- ナノ -


もうここに帰ってきても、おかえりと言ってくれる人はいない。

霞むように降る細かな雨のせいで、知らないうちにスーツがしっとりと濡れていた。整備されていない森の道は抜かるんでいて歩きにくいことこの上ないが、この場所こそがクラピカの生まれ育った地である。

あれから、クルタ族の虐殺から、もう6年以上になるのか。けれども未だに緋の目を回収し終わることも、旅団を倒すこともできないでいた。中途半端に再生した森を見ると、今の自分を突きつけられているようで気分が悪い。
傘に反響する小さな雨音だけが、クラピカを沈黙の世界から救っていた。

別に今更、ここへなど来る必要はなかった。ここへ来て決心を固めなければならないほどクラピカは迷ってはいないし、感傷に浸る余裕もない。けれどもファミリーの仕事でここの近くに宿をとったとき、自然、足がここへと向かっていた。

「誰だ」

気配がひとつ。一般人だろう。それでもつい癖でクラピカが声をかけると、がさっ、と盛大に木々を揺らす音がした。そして、恐る恐るといった様子で姿を現した少女はこの雨の中傘もさしていなかった。

「あ、いや……すまない。驚かせるつもりはなかった」
「あなた、誰?」
「この近くの街に仕事で来ただけなんだ。君はあの街の人間か?」
「ううん、私、ここに住んでるの」
「ここに……?」

一体どういうことだろう。クルタの村はとうに焼けてしまって、ここに残るは森ばかりのはずだ。とりあえず自分の傘を傾けて差し伸べると、彼女はゆっくり顔をあげた。

「っ、君は……」
「左目は見えないの、それだけ」

言葉と共にふい、と反らされた瞳。その片方はよくある黒色で、もう片方は青みがかっている。その瞳の青だけが、顔立ちや雰囲気、髪、肌の色、彼女の全てから浮いて見えた。美醜を抜きにして、クラピカの目にはとにかく異質に映った。

「気を悪くさせたのならすまない」
「いいよ、別に緋の目と違って狙われるような程のものでもないしね」
「……」
「それで、お兄さんはどうしてここへ?」

一瞬、なんと答えるべきか迷ったが、そもそも迷うこと自体おかしいのだ。この少女はたまたまここで会っただけの存在で、クラピカの素性も知らなければ別に教えてやる必要もない。「興味があって、少し寄っただけだ」まさか、こんなところに人が住んでいるとは思わなかったが。

「ふーん、興味ってクルタの事件に?」
「あぁ」
「残酷だよね」

彼女は心のこもらない声でそう言って、クラピカを探るように見た。けれどもクラピカにはその感想の、その瞳の意図が読めなかった。どうして彼女は自分にそんな話をするのだろう。居心地の悪さが胸を満たしたが、傘を差しかけているせいで彼女の視線から逃れることもできない。見えていないはずの青の瞳は、逆に何もかも見透かしているように澄んでいた。

「我々は何も拒まない、だから我々から何も奪うな」
「っ、それは、」
「私、元は流星街の出身なの。売られそうになってここまで連れてこられたんだけど、逃げてきたのよ。ねぇ、お兄さんは記者さんか何か?クルタのことに興味あるなら、流星街にだってあるでしょ?聞きたいことがあるなら答えるよ」

彼女はようやくそこでにっこりと笑った。クラピカも彼女の意図がやっとわかった。この少女はクラピカを記者と勘違いして、情報を売りつけようとしている。線の細い見た目とは裏腹に、したたかで、強い。そうでなければ生きてこられなかったのだろう。だが、そうと分かれば彼女のことは警戒する程のものでもない。「そうか……」クラピカは肩の力を抜いて、小さく息を吐いた。特に知りたいわけではないが、無下に扱うのも気が引ける。

「では、流星街での暮らしはどのようなものだったのか教えてくれないか?」
「酷いところよ、でも決して悪くはないの。外の人達にとってはゴミでも、私達には宝の山だった。何でもありのようで、それでもルールがきちんとあった」
「ルール?」

彼女は、長老達による議会制度のことを言っているのだろうか。クラピカだって今はファミリーの一員、多少なりとも流星街の裏事情や外交の仕組みについては知っている。だが、こんな普通の子供がマフィアと関わりがあるなんて思えなかった。

「そう、仲間は大切にしなくちゃいけないの。もしも誰かが傷つけられたら、皆で仕返しに行くの」
「……なるほど」

それは酷く子供じみた表現だったが、それこそが紛う事無き流星街の理念。そして残念なことに、クラピカにも共通した考えだった。

「……仕返しは正当なのか」
「うん」
「仲間が傷つけられたら許せないか」
「当たり前でしょう」

「ではなぜ、クルタ族を殺したんだ……彼らにだって仲間がいた。大切な人間がいた。失うことの悲しみと憎しみを知っていながら、どうして殺したんだ!」

突然のクラピカの変化に、さっ、と彼女は表情を強ばらせた。こんなもの八つ当たりだ。わかっている。この少女が答えられるはずもない。けれども彼女は何か答えなくては、と思ったのか震える唇を開いた。

「……仕返し、だったんじゃないの……?私達から何か奪ったんじゃないの?」
「そんなこと、」
「だって、あのメッセージを出すのは"そういう時"だけだもん……!」
「……」

泣き出しそうな彼女を前に、クラピカは呆然とするしかなかった。いや、本当は少し、自分でも考えていたことだ。旅団を追いかけているクラピカは過去にも彼らの起こした事件を調べていたが、それらにメッセージが付与されていたケースは知らない。それが意味することくらい、わからないわけではなかった。

が、だからといってあそこまでやる必要はあったのか。仕返しはどこまで正当なのか。一体クルタの民が何をしたというのだ。

けれども仕返しの正当性を突き詰めれば、それはクラピカの首をも締めることになる。八方塞がりだ。考えたくない。目を伏せたクラピカは、かすかに聞こえる雨の音だけを聞いていた。そして意識は雨に向けたまま、気をつけて優しい声を出した。

「……そういえば君の、名前は?」
「え……なまえ、だけど……」
「そうか、貴重な話をありがとうなまえ」

財布から紙幣を抜き取り、なまえの手に半ば無理やり握らせる。ついでに傘も押し付けるように渡してクラピカは背を向けた。彼女のことを怖がらせてしまったのは完全に自分の落ち度だ。なまえは少しも悪くはない。しかし、流星街から出た彼女には、仕返しをしない世界のことも知って欲しいと思った。

「あ、あの……!」
「そうだ、それともうひとつ。君の目はきっと治る。私にも目の悪い友人がいたんだ」
「そう……」
「なまえ、世界は広いんだよ」

共に世界を見に行く約束をしたパイロはもういない。けれどクラピカは今更引き返すことなどできなかった。たとえそこにどんな真実があって、どんな結末が待ち構えていたとしても。

「パイロ……」

お前は復讐なんてやめろと言うだろうか。でもお願いだ、そんなこと言わないでくれ。もうこれしか残っていないのだ。

燻るように降る雨のせいで景色が霞んで見える。それが涙でぼやけた視界だとは、クラピカ本人すらも知らなかった。

コマドリは誰を殺したの
煙雨(えんう)煙るようにかすんで降る雨。

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