- ナノ -


強い雨に降られて逃げ込むように帰宅すると、家の中が酷い有様だった。
靴箱の中身をすべて引きずり出された玄関。無残に破れたソファ。本棚の物も全て床にばらまかれ、果ては冷蔵庫の中身までぶちまけたらしい。

なまえの記憶が正しければ、こんな状態になるのは半年と四日ぶり。どっと疲れが押し寄せてきたが、まずはこの元凶をどうにかしなければならない。ざっと見た限り、リビングにはいないようだからさては寝室か。あえて気配を消さずにドアを開けば、なまえのベッドが大きく膨らんでいた。

「……イルミ、今回はどうしたの」
「……」

まさか本当に寝ているはずはないから、わざと黙り込んでいるのだろう。第一彼ならばたとえ寝ていたとしたって、なまえの気配に気づいて目が覚める。返事がないのでベッドに近寄ると、なまえはおもむろに布団をはぎ取った。

「あれで少しは気は済んだの?」
「……うん」
「何があったの」
「……」

ここまでされても、イルミはまだ動く気にも話す気にもなれないらしい。が、彼が理由を言わないのは今に始まったことではない。なまえは溜息をついて、ベッドの端に腰を下ろした。こうなってしまえばイルミの気が済むまで待つよりほかにない。

なまえとイルミは、恋人というには淡泊で、友人というには重すぎる関係だった。
始まりは5年前。同業であるなまえはもちろん仕事を通して知り合い、一度だけ身体の関係も持った。でも、それはなまえにとってもイルミにとっても、それで終わりの後腐れのない関係だったはず。だが何を思ったのか、今でもたまにイルミはやってくる。連絡もなしで、来るタイミングも自由で、そしてなまえの部屋を滅茶苦茶にして帰っていく。

いきなり昔の女の元を尋ねて来る上に、ろくに会話もせず暴れていくなんて誰がどう聞いたって迷惑な話だ。だが、イルミがここへ来るのは間違いなく何かを溜め込んでしまったときであり、それを知っているなまえは、この驟雨のような彼の行いをやり過ごすしかなかった。

「……なまえ、」
「なに?ようやく話す気になった?」
「ううん」

小さく首を横に振ったイルミは、とても幼く見えた。いや実際、やっていることは幼稚でしかない。本気でストレス発散したいのなら人を殺すなり、それが出来ないならどこかの山でも潰して来ればいいものを。イルミほどの男がわざわざ靴箱や本棚をひっくり返すなんて馬鹿げている。後日、彼の所から執事が派遣されてきて、一切の片付けや弁償を行ってくれるから、まだ少しは許せるのだが。

イルミはゆっくりまばたきをすると、寝転がったままなまえを見上げた。

「なまえはさ、なんで怒らないの」
「……怒ってるよ。でも、諦めのほうが強い」
「迷惑?」
「まぁね」
「じゃあもう来ない方がいい?」
「今更、だね」

本当に、今更過ぎる。それとも彼もようやく他人に迷惑をかけてはいけないと理解できたのだろうか。しかしなまえは返事をしてから、今のこのイルミの質問も単なる誘導だったのだと気づかされた。なまえが来るな、とは言わないのを知っていて、イルミは来ないほうがいい?なんて聞いたのだ。

「よかった、なまえのところって落ち着くんだよね」
「……」
「オレ、他に行くところなんてないしさ」

「よく言うよ」

あぁ、これではまるで嫉妬しているみたいだ。イルミなら、その気になれば女なんて掃いて捨てるほど集まって来るだろう。だから何もわざわざなまえのところに来なくたっていい。たった一度寝ただけの女にすがって、安寧を求めなくたっていい。だがそれを言うならなまえも、どうして一度きりの男に振り回されてやっているのだろう。情でも湧いたか。馬鹿馬鹿しい。だが、次のイルミの言葉で、なまえは自分のことが少しだけわかったような気がした。

「ほんとだよ、オレがこうして訪ねるのはなまえのところだけ」

きっと、これは一種の優越感なのだろう。あのイルミの、弱い部分を知っているのは自分だけ。そしてなまえがその優越感に浸っていることも、この男はとうに見抜いている。見抜いて、それを利用している。

彼には心に溜め込んだもののはけ口が必要だった。そしてそのはけ口は、普段の彼の生活に近すぎてもいけない。一度は身体を交えていて、でもそれ以上を望まないなまえは、彼にとってまさに丁度いい距離だったのだろう。加えて、他人にかける迷惑だからこそ、許容された時に得られる安心感は大きい。何も知らないような顔をして、この男は本当に狡猾だ。

狡猾なのに、どうしてもっと簡単な手段に頼らない?

「泣けばいいだけの話なのに」
「え?」

思わず漏れたなまえの呟きに、イルミはきょとんとした表情になった。でも別にとぼけているわけではなさそうだ。本当にわからないのだろう。なまえはイルミに手を伸ばし、そっと頭を撫でてみた。意外にも抵抗はされない。

「イルミは、他人の感情を操るのは上手いくせに、自分となると本当に下手くそだね」
「……そうかもしれない」

大抵はこうしてすべて無茶苦茶になった後になまえが帰宅するのだが、前に一度暴れている状態のイルミを見たことがある。手当たり次第にその場にあるものを壊していく彼の横顔はいつもの無表情なのに、なぜか激しく泣いているように見えた。だからきっと、これは泣けないイルミなりの泣き方なのだろう。

「ちゃんと執事、寄越してね」
「うん」

いつかイルミがちゃんと泣ける日が来るまで、なまえはこの激しい雨を受け止め続けてやろうと思った。


これは欠乏です
驟雨(しゅうう) ざあざあと激しく,短時間に降る雨

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