- ナノ -

■ 04.黒薔薇の花言葉

二人の挙式は、それはそれは豪華なものだった。

といっても実際の参列者はみな身内や執事ばかりなのだが、俄然イルミの母親が─今ではもうナマエの母親でもある─はりきったせいで、少し勿体なく思うほどに華やかだった。
そして何十回とお色直しをさせられ、式を終えた後のナマエの疲労は言葉にできないほどのもの。だが、その表情がどこか晴れやかでないのは、ただ疲れのせいだけではない。

ナマエのマリッジブルーは近頃本当に酷いものになっていて、それはこうして正式に結婚した後も緩和されるどころかより酷いものになっていた。式の後にすぐ籍も入れに行ったので、これからはゾルディックの姓を背負っていかなければならない。言うまでもなくその重圧は酷く重苦しく、また夫であるイルミに対する思いも判然としないまま、日々は矢のように過ぎ去って行った。

「ただいま、ナマエ」
「あ、おかえりなさい」

暗い気持ちを持て余して物思いにふけっていたナマエは、扉の開いた気配に気がつかなかった。もっとも相手はプロの暗殺者なのである程度仕方がない部分はあるが、かくいうナマエだって同業者。注意力が散漫だったことは否定できない。慌てて椅子から立ち上がろうとしたナマエを制して、イルミは何も変わりない?といつものように尋ねた。

「ないわ」
「そう、ならいいんだ」

執事がいるから、妻としての仕事もこの家には無い。仕事に出ることも禁止され、外敵に脅かされることもないこの堅牢な家で、一体何が起こると言うのだろう。ほとんど軟禁されていることへの不満は、すぐさま結婚生活への不安に結びついた。本当にこれで上手くやっていけているのか。彼と結婚してよかったのだろうか。政略結婚といっても相手は幼馴染だし、彼自身もナマエが好きだと言ってくれている。いっそお互いに愛が無ければ気にもならないのに……。
籍を入れても身体を重ねても、イルミのことをどこかまだ愛しきれないでいる自分が酷い人間のような気がして、そのことがより一層ナマエの心を重くさせていた。

「本当に変わりないようだね。相変わらずナマエはオレと目を合わせてくれない」

ぽつり、と呟かれた言葉は抑揚が無いはずなのにナマエを責めている。いつもは帰宅するなりすぐにバスルームへと向かうイルミが、今日に限ってずっとつっ立っていると思ったらこの台詞だ。
ナマエはハッとした表情になると、弁解の言葉も浮かばずただ首を振るしかなかった。そもそも彼の言葉は真実で、ナマエは極力イルミの目を見ることを避けている。あの大きな黒い瞳に見つめられると心の奥底まで見透かされそうな気がして、今の憂鬱な気分のナマエにとってはそれはそれは恐ろしいものだったのだ。

「ま、いいよ。別にナマエが何を考えていようと、ナマエがオレの妻であることには変わりないからね。それより今日はプレゼントがあるんだよ」
「プレゼント……?」
「そう。きっと喜ぶよ」

イルミがそう言うなり、計ったように扉がノックされる。結婚してから欲しいものはなんだって手に入ったが、彼自身から贈り物をもらったことは未だかつてなかった。だからこそナマエは期待よりも先に警戒してしまう。薄れぬ記憶に愛猫の剥製があって、またも胸が苦しくなった。ああ、本当に、どうして結婚してしまったのだろう。別にあの一件で絶交したってよかったのだ。けれどもこうして縁談の話が持ち上がり実際に結婚してしまうほどまで、ナマエとイルミの縁は深いものだった。

いや、思えばいつだって彼が離れることを拒んだのだ。
時には死すら想起させる沈黙で。時にはほんのひとかけらの優しさで。
そして彼が根っからの悪人ではないということもまた、彼を嫌いになれない理由の一つでもあった。

