- ナノ -

■ 27.未来の選択

「ただいまー」

がさがさとビニール袋の音を鳴らしながら、なまえは奥のリビングへと向かって声をかける。この時間ならまだイルミは仕事に出かける前のはずで、そろそろ起きている頃だろう。

「おかえり」

リビングに入ると案の定、イルミはソファーに座って針の手入れをしていた。完全に念が遣えなくなってからもうしばらく経つらしいのに、今でも毎日仕事の前はそうやっている。「買い物?」なまえの荷物にちらりと視線を走らせて、イルミは小首をかしげた。

「うん。牛乳無いの忘れてて。あとついでに、散歩がてらこの辺りを見てたの」

買ったものを袋から取り出し、すぐさま冷蔵庫へとしまう。安全の都合上、前のマンションからは引っ越して、なまえは詐欺師からも足を洗っていた。イルミは相変わらず暗殺業を続けているが、なまえもそろそろ新しい仕事を探さねばと思っている。

「言ってくれたら買ってきたのに」
「仕事帰りに?」
「うん」
「暗殺帰りに牛乳買うってなんだかかっこ悪いな。それにイルミをパシったら高くつきそう」
「なまえなら安くしておいてあげるよ」

いつもながら、冗談なのか本気なのかわからない顔でそんなことを言い、イルミはテーブルの上の針を片付けた。

「タダにはしてくれないんだ?」
「ギブアンドテイクは基本でしょ」
「はいはい、買い物は自分で行きます。で、晩御飯は先?後?」
「まだ時間あるし、先に食べようかな」
「了解、作るね」

”神隠しがない”と告げ、互いの本心をぶつけ合ったあと、驚くほど平穏な日々が続いている。前みたいな、いつ終わるかわからない仮初の平和ではなく、イルミも極端になまえを束縛しなくなった。こうやってなまえが一人で買い物に行っても何も言わないし、ごくごく普通の同居人としての生活が続いている。互いにはっきりとは口に出さないものの、そこには居心地のいい信頼があった。

「それにしても、高級マンションだけあってここに住んでる人みんなお金持ちそうなんだよねー」
「で、なまえはそれを見て、カモにできそうとか考えるんだろ」
「まぁ癖で……でももうやらないよ。正社員は無理だろうけど、新しい仕事探すし」
「別に働かなくてもいいんじゃない?たぶん家賃の足しにもならないよ」

本人に悪気はないのだろうが、辛辣な言葉になまえは苦笑するしかない。

「それはそうだろうけど、ずっとイルミを当てにはできないからね」

そもそもイルミの都合で引っ越すことになったとはいえ、今ではどっちが居候かわからない状態だ。身体の関係はまだあるとはいえ、自分たちが恋人なのかどうか聞いてみたことはない。たとえ恋人だと認めてくれたとしても、”元の世界に帰る”というイルミの意思に変わりはないだろうし、だったら関係性に拘るのは無意味なことだ。なまえはただ別れの時が来るまで、彼と一緒に過ごせたらそれでいい。
今までずっと悩み苦しんでいたことだったけれど、イルミが心を開いてくれるようになると意外にも気にならなくなった。ただの執着とは違う穏やかな関係に、満たされているからかもしれない。

もちろん、その別れが少しでも先のことであればいいな、とは今でも思うけれど。

「オレがいなくなったら、なまえはどうするの?」

いつのまにかキッチンに入ってきていたイルミに、なまえは一瞬ドキリとする。これだけはいつまでたっても馴れない。見事に足音も気配もしないので、夜なんかは特に心臓に悪かった。

「うーん、とりあえずここからは引っ越すかな。絶対家賃払えないし」
「まずお金のことを言うあたり、なまえって可愛げないよね」
「当たり前でしょ、生きてくにはお金が必要なんだから。だいたい牛乳買いに行くだけでギブアンドテイクって言ってた人に言われたくない」

メニューは決めていなかったが牛乳で思い出し、シチューを作ることにする。じゃがいもやにんじん、玉ねぎもあるしちょうどいいだろう。イルミは隣に立ったまま、野菜の下処理から始めるなまえの手元を眺めていた。

「一度贅沢すると生活レベルを下げるのって大変らしいよ」
「そう思うなら、今のうちにたくさん稼いで貯金残しておいて」
「当てにできないってさっき言ったばかりなのに、よくそんなこと言えるよね」
「だって、私が贅沢になったらイルミのせいじゃない」

責任は取ってもらわなきゃ、と冗談めかして言えば、イルミは小さく肩を竦めた。「だからオレがいなくなったらどうするの、って聞いたのに」今のうちに節制しておけということだろうか。別に住んでいるところ以外は贅沢しているつもりが無かったので、なまえは首を傾げる。野菜を切りながら、イルミは何を言ってるんだろうくらいしか考えていなかった。

「もしかしたら”向こうの世界”と”こっちの世界”では時間の流れが違うかもしれないって話、前にしただろ」
「うん、それ私が言ったんだけどね。イルミは放っておかれてるんじゃなくて、単にいなくなってから”向こう”ではまだそんなに経ってないことになってるのかもって」
「そうそう。だからもしかしたら”こっち”で死ぬまでの間に帰れないかもしれないし、逆にある日突然帰ることになるかもしれない」
「うん……改めてそれがどうしたの?」

