- ナノ -

■ 02.白い妹

「結婚後のことだけどさ、」
「……え?あぁ、うん。なに?」

するりと髪を手で梳かれ、ナマエはハッと我に返った。
一応婚前交渉はしない、という暗黙の了解があったものの、イルミの部屋に泊まってそのまま眠りにつくことも少なくない。ベッドの中でまどろみかけていたナマエは、イルミの胸にうずめていた顔を少し上げた。

「結婚後はね、ナマエには家にいてほしいと思ってるんだ」
「……どうして?仕事は?」
「別にナマエが働かなくても、特に不自由はさせないよ」

違う、そうじゃなくて。

「私だって暗殺一家だし、暗殺しない妻なんて結婚した意味ないじゃない」
「そんなことないよ。オレはナマエと好きで結婚するんだから、ナマエが家にいてくれることの方が大事だよ」

それにうちの母さんだって家にいるだろ?

そう言われてしまっては、ナマエは何も言えなかった。だが、どこか胸のうちにすっきりとしないものを抱えこんだ。「でも、ずっと家にいたら息がつまりそう」別に暗殺の仕事が好きなわけではないが、この広い屋敷でイルミの帰りを大人しく待つというのは、どうにも性に合わない気がしてならない。

「寂しい?」

イルミの問いかけはナマエの心情を正確には表してはいなかったが、促されるようにして頷いた。

「そう、じゃあペットでも飼えばいいよ。ナマエは猫が好きだろ?」
「猫……」
「うん、昔よく可愛がってたじゃない」

そう言われて、ナマエはまた思い出した。「ううん、猫は、動物はもういいの」生き物は死んでしまうから。人間よりもずっとずっと寿命が短いから。

「そう」

頭の上で呟かれたその言葉は、どこか嬉しそうな響きを含んでいた。




ナマエは昔、真っ白な猫を飼っていた。
それは一人っ子だったナマエにとって姉妹のようなものであり、イルミと親しくなってからもそれはずっと変わらなかった。
仕事以外は何処へ行くにも小さなバスケットに入れて連れて歩いて、それはそれは可愛がっていたのだ。
イルミは始め、ミケと違って何の役にも立たない猫に関心を示さなかったけれど、ナマエがいつもいつも笑顔で自慢するため、次第に猫に構うようになった。


「これじゃどっちが猫かわからないね」

日向で丸くなっている猫のしっぽが、誘うようにゆらゆら揺れる。それを視線で追っていたイルミはナマエの笑い声に振り返ってこちらを見た。

「猫?オレが?」
「うん。イルミは黒猫っぽいから」

その頃のイルミは既に髪を伸ばし始めていて、首を傾げると肩甲骨の辺りまで伸びた髪がさらさらと揺れる。しかし身体は細いながらも筋肉質で、そのしなやかさが余計に猫を思わせた。

「ふぅん……」
「あ、怒った?」
「別に。ナマエは猫が好きなんでしょ?だったら嫌じゃないよ」

慣れない手つきで猫を抱き上げるイルミがどこか可愛らしく見えて、ナマエはふふ、と微笑む。確かに薔薇の一件は驚いたけれど、その後も交流を重ねるうちにイルミに悪気はないのだとよくわかって、ナマエはむしろ彼に惹かれ始めていた。

「よかった。私、イルミが妹と仲良くしてくれると嬉しい」
「妹って、ナマエの方が年下じゃないの?」
「え?でもこの子はまだ15歳くらいだよ?」

確かに飼った頃の子猫とは違って、横にも縦にも大きくなった。昔は元気に走り回っていたのに、今ではこうして丸くなっていることの方が多くなった。
それは確実に猫が老いてきていることを示していたが、ナマエにとってはいつまでたっても可愛い『妹』なのだ。
しかしイルミは彼持ち前の正直さで、ナマエに向かって残酷な真実を告げた。

「猫の15歳なんて、人間で言ったら70歳超えてるよ。いつ死んだっておかしくない」
「……そんなこと、」
「オレが嘘をつくと思う?」

仕事で人間の命を奪っているくせに、その時ナマエは急に死というものが怖くなった。いや、ナマエが恐れたのはそんな抽象的なものではなく、現実としてそこにある喪失だ。大事なものが、ある日突然いなくなることが怖かった。

「やだ……離れるなんて嫌だよ」
「でも、いつか絶対別れが来る」
「どうしたらいいの?」

頭では、いくらイルミでもどうしようもないことくらいわかっていた。それでも不思議と彼ならなんとかしてくれるような気がして、気づけば彼の服をぎゅっと握り締めていた。

「……わかった、じゃあしばらく借りるよ。それでもいい?」
「どうするの?」
「大丈夫、オレに任せておいて」

説明が足りないのはいつものことだ。イルミに抱えられていた猫は居心地が悪いのか暴れだしたが、彼はそれをしっかり抱え込んで離さない。ナマエは自分から彼を頼ったので今更嫌だとも言えず、ただその様子を見ているしかなかった。

「ナマエ、そんな顔しないでよ。少し離れるだけだって」
「うん……」
「この猫、『妹』とずっと一緒にいたいんでしょ?」

だったら少しは我慢しなきゃ。

イルミの言うことはその淡々とした口調のせいか、やけにもっともらしく聞こえた。頷いたナマエに、話は決まったとばかりにイルミは猫を抱き直し部屋を出て行く。


扉が閉まるその瞬間、『妹』は悲痛な声でにゃあお、と鳴いた。


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