- ナノ -


「雨、止みませんね」

ことり、と机に物が置かれる音がして、クロロはようやく視線をあげる。気が付くともう部屋はうす暗い。立ち上る湯気と香りから、カップの中身は確認するまでもなくコーヒーだとわかったが、少しも飲む気にはなれなかった。

「……悪いな、もう少し世話になることになりそうだ」

窓から見える空には、薄い雲が層状に広がっている。その雲から絶え間なく、一定の強さで雨が降り続いて、今日でもう4日目だろうか。ヨークシンで心臓に鎖を打ち込まれたクロロは団員たちと別れ、予言のままに東を目指していた。そしてその途中で雨に降られ、近くにあった教会で雨宿りをすることにしたのだ。

「別に構いませんよ。ここは元から雨の多い地方なのです。貴方以外にも旅人の方がよくいらっしゃいますし、神の教えに従えば、困っている方を助けることはごくごく当然のことです」
「信仰、なんてものからは程遠い生活を送ってきたが」
「信じなければ救ってくれない神など、神ではありません」
「はは、とてもシスターの言葉とは思えない。それじゃ神を否定したも同然じゃないか」

別に、いつ止むかわからないものを待つくらいなら、雨に濡れたって構わないのだ。それでもなんとなくここの居心地がよくて、クロロは出立を天に任せることにしていた。いつもは教会なんてものに興味はなかったが、ウヴォーを失い、パクノダを失い、自分でも気づかない内に感傷的になっていたのかもしれない。そしてもうひとつ、このなまえという名のシスターは、若いながらも妙に人を安心させる、不思議な雰囲気の持ち主だった。

「神は助けてくれないことのほうが多い。てっきり、俺の信心が足りないのかと思っていたが」
「そんなことを言ったって、貴方は神など信じていないのでしょう?」
「ばれているのか、いよいよここに居づらくなったな」
「信じなくても、神は救ってくださります。救うべき時にのみ、ですが」
「では、俺は救うべきでないと判断されたのだな」

あぁ、それなら少し合点がいく。常々、本当に神がいるのならすべての人間を平等に救うべきだと思っていた。本当に神ならば、信じる者しか救わないなんて利にとらわれた考えはおかしいのだ。人間じみ過ぎている。だからこそこの世に神なんていないと思っていたが、神はこの世界の悪をお認めになっているらしい。そうだ、初めから貧困を、飢餓を、あの流星街を、神が許していなければ旅団なんて存在しなかったのだ。

「……貴方には救われたいことがあるのですか?」

天気の悪さも相まって、部屋はすっかり暗くなっていたが、なまえは小さなろうそくを一本、灯しただけだった。はっきりと顔が見えないほうが話しやすいと思ったのかもしれない。そしてその考えは正しく、クロロは不意に話してしまいたい衝動に駆られた。

いや、頭のどこかでいざというときは殺してしまえばいい、というずるい考えがあったのだろう。今更善人ぶったところで意味がない。それに神が救うべきにときに救うというなら、彼女はここでクロロに殺されはしないだろう。

ようやく口をつけたコーヒーは、ぬるく苦いものになっていた。

「最近、近しい人を立て続けに亡くしてね。思いがけず悲しんでいる自分に驚いてるんだ」
「それは……安らかな眠りにつかれますよう、心よりお祈り申し上げます。ですが、なぜ驚くのです?死を悲しく思うのは悪いことではありません」

「死を悲しんでいいのは、死を与えたことのない奴だけだろう?」

クロロの言葉に、彼女が小さく息を呑むのがわかった。さて、なまえはどうするのだろう。目の前にいるのは人殺し。夜目が効かない彼女でもこちらの姿はうすぼんやりと見えているだろうから、クロロが相変わらず外を見たまま、微動だにしていないのはわかるはず。けれども彼女は逃げも叫びもせず、じっとしたままでいた。もしや、怖くて動けないのだろうか。

「シスター、この手の懺悔はありふれていたか?」
「いいえ、驚きました。でも貴方のそれは懺悔ではないでしょう」
「ふっ、なんでもお見通しというわけか。ではこのまま聞いてもらっていて構わないか?」
「……私でよければ」

彼女は小さく頷いた。それが好奇心からのものか、職務を全うしようとする使命感からなのかはどうでもいい。とにかくクロロは声に出したかった。だからこれはもはや独白なのかもしれない。なまえが生きようが死のうが関係ないのと同じように、なまえが聞いていようが聞いていまいがどちらだっていいのだ。