「ほら、ナマエはこれ好きだっただろ。ようやく満開になったんだ」

執事から受け取ったものをそのまま手渡したイルミは、驚いた表情のナマエに少し口元を緩めた。真っ黒な薔薇の花束は、ナマエの腕から零れ落ちそうなほど大ぶりの花を咲かせ、強い香りを放っている。この意外な贈り物に、ナマエはひたすら驚くばかりだった。

「……でも、どうして?もう庭には薔薇なんて」
「昔オレが根こそぎ刈っちゃったからね。でも、ナマエと結婚したらまた庭に咲かせようってずっと計画してたんだ」

イルミはなんでもないことのように言ったが、一体それは何年前の話か。花は明らかに昔見た物より大きく美しく、長い時間をかけて交配されたことが一目で見てわかる。ナマエはイルミを疑い、後悔さえしていた自分を酷く恥じ入って、喜ぶどころではなかった。

「ありがとう……その、ほんとにごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「手間がかかったでしょう。ありがとう、嬉しいわ」
「いいんだよ、ナマエが喜んでくれるなら。それに今日は記念日でもあるんだし」
「記念日?」

先ほどから聞こえてくるのは、およそ普段の彼には似つかわしくない言葉ばかり。記念日と言っても流石にまだ結婚して一年も経ってはいないし、イルミが過去に拘るとは思えない。ナマエはいよいよ困惑して、彼を見上げた。そして久々に彼の真っ黒な─薔薇に負けないほど深い色の瞳を見つめた。

「そう、ナマエがちゃんとオレの物になった記念日」
「どういうこと?」

そこまで言ってイルミはそっとナマエを抱きしめた。予想もしていなかったことに一瞬肩が跳ねるが、抵抗するのもおかしな話だ。それにナマエの胸は先ほどからずっとイルミに対して罪悪感でいっぱいである。「イルミ、どうしちゃったの?」とりあえず強張った身体を誤魔化すようにそう問えば、ふと彼の身体から濃厚な血の匂いがすることに気が付いた。甘い薔薇と鉄臭い血が混ざり合って、むせ返るような匂いに包まれる。仕事終わりとはいえ、綺麗な仕事をする彼にしてはどうもおかしい。

「……イルミ?」
「今日誰を殺してきたと思う?」
「え?」
「今まで何回もナマエを泣かせたけど、一度だって泣かせようと思ったことはなかった、ほんとだよ。薔薇を切ったのも、猫を剥製にしたのも、ただナマエを喜ばせようとしただけだったんだ。だけどね、」

イルミは子供をあやすようにナマエの背中をゆっくり撫でた。が、一方でその両腕はナマエを決して逃がすまいとしているようでもあった。これから聞こえてくる言葉が恐ろしく、ナマエは固く目を瞑る。薔薇の花束はイルミとナマエに挟まれてくしゃくしゃになってしまっていた。

「今回だけは違う、これは明確な悪意だ。だからナマエはオレを憎めばいいんだよ。恨めばいいんだよ。ナマエがオレを愛せなくても、憎むことくらいはできるでしょ?」

彼は愉快な色を声に乗せて、彼にしては珍しく嬉々として囁いた。「ナマエの家族は皆死んだよ。オレが殺した」これで晴れてナマエはオレだけのものになったね。そこまで言われて、ようやく彼が記念日と言ったわけがわかった。


「っ……そんな、」
「もう”嫌い”だって言ってくれてもいいよ。どんな形でもナマエがオレのことを想ってくれるのなら嬉しいから」


─好きだよ、ナマエ。

こうしてナマエの抱いていた漠然とした不安は、この日確かに現実のものとなった。怒りも、泣きわめきもしないナマエを不思議に思ったのか、僅かにイルミの抱擁が緩む。そのせいで力ないナマエの手から花束が落ちて、床に黒い花弁を散らした。

「あぁ、本当に、どうして……」

イルミを愛せなかったナマエが悪いのか。だからこそ彼はこんな手段にでなければならなかったのか。ぼやけていく視界の中で、薔薇の黒色だけが染みのように消えてはくれない。

それはやはり美しくても、あの日見たのとそっくり同じ、死にゆく薔薇に違いなかった。

End

→あとがき(補足)

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