- ナノ -

■ 01.言ってはいけないその名前

地元を離れての都会暮らしは、思い描いていたほど楽しく希望に満ち溢れたものではなかった。それなりに名の通った会社の内定をもらって、友達や家族に祝福されながら田舎から出てきたものの、実際は仕事に忙殺されて都会を満喫する余裕もない。それどころか街が華やかであればあるほど、真っ暗な一人暮らしのマンションに帰るのは気が滅入る。

静かな廊下に響くヒールの音に溜息が出そうになるのを堪えて、私は鞄の中から部屋の鍵を取り出した。今度遊びに行かせてね、なんて言っていた友達とはもう、ほとんど連絡も取っていない。
所詮、そんな程度の付き合いしかしてこなかったんだろう、なんて自嘲めいた気分で鍵を鍵穴に入れてみて、ようやくそこで異変に気が付いた。

「空いてる……」

まさか鍵を閉め忘れたのか?と思うが、すぐにそんなことは無いと頭の中で否定する。自分はどちらかと言えば神経質な方だし、女の一人暮らしだからと特に気を付けていた。おそるおそるノブを回せば玄関からそのまま続いて見えるリビングも真っ暗で、人の気配はしない。こういう時どうしたらいいんだろう。暗闇の中に踏み出す勇気が出ず、しばらくそこで逡巡。泥棒だとしたら、もう出て行ったのだろうか。いきなり警察を呼んでもいいのか、それともマンションの管理人に連絡を入れるか。どちらにせよ私は自分一人で確かめるのが怖くて、扉を開け放したまま携帯を取り出す。その瞬間。

「…っ!」

暗闇の中からひゅっと白い腕が伸びてきて、ものすごい力で私の腕を引いた。パニックになるが悲鳴を上げようとした口は塞がれ、無情にも部屋の扉は閉められる。体格からして相手は男で、身動きが取れなくなった私は今にも泣きだしそうだった。

「静かにして。お前ここの部屋の住人?」

聞こえてきた声は、場違いなくらい落ち着いている。だが質問に答えなければ殺されると本能的に悟って、私はこくこくと頷いた。

「あーよかった。オレも今混乱してるんだよ。色々聞きたいことがあるんだけど、静かにできるよね?」

本当かどうかはわからないが、相手に今すぐどうこうしようというつもりはないらしい。それにも頷くとあっさりと解放され、男に誘導されるがままにリビングへの方へと向かった。

「電気つけるから、そう怖がらなくていいよ」

まるで自分の家のように振る舞う男と、怯えながら男の動きを注視する私。ぱちり、とスイッチの押される音がして、眩しさに一瞬目を細める。が、電気が付いたことによって初めて男の姿を見ることができた私は、男の風変わりな出で立ちに一瞬呆気にとられた。そして同時に、あるはずのない既視感に襲われる。男のくせに背中まである黒髪の長髪。人形のように無表情で整った顔。こんな人間、会ったら絶対忘れないはずなのに。

「ねぇ、ここはどこ?」
「…え?」
「留守の間に少し調べさせてもらったんだよ。テレビのお蔭で言葉が通じるのはわかったけど、文字が読めない。これ漢字と色々混ざってるよね?」

男はそう言って、ソファーに置きっぱなしだった雑誌の見出しを指さして見せる。生粋の日本人である私よりもずっと黒い髪と瞳で、日本語が読めないというのだ。「何黙ってるの、答えて」急かすように男は雑誌をこちらに近づけたので、私は恐る恐る口を開いた。

「……ここは日本です。だからそれも日本語です」
「日本?そんな国聞いたことないけど」

首を傾げた男は相変わらず平坦な口調のままだったが、どこか彼の周りの雰囲気がぴりぴりと張り詰める。

「オレ、これでも一応世界中の国の位置と名前は習ったんだよ。でも日本なんて国知らない。
……ふざけてると殺すよ?」
「ほ、本当です!」

目の前の男の口から紡がれた物騒な言葉は、他の人間が言えば酷く幼稚な脅し文句だっただろう。だが見知らぬ男が部屋に上がり込んでいるという状況ではとても真に迫って聞こえ、思わずごくりとつばを飲む。
彼はしばらく冷たい目で探るようにこちらを見ていたが、やがてふうとため息をついた。

「……参ったな、移動系の念をかけられた覚えはないんだけど……あぁ、駄目だ思い出せないや。一体どうなってるんだろう、確かオレはじーちゃんと暗黒大陸に渡って……」

独り言をぶつぶつと呟くさまを見て、いよいよこの人は頭がおかしいのではないか、と違う意味で怖くなった。しかし、彼が発した『念』『暗黒大陸』という言葉に、不意に先ほどの既視感の謎が解ける。

「あ……」
「なに?」

思わず声を漏らした私に、彼はまた鋭い視線を向けてきた。私は彼を知っている。でもそんなことはありえない。これでは謎が解けたどころかさらなる深みに嵌ってしまう。そもそもはるか昔に友達から借りて、1回読んだだけなのだ。だから名前もちゃんと思い出せない。思い出せるのは……

「なんなの?」
「キ……ルア」

私の口が、記憶に引きずられるようにして勝手に動く。発した言葉は、かつて読んだ少年漫画のキャラクターの名前だった。そして目の前のこの男は、確かそのキャラクターの兄だったはずだ。精神的な支配で行く手を阻み、洗脳めいた囁きを繰り返していた。この男は─

「なんでお前がキルのこと知ってるの?」
「ぐっ……!」

不意に訪れた痛みと衝撃に、私は何が起こったのかも理解できない。気づくと足は床から離れ、ぎりぎりと彼の指が首に食い込んでいる。酸素不足で頭がくらくらしたが、刺さる爪の鋭い痛みが意識を失わせてはくれなかった。

「お前何者なの?どこでオレ達のことを知った?」

至近距離で見る男の顔は相も変わらず無表情。だが、耐えられないほどの極寒と重圧に、壊れたように身体が震える。「答えて」彼の薄い唇がゆっくり動いて、先ほどよりもずっと低い声を発した。

「ま……んがっ…」
「は?」
「……まんが、の…キャラ、で……」
「意味わかんないんだけど」

本能的な抵抗で首を締め上げている彼の手を剥がそうとするが、もちろん力で叶うわけない。死、という言葉が脳裏によぎる頃にはもがく足の動きも酷く弱々しいものになっていて、そこでようやく男は締めすぎていることに気がついたみたいだった。

「ちょっと。まだ死なれたら困るよ。お前には色々聞きたいことがあるって言っただろ」

その言葉とともに手は離され、私の身体は床へと崩れ折れる。酸素を求めて大きく息を吸い込んだが、かえってむせてしまい激しくせき込んだ。身体中の細胞が生命の危機のため混乱状態にある中で、思考だけは嫌に冷えていく。そうだ、この男は確か暗殺者で……。

「でもさっきから埒が明かないな。聞いても答えるのは意味わからないことばっかりだし……気は進まないけど仕方ないね」

男は荒い呼吸を繰り返す私を見ても眉ひとつ動かさないで、きらりと光るものを取り出した。そしてしゃがみこみ、ぐいと私の頭を鷲掴みにして持ち上げる。「他のことならまだしも、ウチの情報を知ってるんじゃほっとけないからさ」まっすぐ自分に向けられている鋭いもの。それが何をするものかを詳しくは知らなくても、考えられる使い道は一つしかない。

「い……いや……」
「うるさいよ」

悲鳴は喉の奥で押しつぶされた。

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