- ナノ -

■ 18.罪悪の枷

宣言、というのは、それなりに自信がある者がすることだ。
その自信が何の根拠もない全能感ゆえなのか、それとも、あと数手で王手をかけられるところまで詰めた結果なのかは個人の性格によるが、少なくとも兄イルミは勝ち目のない勝負事はしないはずである。

つまり、彼が”なまえを婚約者として連れてくる”とキルアに向かって宣言した時点で、きっともう彼の頭の中にはどのようにしてなまえを捕らえるのか、ある程度計画がなされていたのだろう。

キルアはここ最近ずっと、酷く恐ろしかった。
あの兄がまともになまえに謝って、ごく普通の恋人として交際を申し込む姿など想像もできなかったからだ。

しかし恐れていた日は、とうとうやってきてしまったようだった。


「失礼します、キルア様。お休みのところ申し訳ないのですが、キキョウ様から大至急リビングに来られるように言い使っております」
「……わかった」

今日も一日長い訓練が終わって、ようやくほっと一息ついたところだ。いつもならうぜぇなぁ、と思うだけのキルアであったが、嫌な予感に一段と足取りは重くなる。
たいてい過保護な母は、何かあれば呼んでもないのに向こうから飛んでくるのだ。だからこうしてキルアのほうが呼び出されるのは珍しいし、リビングに向かう途中で、執事がミルキの部屋にも声をかけているのを見た。何かと監視されている自分ならともかくも、普段放任されて好き勝手やっているミルキまでもが呼ばれるなんてやっぱり妙でしかない。
そしてその予感を裏付けるように、向かったリビングには家族の物でない気配が一つあった。

「あらぁ!キル、遅かったわねぇ!!でもまぁいいわ!きっとあなたも、思ってもみなかったでしょうし!!」
「……」
「久しぶり、キルア」

おほほほ、と上機嫌に笑うキキョウとカルトの前にいるのは、ずっと会いたいと思っていたなまえだった。まるで何事もなかったみたいに、今まで通りの笑顔と挨拶を向けてくる。しかし今までと決定的に違うのは、そのなまえの隣に、当然の顔をして兄イルミが立っているということだった。

「どうしたんだい、キル。挨拶もしないで」
「……別に、もう来ねぇのかと思ってたから」

前に尋ねたとき、母は確かにそう言っていたし、実際目に見えて落ち込んでいた。現になまえがここを訪れたのも三か月ぶりで、キルアの感想に偽りはない。

「ごめんね」

なまえは困ったように眉を下げたが、特にそれ以上の説明も弁解もしなかった。どうして何も言わずに去ったのか、あの日両親とイルミとの間でどんなやり取りがあったのか、何一つ説明しようとはしなかった。

「ええ、私もそう思っていたのだけれど、イルミが説得してくれたみたいなのよ!!しかも、聞いて頂戴!!なまえさんはただ遊びに来てくださったんじゃなくって、」

「オレたち、婚約したんだ。だから今日はその報告」

キキョウの言葉を引き継いだイルミは、いつも通りの淡々とした調子で告げる。「えっ!?」その流れを想像していたキルアは何も言わなかったが、ちょうど遅れてやってきたミルキが後ろで驚愕の声を上げた。

「やぁ、ミル。いいタイミングだね」
「……い、今の話、マジかよ?」
「そうだけど、なにをそんなに驚くことがあるの?オレとなまえが結婚するのはおかしい?」

こてん、と首を傾げる兄だが、はっきり言っておかしい以外の何物でもない。なまえもイルミも、お互いのことを良く思っていなかったはずだ。「い、いや……そういうわけじゃねぇけど、兄貴は結婚とかまだ興味なさそうだったからさぁ……はは」引きつり笑いを浮かべたミルキは、ちらりとキルアに視線を向ける。

――どういうことだよ。

その視線ははっきりとそう問いかけていたが、キルアは説明する術を持たなかった。少なくともこの場で兄に脅されたことを告発するわけにはいかない。なまえを殺されたくなかったら大人しくしていろ、というのがイルミの言葉だったのだから。

「そうだね。オレもまだ結婚は早いと思ってたよ。そもそも初めは、なまえがオレ達を狙っている刺客かもしれないって思ってたし」
「そうねぇ、イルったらなまえさんのことを疑っていたものねぇ」
「うん。でも、誤解が解けてよく話すようになったら、皆がなまえのことを気に入ってた理由がよくわかったよ」

それはあまりにも白々しい嘘だったが、キキョウは少しも気づかないでなまえが戻ってきてくれたこと、しかもイルミの婚約者としてやってきたことに大喜びしている。肝心のなまえを気に入った”理由”には触れていないのに、いきなり婚約だなんて妙だとは思わないのか。しかし何も知らないカルトもまた、嬉しそうに顔を綻ばせていた。

「なまえが姉さまになるの?」
「いずれね」

まだ幼い弟に向かって平然と嘘をつく兄の姿に虫唾が走る。ミルキも同じように思っているのか、横目で見た彼は複雑な表情を浮かべていた。

「おほほ!!でもよかったわぁ!!予想外の形だったけれどなまえさんが我が家に来てくださるのは嬉しいことですもの!お義父様やパパが帰ってきたらお祝いしましょうね!」

「なまえを盗っちゃうみたいでごめんね、キル。でもなまえが義姉になるなら、キルも嬉しいだろ?」

不意に、黙っていたキルアに水が向けられてハッとする。「あぁ……」元の二人を知っているだけにおかしいとは思いつつも、正直、自分との婚約話が出た時と違って明るい表情のなまえに内心傷ついてもいた。脅されているのかもしれないが、それにしてはごくごく自然に見える。揃いのリングまでして、女性である彼女のほうはともかく、イルミまで装飾品をつけるとは意外だった。

もしかして、兄貴はなまえを脅したのではなく、騙したのか?

