- ナノ -

■ 19.潜在的感情

一瞬、どこかのホテルかと見紛うような内装の部屋は、ゾルディック家私用船の一室だった。そこでもうすぐ目的地だからと針の最終チェックに勤しんでいるイルミを見ながら、ヒソカもまたそのうちトランプを補充しないとなぁと俗っぽい思考を働かせる。

ヒソカが今ここにいるのは、いつものように突然電話がかかってきて、暇でしょと決めつけられたからだった。実際、天空闘技場で青い果実探しをしていたくらいで特に忙しくなかったため、そのままパドキアからべゲロセ連合国へと向かうイルミの船に拾われた形となっている。
もし、実家と仕事先の直線上にヒソカがいなければ、彼がヒソカを誘ったかどうかも怪しい。が、少なくとも着信拒否を解除するくらいには機嫌も直ったのだろうと思われた。

「そういえばさぁ、」

なまえの件はどうなったのか。
世間話のついでに聞き出そうとしたヒソカは、ふと彼の左手に見慣れないリングが嵌められているのを発見する。

「なに?」
「……」
「話しかけておいて、黙るのやめてくれる?」

ヒソカの声掛けに手を止めたイルミは顔を上げ、僅かに眉を寄せる。聞こうと思っていたことよりさらに気になる事柄を見つけてフリーズしたヒソカだったが、すぐに衝撃から復帰して質問内容を変えることにした。

「キミ、しばらく会わないうちに結婚したのかい?」

ヒソカは自分で、身だしなみやお洒落に頓着があるほうだと思っている。だからもっと早くに気が付いても良かったのだが、イルミと結婚という単語が結びつかなかったのだ。しかも彼のことだからおそらく政略結婚。まさか律儀に指輪をするなんて、思いもよらなかった。

「あぁこれ?違うよ、まだ婚約の段階」

イルミはヒソカの視線の先を追うと、なぜか呆れたように息を吐く。どうでもいい話だと言わんばかりに、再び針のチェックを始めた。

「わざわざ婚約指輪までするんだ」

もしかしたらヒソカが知らないだけで、良家では男側も嵌めるのだろうか。そもそも結婚に対する一般的な常識を持ち合わせているかどうか自信がないヒソカには判断しかねる。しかし、「相手は暗殺一家のお嬢さん?」そう尋ねた瞬間、イルミは面白いことを聞いたみたいに数度瞬きをした。

「あぁ、そうだね。ヒソカにはまだ言ってなかったか」
「うん」
「相手はなまえだよ」
「は……?なまえって、あのなまえかい?」
「そう」
「……キミ、殺そうとしてたよね?」

記憶の限りでは、なまえのほうもイルミを嫌っていたはずだ。まぁこちらは命を狙われていたので無理もないが、そこから二人が婚約というのは飛躍も飛躍。一瞬、全部イルミの妄想なんじゃないかとそら恐ろしくなったくらいだ。

「そーだよ。それが何か?」

そして、ヒソカの疑念を強めるようにあっさりと肯定してみせたイルミは、馬鹿にしたように鼻を鳴らす。「別に好きじゃないと結婚できないってわけでもないだろ」それはまるで夢見る乙女に現実を突きつけてやらんとするような物言いだった。

「でもあれだけ警戒してたじゃないか」
「それはもう解決したんだ。あの女は確かに母さんの知人の娘だったし、能力も危険がないと判断できた。今はキルアのやる気を出させるのに、一役買ってもらってるよ」

どうやらイルミの中でなまえの問題は終わったようで、それどころかむしろ、今は彼女に利用価値を見出しているらしかった。好きじゃなくても結婚できる、という意見に対して反論する気はないものの、果たしてなまえのほうもそう思っているかどうかは怪しい。

確かにゾルディック家の富や遺伝子は魅力的だろうが、彼女と会った印象ではそういうものに対する野望は一切感じられなかった。彼女のイルミに対する敵意はあからさまだったので、今更玉の輿に乗れるからと言って結婚を了承するようには思えない。「さてはキミ、脅したんだろう?」他の人間に言えばとんでもなく失礼な台詞だったが、イルミならば問題ない。その証拠に彼は少しも悪びれることなく「あーバレた?」と肩を竦めた。

「流石に命が惜しいみたいで、よく言うこと聞いてくれるよ。お陰で母さんも、オレ達が相思相愛だってすっかり信じてる。キルはなまえが本気かどうか疑ってるみたいだけど、なまえが"人質"になり得ることは理解してるみたいだしね」
「結局"入れ替わり"なんだっけ?彼女の念。よくそんな念能力者を手元に繋いでおけるね。もしかして、その指輪に秘密があったりするのかい?」
「ま、タネがわかれば、こっちも色々やりようはあるから」