その話をしたのは結構前だ。イルミはそこで一生帰れないかもしれない可能性を受け入れたし、なまえもなまえで急にさよならが訪れる可能性を受け入れた。たとえ一生帰れないとしても、イルミにとっては自分が捨てられたわけではないという説明の方が良かったらしい。
しかし、今更になってもう一度この話をする意味がわからなかった。

「あのさ、なまえ。ずっと考えてたんだけど……なまえは”この世界”を捨てる気ある?」
「……え?」
「もしアルカを使ってオレが”向こう”に帰れたとしたら、理論上なまえをオレの世界に連れて行けることになる。一応、異世界に行く辛さを知ってるからなかなか言えなかったけどさ……なまえはオレのために”この世界”を捨ててくれる?向こうに行っても、ずっと一緒にいてくれる?」
「……」

予想もしなかった内容に、なまえは咄嗟に言葉が出てこなかった。胸が詰まって色んな感情がこみ上げて来て、ただただイルミの顔を見つめることしかできない。

「……やっぱり、泣くほど嫌?」

そう言われて初めて、自分がぽろぽろ涙をこぼしていることに気が付いた。とりあえず、慌てて首を横に振る。本当にそんなことが可能なのかとか、原作に影響はないのかとか、もちろん思わないわけではない。でも、なによりイルミがそう言ってくれたことが嬉しくて、できることなら自分も”向こう”に行きたいと思った。叶うならずっとイルミと一緒にいたい。

「っ、嫌じゃないよ」
「ほんとに?もちろんちゃんと守るけどさ、やっぱり”向こう”は危険だし、色々と大変なこともあるかもしれない。それでもいいの?」

こんなに何度も念を押すなんて、イルミらしくない。でもそれだけ彼が本気だということだ。なまえも負けじと何度も頷く。本格的に涙が止まらなくなってきて、肩が震えた。

「イルミがいいなら……私も着いてく」
「……そう。じゃあそんなに泣かなくていいのに。紛らわしいよ」

安堵した風に息を吐いたイルミに、なまえは泣きながら微笑む。嬉し泣きだけれど、そう言ってしまうのはなんだか惜しい。

「これは玉ねぎのせいだから」
「今切ってたの、じゃがいもだろ」
「へぇ、イルミでも区別つくんだね」
「どこまでバカにしてるのさ……ま、いいよ、今日は許してあげる」
「機嫌がいいから?」
「そう」

正直に頷いたイルミは、それから「いい加減包丁離しなよ」と呆れた。どうやらあまりの衝撃にずっと握りっ放しだったらしい。

「あのさ、勇気出してプロポーズしたら泣かれて、挙句の果てにずっと包丁向けられてるオレの身にもなってよ」
「ご、ごめん」

確かにムードの欠片もないな、と慌てて包丁を置いたが、改めてプロポーズと言われると身体がじんわりと熱を持った。今更ながら心臓が煩く、彼の顔を見ることが出来ない。しかしイルミはなまえが俯くのを許さず、両手で頬を包み込んで顔を上げさせた。

「あのね、”こっちの世界”に来てたくさん絶望したけど、なまえと会えたのだけは良かったと思うよ。なまえがいなかったら、オレはとっくに壊れてたかもしれない」
「……私も、イルミに会えてよかったよ。辛いこともたくさんあったけど、イルミを好きになってよかった」

口に出すと、また泣きそうになってなまえはぐっと唇を噛んだ。この先、イルミが元の世界に帰れる保証はないし、もっというならなまえが一緒に”向こう”に行ける保証もないのだ。

それでも、今二人が同じ世界に立っていて、気持ちが通じ合った事実は変わらない。
だからこの先どんな結末を迎えたとしても、なまえはきっと言うだろう。

たとえ違う世界の存在でも、人の命を奪う暗殺者であっても、イルミ=ゾルディックのことを好きになって本当に良かった、と。


「ねえ、もし私が嫌だって言ったらどうするつもりだったの?」

少し体重を彼の方にかけると、頬から手を離したイルミはなまえを抱きとめる。彼の腕の中はとても暖かかった。怖いくらいに無表情で人形のようにさえ見えるけれど、イルミは確かにここに存在する、血の通った人間だ。わかりにくいだけで傷つきもするし、悩みもする同じ人間だ。

「うーん……嫌でも来てもらう、かな」

結局、返ってきた彼の返事は酷く正直で、なまえは思わず苦笑した。無理矢理でも連れていくつもりならわざわざ聞く意味があったのだろうか。相変わらず妙なところは律儀なのに、肝心なところで強引だ。

「やっぱり、イルミはイルミだね」

どこにいたって何があったって人の本質は変わらない。そしてなまえはそういう彼の本質的なところに惚れたのだから、もうどんなに強引でも許すしかない。

「当たり前でしょ、何わけわからないこと言ってんのさ」

そのくせ頭上で聞こえたイルミの声は、暗殺者らしからぬ喜びを確かに滲ませていたのだった。

END

→あとがき

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