- ナノ -

■ 26.その想像がきみを殺す

どうしてこんなことになったのだろう。

なまえはぼんやりとしたまま、ただ天井を眺めていた。身体が酷く気だるく、まだはっきりと行為の余韻を残している。時折、イルミの指がなまえの髪を梳いたが、なまえはやりたいようにやらせていた。特に止めさせる理由もない。イルミとこうなったのは別に強要されたからではなく、なまえ自身もそれを心のどこかで望んだからだ。

それにしても身体で繋ぎ止めようとするなんて、お互い酷く馬鹿げていると思う。イルミはなまえという拠り所を失いたくなかった。なまえもなまえで、弟扱いされずにイルミの傍にいたかった。もっと言うなら、交わることでイルミの存在を確かめたかった。彼はこの世界にちゃんと存在するのだと確かめて、安心したかった。

「……なまえ、寒くない?」
「うん、大丈夫」

キスの一件以来、二人の関係は坂道を転げ落ちるように進んでいた。
その割に異様なくらい平穏な生活で、イルミはとても優しい。なまえが仕事をしなくなって、ずっと家にいるからというのもあるだろう。
足の傷はとうに癒えていたが、未だにイルミはなまえの世話を焼く。当初は煩わしくて怖かったそれも、いい加減に慣れた。変に抗議をするよりも大人しくしていたほうが楽だし、酷いことをされるわけでもないのだから何を不満に思う必要があるだろう。なまえは身体を横向きにすると、イルミと向かい合った。するとたちまち、シーツの白とイルミの黒髪のコントラストが目を惹く。何を考えるよりも先に綺麗だな、と感じた。唇が重ねられて柔らかい、とも思った。

けれども一方で、なまえは自分の中に空洞が広がっていくような、そんな感覚も味わっていた。何をしていても、どこか他人事のように感じている自分がいる。一体イルミは今誰の髪を梳いて、誰に口づけたのだろう。「なまえ?」首を傾げてこちらを覗き込んだ彼の瞳に、自分が映っている。なまえは彼の中の自分に向かって、あのね、と言ってみた。唐突に何もかも吐き出してしまいたくなった。

「本当は、神隠しなんてないの」


頭で考えたわけではない。心の声が漏れた、といったほうがふさわしいその呟きには、抑揚の欠片もなかった。相変わらず瞳の中の自分は無表情で、こちらを見つめ返している。が、それも不意に消えてなくなった。イルミが起き上がったのだ。なまえはそんな簡単なことにも気が付かないで、しばらくぼんやりとしていた。

「……イルミ?」
「なんで……」

ぽつりと呟いた彼に、なまえものろのろと身体を起こした。イルミの顔は白を通り越して青ざめている。それを見てようやくなまえも自分が口走ったことの意味を理解した。今更理解したところで、もはや何の意味もなかったけれど。

「なんで、なんでそんなこと言うの……」
「……」

瞬間、室内の空気が鋭い針に変わったみたいだった。
なまえは息を呑んだだけで何も答えられない。だが、イルミはなまえの発言に対して嘘をついていたのか、と責める風ではなかった。

「なんで神隠しなんてないって、言うの。なんで今更オレにそんなこと言うの……」

わなわなと震えた唇が示しているのは、怒りと混乱。そして絶望だ。きっとイルミは神隠しなんてないととっくに知っていたのだろう。頭のいい彼が気が付かないはずがないのだ。それでも認めたくなくて、たとえありえないとわかっていても希望に縋りたかったのかもしれない。

「ねぇなまえ、オレがこっちに来てからどれくらい経つ?」
「……」
「わからないだろうね。それもそうだよ、オレでさえ数えるのをやめたんだから」

吐き捨てるようにそう言ったが、彼は絶対に正確な日数を知っている。そして最低でもその日数の分だけ、帰りたいと思ったはずだ。

「なまえには言わなかったけど、自分でもあちこち神隠しスポットに行ってみたんだよ。他の方法だってもちろん探した。自分がこっちにくる原因となったことも、必死に思い出そうとした。漫画も何回も読んだよ。何か少しでも手がかりになることは無いか、少しでも帰れそうな方法がないか……」

