- ナノ -

■ 17.婚前契約

「おはよう、随分とよく眠ってたね」

もぞり、とベッドの中の彼女が身じろぎをしたので、イルミは当たり前のように声をかける。勝手に拝借したカップで珈琲を嗜みつつ、壁掛けの時計に目をやれば時刻は朝の6時だ。世間一般で言えばむしろ早起きの部類だが、深夜の仕事終わりになまえの家を訪れたイルミからするとかなり長く待たされたように感じる。別に起こしても良かったのだが、あれだけ上手くイルミの捜索をかわした彼女が無防備に寝こけているのを見て、すっかり拍子抜けしてしまったのだ。

確かに窓やドアには神経質なほどに鍵がかけられていたものの、イルミからすればこんなものはなんの防犯にもなりはしない。どういうつもりか内側からドアノブにぐるぐると鎖が巻き付けられていたが、これもどちらかと言えばなまえが不便なのではないかと思ったくらいだ。

結果、そんなこんなで簡単になまえの部屋に侵入を果たしたが、今回の目的は彼女を殺すことではない。イルミとしてはなまえが起きる前に色々やってしまいたいこともあったし、せめてもの優しさで彼女が目覚めるまで待っていたという次第である。

「……は?」

しかし半身を起こした彼女はまだうまく状況を理解できないのか、その一言を発したっきり、イルミのほうを見て固まってしまう。そうやって間抜けな顔をしていると、女というよりまだ少女と表現したほうが似合って見えた。

「……は?なんで……え?」

たっぷり一分以上はそうしていただろうか。彼女はようやく起動すると、今更のように飛び上がってベッドの上に立ち上がる。すぐに動けるような姿勢をとっているのは褒めてもいいが、裸足で丸腰という、相手がイルミでなくてもなんとも心もとない状況だ。

「……私を殺しに来たんですか?」

なまえは目の前にいる男が誰かを理解すると、ほとんど断定的な口調で物騒なことを言った。

「ううん、今のところそのつもりはないから安心して」
「じゃあ今更何の用です?私はもうあの家に関わるつもりは、」
「そのことなんだけどさ」

イルミは涼しい顔で、珈琲を最後まで飲み切る。いつもと違ってソーサーがないせいか、カップを置くとコトン、と木の音が響いた。それをなんだか長閑だな、と思ってしまうくらいには、イルミはとても機嫌がよかった。

「なまえにはオレの婚約者になってもらうから」



さて、一体彼女がどんな顔をするのか、これが楽しみで朝まで待っていた。動揺、驚愕、拒絶、そのあたりの反応は想定内だからこそ、こちらも既に手を打ってある。
肝心なのはその後だ。どうあがいても逃げられないとなったときの彼女の絶望や屈辱の表情を想像すると、腹の奥底から薄暗い喜悦が込み上げた。
同時に、自分はこんなに根に持つタイプだったのか、と自身で一番驚いてもいる。

「……はい?」

イルミの発言に、彼女は起きたときとほぼ全く同じトーンと表情で固まった。「意味がわからないんですが……なにこれ、夢?」本当に頬をつねって確認する馬鹿を、イルミは初めて見た。得体のしれない不気味な女という印象は、残念ながらもはや見る影もない。

「夢って、深層心理の現れらしいよ」
「……じゃあこれ現実?頭でも打ちましたか?」
「現実だし、頭なんか打ってないし、オレは真面目に話してる。いいから左手、見てみなって」

混乱の最中にあるためか、彼女は言われた通り素直に視線をやる。そうして自分の薬指に光るリングを発見し、声にならない悲鳴を上げた。

「なっ!なにこれ!?は、外れない!?」

銀色の輝きを放つそれは、邪魔にならない程度のダイヤがついた、ごくごくシンプルなエンゲージメントリングだ。しかしそのリングの裏側には互いの名前ではなく、神字がびっしりと彫り込まれている。

「それはオレじゃないと外せないし、無理に外そうとするのもやめておいたほうがいいよ」
「どういうつもり!?っつ!!」
「あと、垂れ流す分にはともかく、念も使わないほうがいいよ。一定量のオーラを纏えば激痛が走るし、さらに発ほど高密度までオーラを高めればその指輪は爆発する。もちろん、指を切り落としたりしても同じね」

痛みに思わず膝をついた彼女の額には、じわりと脂汗が浮かんでいた。
神字の製作者はイルミだったが実際に試したわけではなかったので、結構効果あるんだなと他人事のように考える。神字のことについては一通り学んでいたものの、あくまで補助的な要素が強く、手間もかかるし、操作系で刺せば終わりのイルミが使ったのは初めてだった。しかしなまえが屈辱を味わう姿が見たかったイルミとしては、精神ごと操作してしまう針よりも、多少手間はかかるが肉体のみの支配である神字のほうが都合がよかったのだ。

「大事にしてね、それ作るの一か月くらいかかったんだからさ」
「っ、誰がこんな!!そもそもどうして婚約なんて!あんなに私のこと嫌ってたじゃないですか!!」

嫌っていたのはそっちだろ、という言葉が喉元まで出かかったが、イルミは代わりに別のことを言った。「別に悪い話じゃないだろ、なまえだってあんなにうちに来たがってたんだし。婚約者になればさすがにオレも文句言わないよ」なまえはまだ痛むのか薬指を握りしめ、今度こそはっきりとした敵意をもってこちらを睨みつけてきた。

「キキョウさんにでも、泣きつかれたんですか」
「惜しいね。でも母さんに頼まれただけで婚約するほど誰でもいいわけじゃないよ。お前には責任を取ってもらおうと思ってね」
「……まさか、キルアのことで?」
「そう。お前のせいでキルが反抗的になってこっちは困ってるんだよ。なまえがいればキルも大人しくせざるをえないでしょ?」

要は婚約者とは名ばかりの、ていのいい人質だ。なまえもそれがわかったのか、苦々し気に眉をしかめる。しかし彼女にはどうしようもないはずだ。念を発動して身体を使い捨てにしないところみるに、今現在の彼女は“本体”であるようだし、ただでさえ力の差があるのに念無しでは逃げることもままならないだろう。

イルミはさらに追い打ちをかけるよう、自身の左手も掲げて見せる。そこにはなまえの物とは違い、石のついていないシンプルなリングが光っていた。

「そうだ、そのリングは対になっていてね。オレの意思でなまえに罰を与えることもできるんだ」

デモンストレーションとばかりにイルミが指輪にオーラを込めれば、彼女は声こそ出さなかったものの苦痛にもだえる。それでも、こんな圧倒的不利な状況でも、その瞳に浮かぶのが恐怖でなく怒りであるのがとてもなまえらしいと感じた。

「ま、そういうわけだからなまえにはオレと一緒に来てもらうよ。
あ、そうそう、このことは二人だけの秘密だから母さんたちの前では話を合わせてね。
もしどうしても演技なんかできないっていうなら、針でサポートしてあげるけど」
「……キルアに家を継ぐって言わせたら私は解放されるんですか」
「そうだね。でも、もちろんキルが本心から言うようじゃなくちゃいけないよ。なまえが解放される条件はひとつ、キルを立派な暗殺者にすること。もしくは、」

――死が二人を別つまで

「オレかおまえか、どっちかが死ねば解除される。
攻守交替といこうじゃないか、ね、なまえ」

そうだ、その顔が見たかった。
今回向けられる敵意は理由が明確すぎるほど明確で、逆に清々しいぐらいである。
イルミは久しぶりに心から愉快な気分になったが、残念ながら家族ではないなまえにその機嫌が伝わることはないのだった。


[ prev / next ]