- ナノ -

■ 25.残酷な交渉

なまえが誘拐されて以来、イルミの過保護っぷりは本当に酷いものだった。
足の怪我は詮索されるのを恐れたため、普通の医者ではなく裏ルートで診てもらったが、その足の不自由さを差し引いてもイルミの行動は目に余る。なまえはほとんど自宅に軟禁されているも同然で、何をするにもイルミの監視が常にある状態だった。

「なまえ、どうしたの?」
「いや、少し……」
「なに?」

立ち上がっただけでこれだ。初めの頃こそ感謝してもいたが、それは徐々に煩わしさへと変わり、今では怖いとさえ思う。

「喉が乾いただけだから」

本当にキッチンに行きたいだけ。キッチンに行ってコップを出して水を汲む、それだけなのだ。
けれどもイルミはなまえを制すと、座るように促した。

「いいよ、オレが持ってきてあげる」
「大丈夫だよ、それくらい自分でできるから」
「できないよ」

はっきりと言い切るイルミに、なまえは何も言えなかった。言っても無駄だろう、と考えた。

「その程度の怪我の完治にそれだけ時間がかかってるんだから、なまえは安静にした方がいい」
「イルミと一緒にされたら困るよ、普通はそんなにすぐ怪我が治ったりしないんだから」
「そうかもしれないけど、なまえが今不自由なのは事実だ。オレがいないと何もできないくらいにね」

言いながら、はい、と差し出されたコップに素直に手を伸ばしていいものなのか。受け取ってしまってはイルミの言葉を認めた形になりはしないだろうか。なまえは確かにイルミと一緒にいたいのだと自覚したけれど、人形のように扱われるのは受け入れ難い。こうして甲斐甲斐しく世話を焼いてもらえるのは一見お姫様扱いのようだが、この姫には自由がないのだ。我侭を言うことは許されないし、イルミの希望通りの言動しか認められない。現に今、なまえは"イルミがいなければ何も出来ない女"という役割を押し付けられている。

「どうしたの?飲ませてあげようか?」
「え……?」

いくらなんでも冗談が過ぎる、と彼の顔を見上げれば、イルミはいつも通りの真顔だった。そして彼は自らコップに口をつけると、水を含む。瞬間、その先の展開をなまえは理解したけれど、身体は動いてくれなかった。

「あーあ、こぼしちゃ駄目じゃない」

なまえが受け止めきれなかった液体は、重力に従って唇の端を滑り落ちる。茫然とするなまえにイルミは肩を竦めて、ごくごく自然にタオルを取りに行った。

「本当になまえはしょうがないな」

口ではそう言いながら、彼はどことなく嬉しそうに見えた。
柔らかいタオルの感触が肌に触れ、なまえはようやくそこで我に返る。そしてイルミの腕を掴んだ。やめて、という言葉が先に行動になって現れたのだ。

「どうしたの?濡れたままじゃ困るでしょ」
「イルミ……私はあなたの弟じゃない」
「そんなの見たらわかるけど」
「じゃあ、じゃあなんなの?なんで……」

甲斐甲斐しいイルミが不気味だ。自由を一つずつ奪っていくイルミが恐怖だ。一種の恐慌状態に陥ったなまえの頬に、イルミがそっと手を添える。「大丈夫だよ」しゃがみこまれて、視線の高さが同じになった。

「なまえはオレが怖いんだろう?最初からずっとそうだったね。特にオレが暗殺の仕事を始めたあたりから、怖がられてるってわかってた」
「……」
「でも大丈夫だよ。オレはなまえを殺さないから安心して」
「……殺すメリットが無いからでしょう」
「うん、それもある」

イルミの薄い唇が、悪びれもせず本音を綴る。きっと先ほどの行為も”キス”ではないのだろう。

「でも本当になまえには感謝してるんだよ」
「……」
「なまえはあのかくれんぼのときにオレを放っておくことだってできたんだ。それなのに、そうしなかったのは単純にオレが怖いからじゃないだろう?」

全てを見透かすような真っ黒の瞳が二つ、こちらを覗き込んでいる。

「なまえはオレに何を望んでるの?」


息が止まりそうになった。

その囁きは酷く甘くて優しいのに、どうしようもない残酷さを孕んでいる。無償の愛なんてあるはずがないと言われた気がした。そうじゃない、と首を振りたいのにまばたきすらできない。

「私は……」

今のような束縛はやめてほしい。しかしそれはあの時なまえが彼を放っておかなかったせいでもある。イルミから逃げ出したい気持ちとそれでも一緒にいたい気持ちが両方あって、結局のところなまえ自身、自分が何を望んでいるのかはっきりとしなかった。言葉に窮したなまえは、答えを求めるように彼の瞳を見つめ返す。その仕草を彼がどう受け取ったのかはわからない。


「大丈夫だよ、悪いようにはしないから」

ただイルミはそう言うと、首をほんの少し傾けてなまえに口づける。今度のそれは重ねるだけではなく、正真正銘の”キス”だった。

[ prev / next ]