単調なはずのイルミの声が、感情の波に震えている。彼の努力が容易に想像できただけに、なまえは後悔で胸が詰まった。空っぽだった感情の器が急速に満たされていく。鈍麻したふりで本当に現実から目を反らしていたのはなまえの方だったのかもしれない。「イルミ、ごめん……」謝ってどうにかなることではなかったが、なまえはごめん、とうわ言のように繰り返すことしかできなかった。振り払われるのを覚悟で、彼を抱きしめた。

「ごめん、ごめんね。本当にごめん。私自分のことばっか考えてた。だからイルミが優しくしてくれてもずっと虚しくて……そのくせイルミがこのままここにいればいいって何度も思った。イルミが帰りたがってるの、知ってたのに」

今まで溜め込んでいた分を吐き出すように、子供みたいにわんわん泣く。イルミは意外にもなまえを跳ねのけなかった。代わりに、自分自身を落ち着かせるように深呼吸した。

「……なまえはほんと馬鹿だね。オレがなまえのこと利用してたんだってまだわからないの。虚しくて当然だよ」
「わかってたつもりだった。でも頭で考えるよりずっとずっと辛かった」
「……なまえ、」

針のような刺々しい空気は、もうどこにもなかった。あるのは二人を包む惨めさばかりで、どうしようもない現実を享受する以外どうしようもないのだ。しかしながらまた、理由は違えど同じ感情を共有することは、ささやかながら慰めの効果をもたらした。

「本当はね、神隠しよりも確実に帰れる方法をオレは最初から知ってるんだ」
「……え?」
「アルカを使えばいいんだよ。アルカならどんな願いでも叶えられる。命令すればリスクの心配はいらないんだし、家族の誰かがオレを呼び戻してくれればいい。簡単なことだったんだ」
「じゃ、じゃあ……」

言いかけて、なまえはハッとした。その先を言ってしまえば、またイルミを傷つけると気づいたからだ。だがイルミは自らの傷口を抉るように、話すことをやめなかった。

「どうして誰もオレを探して、呼び戻してくれないんだろうね」

「……」
「色々考えたよ。親父達ももしかしてどこかに飛ばされたのかもしれないとか、何か事情があってアルカが使えないのかもしれないとか。でもね、一度”わざと呼び戻さないんじゃないか”って考えだすと止まらなくなった。漫画でキルの心の声を読んで、余計にもしかしてって思った」

ゾルディック家の為に全てを捧げていた彼にとって、その想像ほど残酷なものは無いだろう。しかも日が経てば経つほど嫌な想像は濃くなり、彼を捉えて離さなくなる。

「……ねぇ、なまえ。オレは一体何者なのかな。”イルミ=ゾルディック”ってなんだったんだろう」
「っ、」

なまえはそこで初めて、イルミの心に触れられたような気がした。二人の間を隔てていた透明なガラスが砕け散って、なまえまでもずたずたに引き裂いた。「なんでなまえが泣くのさ」イルミの言う通りだが、止まらないものは止まらない。

「オレに同情してるの?とことん人が好いね」
「ご、ごめん……」
「なまえって、そんなにオレのことが好きなわけ?怖がってたのに?オレのことが好きでなまえに何か得でもあるの?」
「ごめん……」
「さっきからそればっかりだね」

ぼろぼろ涙を零したまま抱き着いているなまえの腕を、イルミはそっと掴んで下ろす。「でも、」そして今度は反対にイルミからなまえを抱きしめ返した。


「オレの為に泣いてくれるのはたぶんなまえだけだよ」

今日のイルミはよく声を震わせる。


[ prev / next ]