- ナノ -

■ 07.怖の感情

ベランダから前のマンションの部屋に戻ると、既に異臭がしていた。部屋を閉め切っているので近隣の住民にはまだ騒がれていないようだが、窓を開けた瞬間、後ろでなまえが小さく声を漏らす。イルミも死体には慣れているとはいえ、基本的に仕事が終わればすぐに帰る。血の匂いと腐敗臭はまったく別物で、あまり長居したくなかった。

「イルミ、これ……」
「あぁ、もう1週間くらい経つからね。だから下で待ってればって言ったのに」
「だって……」

呟いたなまえは少し青ざめていて、それこそ死体なんて見たら卒倒しそうだ。前のイルミが壁になっているおかげで部屋の中は見えていないようだが、こちらに背を向けてしまった。今吸ってしまった淀んだ空気を吐き出さんばかりに、大きく深呼吸している。

仕方なく一人で部屋に入ったイルミは床に転がる女だったものには目もくれず、目当ての漫画をビニール袋に詰め込んで回収した。念に堪え切れずに死んだ女はきっと不審死扱いで調べられるだろうが、調べたところで何がわかるわけでもない。マンションのカメラに映らないよう出入りは窓を使っていたし、そもそもこの世界に存在しないはずのイルミを捕まえること自体どう考えても不可能だった。

「お待たせ」

ものの数分で部屋を出たイルミはベランダで待っていたなまえにそう声をかけた。倒れられても吐かれても迷惑なので、彼女の視界に死体が映りこまないように配慮して立ち位置を考える。振り返ったなまえは眉根を寄せてこちらを見上げた。

「……このまま放っておいていいものなの?」
「さぁ。どうでもいいよ。通報したければすれば?」
「……なんかさ、可哀想なんて言うつもりはないけど怖いなって」
「怖い?オレが?」

漫画を読んでいたなまえはイルミが暗殺者であることを知っているだろう。それでも今まで普通に言葉を交わしていたから、彼女は別に気にしていないのだと思っていた。正直、家業に誇りを持つイルミとしては怖がられたところで不快には思わないものの、面と向かってはっきり言われたことには少し驚く。

彼女は上手く言えないけど……と複雑そうな表情で口を開いた。

「イルミがこっちの世界に来て、初めて会ったのがあの人なんでしょ?あの人が死んだ理由はそれだけなんでしょ?
私があそこで腐ってても、なんらおかしくなかったんだなって思うと怖いなって……」

「なるほど、そう言われればそうだね」

まさか自分が漫画になんてなっているとは思わないから、キルアの名前を出した女には少し手荒い扱いをしてしまった。そして次に現状を理解してから出会ったなまえには、逆に漫画を知っているからこそ協力を求めている。「なまえは運がよかったんだよ」イルミは空いた方の手で彼女をだき抱えると、降りるよ、と声をかけた。

「え、ホントにここから降りるの?」
「だってここから登っただろ」
「登るのと降りるのは違うよ!」
「だから下で待ってればって言ったのに……うるさくしたら落とすから」
「ちょっ、待っ」

慌てながらも両手で自分の口を固く塞いで、なまえはぎゅっと目を瞑る。心配しなくても本当に怖い時は声なんかでない。今まで多くの人間を殺してきたけれど、悲鳴を上げることのできた奴は少なかった。

「ねぇ、なまえ。オレが怖い?」

地上に降りて手を放すと、なまえはへなへなと地面に座り込んだ。深刻そうだった表情は何処へやら、情けなくも泣き出しそうな顔をしている。きっともう今は部屋の死体のことなんか頭からすっぽり抜け落ちているだろう。

「怖かった……もう二度とイルミに運ばれたくない」
「そうじゃなくてさ。オレ自体のこと、怖い?」

落下を終えてなまえの様子を見たイルミは、なんとなく彼女の真意が知りたくなった。人間、怖いことに直面するとよくも悪くも正直になる。それはやはり彼女にも当てはまるようで、瞬きを繰り返した後、半分怒りながらなまえは質問に答えた。

「な、なんなのよ突然。そんなの怖いに決まってるでしょ。あえて触れなかったけど、だって、」

─イルミは暗殺者なんだから!

口にしてから一拍遅れて、なまえはハッとした表情でこちらを見た。おそらく、黙り込んだイルミに自分が失言をしたとでも思ったのだろう。だがイルミにとってそれは聞きたかった言葉で、むしろこの異世界での自分の存在を認められたような気がした。

「……あ、ごめ……」
「よかった」
「え?」

「なんでもない」

立てる?と手を差し伸べれば、彼女は気まずそうにイルミの手を取った。触れた彼女の手が温かくて、自分の体温が低いことを理解する。

「怖がらなくても、なまえは殺さないよ」
「……うん」
「とりあえず、今のところはね」

次の瞬間、立ち上がった彼女に無言で思い切り手を払われた。

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