そう言ったっきり、イルミは黙って針を片付け始めた。話は終わったとばかりの雰囲気だが、こっちは肝心なところがわからないままで消化不良だ。

「……教えてくれないのかい?」
「何を?」
「なまえの念とか、その指輪のこととか。ボクだって少しは協力しただろう?」

そもそも初めに協力要請してきたのはイルミの方で、その頃は推測混じりとはいえなまえの念についても情報共有されていた。現にヒソカは3日だけでも死体を見張って彼女の念が"蘇生"でないことまで確かめている。
しかしイルミは金さえ払えば後腐れないと思っているのか、ヒソカの言葉をまた鼻で笑った。

「他人にそう易々と手札を晒すわけないでしょ。なまえは今後うちの人間になる可能性が高いんだし」
「……」

可能性が高い、とは言ったものの、イルミのそれはもはや確定事項のような口ぶりだった。彼のことだから利害関係ありきの割り切った政略結婚くらいはしそうだと思っていたが、まさか嫌われている相手を脅しつけてまで結婚しようとするとは。

いくら母親が歓迎し、弟に対する人質として使えるとしても、自分のことを恨み、隙あらば害をなすか逃げ出すかもしれない人間を生涯の伴侶にするのは厳しい。他人に殺気を向けられて喜ぶようなヒソカでさえも、毎日となるとそんな気の休まらない家には帰りたくないと思った。

「脅さずに普通に口説けばよかったのに」

彼女は別にゾルディック家自体に恨みがあるわけでは無いのだ。イルミとは敵対していたが、それはイルミが命を狙ったり、今みたいに脅しつけて言うことを聞かせようとするからだろう。人質としての利用は何も本人に知らせる必要はない。仕事でならハニートラップもやってのけるのだし、今回もそうやってなまえを篭絡すればよかった。

けれどもイルミは首を振り、さらさらと長い髪を靡かせる。

「無理だよ、なまえはオレのことがものすごく嫌いみたいだからね」
「だからって脅したりなんかしたら余計だろう?実情は人質とはいえ、ほんと家族にする気があるなら、一旦謝って関係を築きなおしたほうが楽だと思うけど」
「だから無理だって。オレの行動に関係なく、なまえはオレが嫌いなんだよ」
「どうして?」
「さあね。オレにわかるわけないだろ。確かなのは初対面の、まだ何もしないうちから敵意を向けられてたってことだけ」
「そんなことってあるのかなぁ……」

自らゾルディック家を訪れる人間が人殺しに対する偏見なんてあるはずもないし、それを言うならイルミ以外の家族も全員嫌悪するはずだろう。女性特有の“生理的に受け付けない”という線も、イルミの容姿でそこまで毛嫌いされるかというと微妙である。

良くも悪くも、イルミの第一印象は淡白で無味乾燥な男だ。なんの味もしない水を大好物として挙げる人間はいないだろうが、同じく大嫌いなものとしても挙げないだろう。深く付き合っていけば無味だなんて思った自分がどうかしていたと思うくらい、あくが強くていつまでも喉に残るような男だが、少なくとも第一印象は問題ないはずである。

「そう言われてもね。あるものはあるんだから仕方ないでしょ」

イルミはうんざりしたようにそう吐き捨てたが、仕方ないと言う割にはいつもほどあっけらかんとした雰囲気ではない。

「そんなお先真っ暗な結婚するの、やめといたほうがいいんじゃないかい?」
「いいんだよ、別に好かれたいとも思ってないし。べたべたされるよりよっぽどマシだ」

その様子は、ヒソカから見ると意地になってるようにしか見えなかった。だから、もしかして、と思った疑問をストレートにぶつけてみる。

「逆にキミはなまえのことどう思ってるんだい?」
「嫌いだよ」

即答だった。
まるで彼女に嫌われているのだから、自分もそうでなくてはいけないと思っているかのような強い否定だ。「だから、オレに従わざるを得ないなまえを見ると気分がいいね」イルミは彼女の屈辱の表情でも思い浮かべたのか、薄く笑う。

「へぇ……災難だねぇ、なまえも」

――キミも。

万感の思いを込めてヒソカは大きく頷く。好きだろうが嫌いだろうが、家族以外に感情を揺さぶられている時点でいつものイルミらしくないのに、彼は自分でそのことに気が付いていないのだ。

しかし、親切にもそのことを指摘してやる義理はヒソカにはない。相手がこの期に及んで情報を出し惜しみするような男なので尚更だ。

そうして二人の話が途切れたころ、ちょうど飛行船は着陸態勢に入ったようだった。


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