- ナノ -

■ 06.毒よりまずい

しかし、返事はなかったものの、その後イルミは一言も発さずに集中してワークに取り組んでいた。気配を消すのは癖になっているのか、話しかけられないとついつい彼がそこにいるのを忘れそうになる。

途中でコーヒーでも飲もうかと席を立ったなまえは、イルミのことを思い出してカップを二つ取り出した。生憎なまえの家にあるのはインスタントだが、こういう些細なところから慣れてもらわないと困る。黙って机の上に置いてみれば、彼は視線をあげてちらりとこちらを見た。与えていたワークの山は後少しで終わりそうだった。

「義務教育レベルまでできたら、日常生活ではもうほとんど問題ないんじゃない?」
「思ってたより簡単だね」

勉強していた手を止め、イルミはカップに手を伸ばした。中身を食い入るように見つめるから、毒は入ってないよなんて冗談めかして笑う。「でもまずい」ようやく口をつけたイルミは遠慮もなしに味の感想を述べた。

「毒よりまずいインスタントコーヒーってなんだか詩的かも」
「……なまえってクロロみたいなこと言うんだね」
「まぁ昼下がりじゃなくて今は夕方のコーヒブレイクだけどね」
「なにそれ」
「あ、そっか。知らないのか」

確かにあれはヨークシンでの出来事で、イルミはほとんど最後しか出てきていなかった。怪訝そうに首を傾けるイルミに、後で漫画を読んだらわかるよとぼかして説明する。
話している間にもワークを解いていたイルミは、最後の一冊を片付けるとふぅ、と小さく息を漏らした。

「じゃあそろそろ暗くなってきたし、漫画を取りに行ってくる」
「別にもう戻ってこなくてもいいんだよ」
「何言ってんの?協力するって言ったでしょ」
「言ったというか言わされたんだけどね」

座っていたイルミが立ち上がると、改めて彼の身長が高いことを感じる。そういえばあの派手な服は着替えたようだが、長髪といい変装してもかなり目立つだろう。今更になって着替えとか寝る場所とか、生活するにあたって足りないものがたくさんあることに気が付いた。

「漫画を取りに行くついでに、買い物に行こうよ」
「買い物?」
「イルミの生活用品とか。このまま出てってくれるなら要らないけど」

そもそも彼はいつまでうちにいるつもりなのだろう。協力すると言っても正直その場しのぎの出まかせに過ぎず、なまえには何の策もなかった。文字を覚えてまたひとつなまえがいなくても生きていけるようになった彼は、そのうちふらりと消えるのだろうか。消えるのは構わないが、その時はどうか殺さないで欲しいと思った。

「出て行かないけど、要るものはよくわからないからなまえに任せるよ。オレにかかったお金は計算してまとめてくれたらそのうち返すし」
「返すってどうやって」
「裏稼業だし、お金の綺麗さにはこだわらないでしょ?」
「……」

真面目なのか、不真面目なのかよくわからない。ただイルミはわりとそういうところはきっちりしているらしく、そのうち返すという言葉は本当だろう。なまえは決して裕福ではなかったからその申し出はありがたいし、イルミの言う通り金の出所にも関心はなかった。

「わかった。ゾルディックの稼ぎを期待しておくね」
「……なまえさ、まさかと思うけどオレにたかろうとしてない?」
「できることなら家賃もお願いします」
「呆れるね」

ちっとも呆れていない表情で、イルミはそう呟いた。それから長い髪を簡単に結わえると、ここに来た時にしていたサングラスをひょいと鼻の上に乗せる。

「行こうか」

これから暗くなるのに、と思ったけれどイルミは夜目がきくから平気なのだろう。人形のように整った横顔に思わず見とれていたなまえは、彼の言葉に慌てて頷いた。

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