- ナノ -

■ 05.おそろしい単語

実際、イルミの要求は単純なものだった。なぜ居候する側の彼が要求なんて偉そうなことを言っているのかはさておき、彼が提示したのは『イルミが元の世界へ帰れるように協力を惜しまないこと』というただ一点のみだった。だが、意外とこれが曲者であって、帰るための情報を探す前段階として、なまえはいろんなことを彼に教えてやらねばならなかった。

「なにこの問題、オレを馬鹿にしてる?さっきやったやつばっかり並んでるんだけど」

イルミのせいで予定が丸つぶれになり、とりあえず彼を自立させるべきだと考えたなまえは、駅前の本屋に行って漢字のワークやら辞書やらを大量に購入してきた。土の中でも寝られるうえ、何日も飲まず食わずで平気な彼にはそもそも衣食住の心配はないのだし、彼たっての希望でもあった文字を覚えて自分で情報を集められるようになったら、とっととここからお引き取り願おうと思ったのである。だがワークを与えてものの30分もしないうちに、PCに向かって作業するなまえの後ろで不機嫌な声があがった。

「ねぇ、なまえ、これ不良品じゃない?」
「……何事も繰り返し復習が大事って習わなかったの?」

一応先生かつ、家の所有者ということで、あえてイルミに敬語を使うような真似はしなかった。そもそも出会いからして敬語を使っていなかったのだし、向こうの世界観的にもあまり気にならないのか、呼び捨てにされてもイルミも文句を言わない。内心ではまだ警戒していながらも、表面上は気さくな会話が続いた。

「オレもう覚えたし」
「な……」

突き出された単元別テストを見れば確かに全問正解している。しかし即時記憶だけが良くても言語の学習に意味はない。とりあえず全部ワークを片付けてから呼んでよ、と追い払おうとすれば、イルミは逆に身を乗り出してなまえのPCの画面を覗き込んできた。

「えっと、やまかわ……」
「ちょ!勝手に見ないでよ」
「ねぇ、この名前の後ろにある数字ってなに?まさか報酬?」

文字は違えど、数字はハンター世界と一緒である。もう覚えたしというだけのことはあって、イルミは簡単な文ならばすらすらと読めるようだ。これ以上みられないように開いていた画面を縮小化すると、なまえはくるりと椅子を回転させてイルミのほうへ向きなおった。

「イルミには関係ないでしょ」
「なまえってホントに占い師?」
「それを知っても、イルミが帰れる手掛かりにはならないと思う」
「そういうんじゃなくてさ、なんだかパソコンの前で作業してるなまえを見てたら弟のこと思い出して」
「弟って……ミルキ?」

その名を口に出して第一に浮かんだのは彼の巨体で、あんな太ってないんだけどと複雑な気持ちにかられる。だがイルミはそんなこちらの気も知らずに、そう、と頷いて見せた。

「なまえは知ってるんだよね、ミルのことも。オレからしてみればすごく不思議だけど」
「……そういや、あの漫画見たの?」
「うん。前のマンションに置いてあるから、後で取りに行ってくるよ」

確かに、自分たちの行動が絵で記されていたりなんかしたらひどく気持ちが悪いと思う。イルミは落ち着いているように見えるが、内心はどうなのだろう。普通はもっと取り乱してもおかしくないけれど、やっぱりそれはゾルディックの教育の賜物で何事にも動じないように見えるだけなのか。

「イルミはあの話のどのあたりから来たの?」
「……きちんと読んだわけじゃない。でも、おそらく先から」
「あれより先があるのね……」
「うん」

だったらイルミは単なるキャラクターなんかではなく、本当にイルミという一人の人間なのかもしれない。こうして言葉を交わしていても未だに目の前の彼の存在が不確かな気がして、なまえは思わず手を伸ばした。「なに?」しかし彼に触れる前に冷たい声が発せられ、はっとして動きを止める。元々彼の声は無機質で単調なところがあるが、今のそれは無機質ながらどこか刺すような険しさを秘めていた。

「なんでもない」

そう言って誤魔化したなまえの顔を、イルミはじっと見つめていた。だがやがて視線をそらすと、PCから離れて勉強スペースへと戻る。きっと彼はどうしてなまえが手を伸ばしたのか理解したのだろう。存在を確かめられることを拒絶したイルミは心のどこかで『キャラクター』という単語を恐れているようだったが、なまえもそこには触れず、何事もなかったみたいにPCに向き直って作業を再開した。

「まずはあの漫画を読めるようにならなきゃ。描いたやつのことも知りたいし」
「……そうね」
「まぁ、まだ文字を覚えるのにもしばらくかかるから、なまえはカタカタ音でも鳴らしておいてよ」
「カタカタ?あぁ……」

イルミの指しているのがキーボードを叩く音だとわかって、もしかしてこの音をミルキと重ねているのかななんて考えた。そう思うと、酷く子供っぽい。そして同時に憐れにすら思う。

「じゃあ、仕事の邪魔しないでね」

そう言ったけれど、生憎とイルミの返事は返ってこなかった。

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