「つい最近、見ず知らずの子供に聞かれたんだ。“なぜ自分たちと関わりのない人間を殺せるの”と。子供にしてはなかなかいい質問だろう。いや、子供だからこその哲学的な質問なのかもしれない」
「……貴方はそれになんと答えたのですか」
「教育に悪いと叱られそうだが、正直に。“関係ないからだ”と答えた。もっとも、この回答に満足しているわけではない。改めて聞かれると答え難い問いだった。でも逆に、この子供の言い分では関わりがあれば─殺す理由があれば殺してもいい、そう言っているようにも取れないか?」

あの子供は純粋だが、一方で酷く危険だと思う。善悪の区別がつかない子供は時として残酷だ。押し付けた正義は暴力にもなりえる。だが、そんな子供から発せられた言葉だからこそ、クロロは考えてみる気になったのだ。

なまえはクロロの言葉を吟味するようにたっぷり間を置いた後、はっきりした声で返事した。

「それは……貴方の穿った見方でしょう」
「あぁ、そうかもしれない。でも、俺の仲間は殺される理由があって殺されたんだ。関わりのある奴に、殺された。それはやはり、糾弾されるべきだろうか?」
「当然です、いかなる理由があっても人殺しは人殺しです」
「では、俺も悲しんでいいのだろうか。死なんて飽きるほど見てきた俺が、今更泣くのはおかしな話だろう」

自分の死は怖くない。だが、仲間が死ぬのは耐え難い。たとえこちらに非があったとしても、そんなことを抜きにして怒りと悲しみがこみ上げる。しかし理性はそれを馬鹿だと嘲笑った。都合がよすぎる、と侮蔑した。団長として振る舞っている時はよくても、ひとたび“ただのクロロ”に戻ってしまえば、心と頭は別のことを言っていた。

「……別に泣いても、おかしくはないと思いますよ」
「なぜ?」
「さぁ、今度はそれが貴方にとって“関係あるから”じゃないでしょうか」
「……」

なまえの言葉は先ほどのクロロの言葉を逆にしただけのもので、一瞬茶化されているのかと思った。しかし、その声は穏やかであり、正直さを滲ませている。クロロは口をつぐんで彼女の言葉の続きを待った。

「今こうしている間にもどこかで誰かが死んでいるのでしょう。私はそれを痛ましい、とは思いますが泣きまではしません。
……“関係がない”からです。泣きたくても泣けません」

なまえは静かな声でそう言った。そこには自分のことを恥じる気持ちは一切なさそうである。聖職者でありながら建前で誤魔化さない彼女に、感じたこれは好感と呼ぶものだろうか。

「涙が出たとしても貴方がその方々を大事に想っていた、という証明に過ぎません。貴方は特別自分勝手な人間でも、特別優しい人間でもなんでもないのですよ、思い上がらないでください」
「……やっぱりあなたはシスターらしくない」

はは、と上がった口角のすぐ横を温かいものが伝ったが、クロロそれを拭わずそのままにした。あぁ、これがパクノダの分の涙だ。
明らかに自分の犠牲となった彼女の死は、戦って死んだウヴォーとはまた別の重みをもってクロロにのしかかっていた。こんな自分が悲しみを表して、そしてそれで終わりにしてしまうのは許されないと思ったのだ。

だが、二人は、結成時からの仲間なのだ。泣いて何が悪い。死を悼んで何が悪い。ウヴォーへの慰霊はセメタリ―ビルで済ませたが、パクノダの為にも自分は早く蜘蛛へと戻らなくてはならない。

止まることを知らない涙は、まるでこの雨のようだと思った。



「……でも、きっと貴方は泣かないのでしょうね」

やがて、静かに涙を流すクロロに、なまえはぽつりとそう言った。

「……というと?」
「本当に悪い人は誰の死にも心を痛めないのですよ」

彼女の言葉とともに、唯一の灯りだったろうそくの火が消される。辺りを闇が包んで、彼女からはもう、クロロの姿は見えないだろう。

「あぁ、そうだな……俺は泣かないだろう」

こうして彼女の言った通り、神はなまえを救った。涙を流しきったクロロには、なまえを殺そうなんて気持ちはこれっぽっちも沸かなかったのである。


みえないふりがじょうず
地雨(じあめ) しとしとと、何時間にもわたって降り続く雨




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