■ 01.マリッジブルー
「ナマエはオレと一緒にいるの嫌?」
ソファーに並んで腰かけて、しばらく他愛のない会話をしていた時のこと。
何気ない調子で呟かれたその言葉に、ナマエは思わずぴくりと反応した。突然何を言い出すのかと思ったら、彼らしく本当にストレートな問いかけ。そして彼がそんなことを聞くということは、ナマエの何かが彼にそう思わせたのだ。
「そんなことないけど……」
特別喧嘩したという事情があるわけでもなく、久々に一緒にゆっくりした後なので、なおさら気まずい思いに駆られる。イルミはゆっくりと瞬きを繰り返すと、責めるわけでもなく淡々と言葉を続けた。
「だって、一緒にいてあんまり嬉しそうじゃないから」
「表情のことはあんまりイルミに言われたくないわね」
別に嫌いなわけじゃない。イルミのことは同じ暗殺者として尊敬もしてるし、男性としてもとても魅力的だと思う。ただ結婚式を来月に控えた今になって、ナマエは少し不安になっているだけなのだ。
家のことはもちろん、本当にイルミとうまくやっていけるのか。もう10年以上の付き合いになるのに、未だにイルミのことがわからない時がある。今だってイルミがその無表情の奥で何を考えているのかちっともわからなかった。
「ちょっと不安なだけよ。イルミとは昔からの知り合いだし、なんだか結婚って言われても実感沸かなくて」
「別に、今まで通りでいいんじゃないの?」
「そうね……。ずっと実家暮らしだったから、家族と離れてこっちで暮らすってのもちょっと環境変わるし」
「慣れるよそのうち。いつも家族が口うるさいって文句言ってたじゃん」
「……そうよね」
こんなものは所詮、ありふれたマリッジブルーに過ぎない。
ナマエは自分を心の中で叱咤して、曖昧な笑みを浮かべる。「むしろ、いないほうがせいせいするかも」嫁に行くということは、ナマエもゾルディックの人間になると言うことだ。甘えたようなことばかり言っていられない。政略結婚とはいえこんな優秀な幼馴染が相手なら、むしろ幸せじゃないか。
イルミはナマエの頭を優しくなでると、そうだよ、と言い聞かせるように囁いた。
「大丈夫、ナマエはオレが幸せにするよ。これまでだって、そうだっただろ?」
「……うん」
ナマエは小さく頷いた。確かにイルミはナマエを大切にしようとしてくれている。けれども胸のもやもやは、漠然とした不安としていつまでも燻ったままだった。
▽▼
ナマエは昔、幼馴染のその男の子が苦手だった。
見た目は女の子のように綺麗だけれど、無表情で無口で、何を考えているかわからない。
家の付き合いで顔を合わせることはよくあったが、年も上だし遊びと言っても訓練めいたことばかりするし、遊んでいてもあまり楽しくなかった。
けれどもナマエの10歳の誕生日。
その日、母親と一緒にやってきたイルミは、ナマエに真っ黒な薔薇の花束を渡したのだ。
「お誕生日おめでとう」
きっと花を渡すことはイルミの意思ではなかっただろうが、ナマエは一目見て歓声を上げた。普通は赤や黄色の花の方が美しいに決まっているけれど、何よりもまずその珍しさに惹かれたのだ。
「すごい、これ本物?」
一見、作り物かと見まがうような色合いに、もはや溜息しか出てこない。うん、と一拍遅れて頷いたイルミは、花よりも珍しいものを見たと言わんばかりにまじまじとナマエを見つめた。
「うちの庭、変わった花がたくさん咲くんだよ。でもナマエがそんなに喜ぶとは思わなかったな……花が好きなの?」
「うん。それに黒い薔薇を見たのは初めてだから」
ありがとう、とナマエは笑った。もしかすると普通の人は真っ黒な薔薇を気味悪く思うかもしれない。けれどもナマエもまた暗殺一家出身で、そのあたりの価値観はずれている。イルミは薔薇とナマエを交互に見て、長い睫を瞬かせた。
「ナマエの笑った顔、初めて見たかも」
「え?」
ぽつりと呟いた彼は、他人にとやかく言えないくらい無表情。
「そんなことないと思うけど……」
飾ってちょうだい、と執事に花束を手渡して、ナマエはイルミを正面から見つめかえす。やっぱり自分はこんな無表情ではない。ナマエだって暗殺者の端くれだけれど、当たり前のように笑うし泣くし怒る。ただ、イルミのことが苦手だったので、もしかすると無意識のうちに笑っていなかったのかもしれない。
そもそもイルミは冗談も言わないし、どちらかと言えば怖いとすら思っていた。
「……うちにあるの見に来る?」
「え、いいの?」
「うん、屋敷より上の方に咲いてるからナマエは見たことなかったんだね」
「ほんと!?嬉しい!」
だが所詮、元をただせば子供の漠然とした苦手意識。この一件を機に、ナマエはイルミのことをいいお兄ちゃんだと思い直した。
そしてイルミもイルミでこの時、『ナマエが喜ぶということ』を理解したのだった。
そして後日イルミの家を訪ねたナマエは、約束通り彼に薔薇の自生する場所へと案内してもらった。特に品種改良をしたわけではなく、標高が高いゾルディック家の敷地だからこそ変わった種類の花が咲くのだそうだ。「すごい、本当に綺麗ね!」大輪の黒薔薇はそれはそれは美しく、ナマエは目を輝かせてはしゃいだ。
「そんなに喜ぶならあげるよ」
「ありがとう!」
てっきりまた花束にして渡してくれると思っていたナマエは、イルミの申し出を素直に喜んだ。だが夕方になっていざ帰ろう、となったとき、試しの門の前に用意されていた大型車に積まれた大量の黒薔薇を見て、思わず言葉を失った。
「……っ、こんなに?」
広い庭に咲いていた薔薇でも、荷台の上ではただの黒い塊。何より土から離れたこの花たちがあとはただ枯れていくだけの運命だと思うと、どこか陰惨な雰囲気をまとっているように見えた。
「うん。ナマエのために全部刈ったんだ」
「全部?ど、どうして?」
「だって、ナマエあんなに喜んでたじゃないか」
淡々とした声でそう言ったイルミは、固まるナマエに不思議そうに首を傾げた。彼の瞳に悪意は欠片もなくて、純粋にナマエが喜びの声をあげるのを待っている。
「確かに、嬉しかったけど……」
ナマエが望んだのはすべてを刈り取ることではない。こんなに大量の、死にゆく花ではないのだ。庭に咲いた生きている薔薇を見た後だからこそそう思うのかもしれないが、刈られた薔薇に喪失感を味わった。
しかしきっとそのことを告げれば、誕生日の花束も同じ死にゆく花だとイルミは言うだろう。
「ありがとう、イルミ」
結局、ナマエはそう礼を述べることしかできなかった。まだ子供のナマエには貰った花束と死にゆく大量の薔薇との違いを、ちゃんと説明することはできなかったのだ。
[ prev /
next ]