どうせ元から母に結婚をせっつかれていたし、この兄ならこのまま人質兼、妻として一石二鳥だと考えるかもしれない。それならばこの先の関係を考えて脅すよりも騙したほうが楽だし、この婚約はなまえ視点では幸せなものである可能性が高い。
外面の良い兄が上手いこと言いくるめて彼女をモノにした。そう考えたほうがなまえの笑顔にも納得がいく。

しかしそれはそれでやっぱりなまえが心配だった。
前の食事の席でキルアの反抗の責任をとるといった彼女だが、現状、責任を感じているのはキルアのほうである。なまえと出会わなくても、キルアの中には暗殺家業に対する不満が確かにあったし、それだって突き詰めると家業の内容ではなくレールの敷かれた人生に対する不満だ。遅かれ早かれ、この不満は爆発していただろうし、となるとキルアがなまえを“巻き込んでしまった”と表現するほうが正しい。

自分のせいでなまえが兄に目をつけられたのだとしたら、彼女が偽りの愛の言葉に騙されて人生を棒に振ろうとしているのなら、キルアはいくら謝っても足りないくらいである。

しかしながらこうした責任感や罪悪感も、キルアをゾルディック家に縛るには効果的だった。自分のせいで愛のない結婚をするかもしれないなまえを置いて家を出ていけるほど、キルアは自分勝手でもなければ冷血でもない。イルミの策はまさしく、キルアの性格を知り尽くしたうえでのものだった。

「いつ式をあげるとかは考えているのかしら??」
「うーん、オレも今仕事が立て込んでるからね。落ち着くまで、なまえには待ってもらわないといけないかな」
「まぁそうなの!!じゃあその間たっぷりドレスを選びましょう?せっかくの晴れ舞台ですもの!!あぁ、そうだわ!なまえさんのお部屋も用意しなくっちゃ!!」

母の主導であれよあれよという間に事が進んでいく。確かに元々うちの家族はなまえを気に入っていたし、唯一難色を示していたイルミが受け入れたのなら、誰も文句はないだろう。
キルアだって、もしなまえが自分の婚約者として家族に受け入れられたなら素直に嬉しかった。もし、イルミの宣言を聞いていなかったら、思わぬ展開に驚きつつも祝福したかもしれない。

「……待てよ、本当にこれでいいのかよ、なまえ」

耐えきれずに漏れた自分の言葉に、これではまるで祝いの席に水を差す邪魔者みたいだと思った。実際、何も知らないカルトはびっくりしたようにこちらを見ているし、キキョウは今更キルアの存在を思い出したようにまあまあと口に手を当てる。確かに簡潔に状況を表すなら、キルアは兄に婚約者を奪われた形になる。たとえ恋愛感情ではなかったとしてもなまえと仲が良かったことはみんなに知られているし、キルアが反対したところで他愛ない嫉妬と思われ、せいぜい慰められて終わりだろう。

なまえはキルアの問いに困ったように眉尻を下げてほほ笑んだ。「むしろ、私なんかが姉になってごめんね」答えになっていないような気がしたが、彼女の笑顔はやっぱり自然だった。キルアとの婚約話が持ち上がった時は、ひたすら浮かない表情で固辞していたというのに。

「……そうかよ」

なまえはきっと騙されてるんだ。
冷静な自分がそう囁いたが、もっと冷静な自分がみっともないぞとあざ笑う。たとえ騙されているのだとしても、なまえはイルミを選んだということだ。キルアとの婚約は嫌がったくせに、あれだけ敵視されていたくせに、イルミならいいと言うのだ。

そう考えると、キルアはそれ以上何も言えなかった。本当なら二人きりの時にでも、もう一度なまえの気持ちを確認したほうがいいのかもしれない。あんな男やめておけ、とイルミの本心を告げてやったほうがいいのかもしれない。

だが、もしもう一度二人きりの時に問い詰めて、本気で好きなのだと言われたらと思うと気が進まなかった。真実を告げることは悪戯に彼女を傷つけるだけだろうし、最悪キルアが余計なことをしたと彼女に危害が及ぶかもしれない。仮に彼女が無事だったとしても、イルミはもうなまえを手放さないだろう。そうなれば仮面夫婦決定だ。知らないほうがいいこともある。

しかし、これだけ心の中で様々な言い訳をしながらも、キルアは自分が行動を起こしたがらない一番の理由をわかっていた。
なまえに心を開いていたからこそ、あっさりと兄貴とくっついたのが衝撃だったのだ。たとえ自分が彼女に恋愛対象として見られていなかったとしても、キルアがイルミを苦手としていたことくらいは知っていたはずだ。それなのに、出ていくときも戻ってくるときもなまえは何の相談もない。

友達だと思っていたのはキルアのほうだけだったのか。

「……おめでと」

肉体の痛みにはいくらでも耐えられるのに、心の痛みがこんなにつらいなんて知らなかった。


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