか悲しみか、区別のつかない感情がキルアを支配する。必死で冷静になろうとしたが、残念ながら兄やなまえほどキルアはポーカーフェイスが得意ではなかった。

「キルア……」
「クソ、なんなんだよ。なまえも兄貴も、俺のことガキ扱いしてさ。それでなんでもかんでも勝手に決めて……俺だって、」
「キルア、」

目の前のなまえがどんどん困ったような表情になる。そうだ、こんなことくらいで取り乱すから、なまえはキルアを頼ろうとしないのだ。頭ではそれがわかっているのに、どうしても感情が高ぶる。
悔しい。頼ってほしい。認めてほしい。
それが突き詰めれば自分本位な思いだとしても、キルアはなまえに頼ってほしかった。


「ごめん……」

不意に柔らかな手が、固く握りしめたキルアの拳へ添えられる。向かい合ったなまえは相変わらず困ったように眉を寄せていたが、キルアは彼女の瞳の中に自分と同じ後悔の色を見つけた。「ほんとにごめん。キルアに何も話さなくってごめん……」彼女はいつもそうやって謝ってばかりだ。けれども今回は謝るだけではなくて、ようやく話してくれる気になったようだった。

「ほんとはキルアの言う通りなの……この結婚は私の望みじゃない」
「じゃあやっぱり、俺のせいなのか?」
「口実はね。でもきっとこれは私への嫌がらせだよ。キルアのせいじゃない」
「いや、イル兄が家族のこと以外でこんな手間をかけるはずないんだ。絶対俺のせいだ……なまえ、俺の方こそずっとなまえを放っておいて悪かった」

なまえは気を遣ってそう言ってくれたが、あの兄の家に対する執着はキルアが一番よくわかっている。キルアさえ関わらなければ、なまえがこれほどまでに害を被ることはなかっただろう。
イルミはなまえを死なせたくなかったら大人しくしていろと言ったが、実際今ではキキョウの目もある。殺すとなると色々面倒だろうし、とにかくキルアの方に兄の意識を向けなければならない。なまえがキルアの足枷には使えないと思わせて、興味を失わさせるのだ。

キルアはそこまで考えると、決意を固めるようにゆっくりと息を吐いた。

「なまえ、俺、家を出るよ」
「えっ?」
「前から考えてたことなんだ、こんな家いつか出てってやるって。なまえが人質にならないってわかれば、兄貴だって流石に諦めるだろ」
「でも、家出なんて……」
「別に六歳のときには天空闘技場で一人で過ごしてたし、今更どうってことねーよ」

それよりも問題は出るときの方だ。父や祖父、長兄が留守というのは最低ライン。あとは母親と次男くらいだが、この二人程度なら一時的に動きを止められる自信がある。家族を抑え込むことができれば、基本的に執事は何も手出しができないはずだ。
しかし脳内で計画を立て始めたキルアに対して、ストップをかけたのは他ならぬなまえだった。

「でもそんなことしたら、キキョウさんが悲しむよ。家族を悲しませるのはよくない」
「はぁ!?そんなのどうだっていいだろ」
「よくない。だって、キルアのことだから説得じゃなくて力づくでってことでしょう」
「お前さ、うちの家族見て説得でなんとかなるって思うか?」
「それは……」

既に脅されているくせに、随分と甘いことを言う。とはいえ流石に説得できる図が思い浮かばなかったのか、なまえはあからさまに話題を変えた。

「キルアは、暗殺家業が嫌なの?」
「……なんだよその質問。別に好んでやるもんでもねーだろ」
「それはそうだけど、代々続いてきたお仕事だしさ。こないだはシルバさんの前で嫌じゃないって言ってたじゃん」
「……」

確かに本音を言えば、殺し自体が嫌なわけではない。キルアは父親のことも尊敬している。しかし尊敬しているからといって、全て盲目的に従うというのはおかしいと思うのだ。

「……俺は、ただレールを敷かれた人生が嫌なんだ。あれするなこれするなって口うるせーし」
「それは家族だからだよ。キルアの為を思って、」
「あーもう!なんなんだよ、家族家族って!なまえまでイル兄みたいなこと言うのかよ!」

家族だったら何をしてもいいのか。恩着せがましく束縛して、思い通りに動かそうとするなら人形遊びの延長だ。「なまえにはわかんねーんだよ!家族なんて鬱陶しいだけだ!」期待が重いとかそういう次元の話じゃない。家族を大切にしろだなんてありきたりな説教は、なまえの口から聞きたくなかった。

「そう、だね……私にはわからないや」
「とにかく俺はこの家を出る。止めても無駄だぜ」
「……わかった」

キルアの意思は固かった。元から家出については考えていたことだし、何よりなまえを兄の手から救うために自分ができる方法はこれしかないと信じていたからだ。頭の中は既に計画のことでいっぱいで、それ以外のことに気を配る余裕もない。そもそもいくら気まずい沈黙が降りようと、これはなまえを救う為の計画でもある。少なくともキルアはそう思っている。

だからこそ、目の前のなまえが傷ついた表情をしていることには、少しも気が付けなかったのだった。

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